鳴神山遺跡の刀子出土について検討します。
刀子の年代別出土イメージ図を作成し、同じ方法で作成して竪穴住居、紡錘車、鉄鏃と対照させてみました。
刀子と竪穴住居、紡錘車、鉄鏃の年代別出土数イメージの対照
竪穴住居の消長が鳴神山遺跡の消長そのものであると考えます。このグラフパターンと、紡錘車出土イメージパターンは似ていると感じます。
一方このパターンと鉄鏃パターンを比較すると、集落が凋落しだす9世紀第3四半期において、鉄鏃の減少の割合が少ないことに気が付きます。
これは集落が衰退しだしているのですが、盗賊の略奪が激しく、対人殺傷兵器である鉄鏃の需要は高く、守るべき竪穴住居は減ったにも関わらず、それに比例して鉄鏃が減少しなかったことを物語っています。
現時点では集落凋落の主因が盗賊の略奪行為であったと想定しています。
さて、刀子ですが、刀子は万能道具であったといわれています。同時に護身用武器であったとも考えてきました。その2面のうち、歴史書物の記述から受ける印象は万能道具であった点が強調されているように感じてきました。
鳴神山遺跡の刀子の年代別出土イメージをみると、鉄鏃以上に9世紀第3四半期の減少が少なくなっています。
このグラフから、9世紀第2四半期以降は、専用武器(鉄鏃)以上に刀子が集落防衛のための武装具として大切なものであったことが判ります。
恐らく、刀子は集落の上層階層の男子全員が常時所持していて、盗賊の来襲時には武器として利用したものと考えます。
鉄鏃は槍と弓矢という武器で戦闘員(「大加」集団)が先鋒として使い、その後一般男子が刀子で応戦したものと想像します。
上記出土数イメージグラフから刀子の意義について、より深く認識することができました。
鳴神山遺跡では、9世紀第1四半期までの刀子の意義は、恐らく万能道具の方に重点があり、9世紀第2四半期以降は武器としての役割に重点があったものと認識します。
次に、年代別に鉄鏃と刀子の出土分布イメージ図を対照させてみました。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第1四半期
同じ1つの竪穴住居から鉄鏃1点と刀子4点が出土しています。
この場所が直線道路から離れているので、この時代にはまだ直線道路は作らていなかったように感じます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第2四半期
直線道路南側で、道路近くに一定間隔で刀子出土竪穴住居が分布します。
この時代には道路が使われていたことは確実であると考えます。
直線道路と刀子出土竪穴住居が関係あると推定します。
道路に面していて、道路利用者との何らかの交渉(関係)を持っていたと推定します。他の出土物や墨書文字などから道路との関係が浮かびあがるかもしれません。(例 他地域との交流を示す出土物の比率が大きいなど)
鉄鏃と刀子の出土イメージ 8世紀第4四半期
集落の発展がピークとなり、鉄鏃、刀子ともに前の時代より急増します。
集落が発展して経済的豊かになるとともに、それを略奪する盗賊の来襲が増えたことを物語っていると考えます。
鉄鏃と刀子出土の数がともに多い竪穴住居がいくつかあり、砦(防衛拠点)のような役割を果たしていたと考えます。
鉄鏃出土竪穴住居より刀子出土竪穴住居の方が多いのは、鉄鏃の使用者は戦闘員(武士)であり、刀子の使用者は一般男子であったからだと考えます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 9世紀第3四半期
集落が衰退しだしていて、鉄鏃出土は減りますが、刀子出土はほとんど減りません。
盗賊の来襲が激しく、戦闘員だけでなく一般男子も盗賊に対抗して戦う必要性がそれまで以上に増大したからだと考えます。
鉄鏃と刀子の出土イメージ 9世紀第4四半期
0 件のコメント:
コメントを投稿