2017年5月2日火曜日

竪穴住居の時期変遷

大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 竪穴住居の時期変遷

この記事では中期末葉~後期中葉竪穴住居の時期変遷を概観します。
今後多様な情報を時期別分布別に考察することのよって有用な情報が生まれると確信しますが、その基礎作業になります。

1 時期別竪穴住居数

大膳野南貝塚 中期末葉~後期中葉 時期別竪穴住居数

堀之内1式期に顕著なピークを持つ集落です。

2 時期別分布
時期別分布を順に示します。

1 加曽利E4~称名寺古式期 竪穴住居祉

2 称名寺~堀之内1古式期 竪穴住居祉

3 堀之内1式期 竪穴住居祉

4 堀之内2式期 竪穴住居祉

5 堀之内2~加曽利B1期 竪穴住居祉

6 加曽利B1~B2式期 竪穴住居祉

後期(詳細時期不明) 竪穴住居祉

3 考察
3-1 集落分布の中心域
全竪穴住居プロット図からヒートマップを作成して、集落分布中心域を把握しました。

中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップ
半径パラメータ20m。赤い部分が竪穴住居祉が密集している様子を表現してます。

ヒートマップで赤い部分、つまり集落中心域は台地と東側谷津斜面との境界付近になります。
この付近が集落中心域になった理由は次のように考えます。
●心性出自が狩猟民の縄文人は狩猟に便利な台地面居住を好んだ。(谷底や低地居住は論外だった。)
●台地東側谷津の方が西側谷津より斜面が短く、谷津谷底に降りやすいので台地面東側を居住地として選んだ。
そうすることによって、谷底の小川から飲料水を得やすい状況が生まれた。
同時に漁撈活動で荷物を持って海と行き来する際、エネルギー消費が少ないという利点も生まれた。

3-2 ヒートマップと貝層・地点貝塚との関係

中期末葉~後期中葉竪穴住居祉ヒートマップと貝層・地点貝塚

竪穴住居祉ヒートマップと貝塚分布が大幅に重なっています。
竪穴住居の回りに貝塚が形成されたというプロセスではなく、竪穴住居祉(廃絶竪穴住居)が送り場となり、その送り場が貝塚に発展したプロセスが観察できます。
貝塚そのものが送り場といわれる所以です。

集落が爆発的に発展する3堀之内1式期より以前の「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」の場所がその後の貝塚の場所を規定したことが判ります。

「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」・「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」とヒートマップ、貝層・地点貝塚分布

最初に、この付近で定住する場合、台地と東側谷津との比高が西側谷津より少なく、飲料水獲得や海との交通の便で有利なので、その理由から「1 加曽利E4~称名寺古式期竪穴住居祉」と「2 称名寺~堀之内1古式期竪穴住居祉」が立地したと考えます。

一度そこに竪穴住居が立地すると、その竪穴住居が廃絶すると後続の竪穴住居はその近隣に立地するとともに、廃絶竪穴住居祉は送り場となります。
送り場で送る物が増え、かつ腐らない貝殻が増えると、最初の竪穴住居の穴では送る物を置く場所が足りなくなり、穴周辺に貝塚が拡大しだします。

時間が経てば貝塚近辺の廃絶竪穴住居が増え、そこも送り場になり、そのうちにそれも貝塚に吸収されます。

竪穴住居祉密集域と貝塚分布域がほぼ重なる現象はこのような現象であると理解することができました。

なお、集落ピーク期が過ぎた「5  堀之内2~加曽利B1期」以降も竪穴住居は貝塚付近に立地します。これは送り場付近に住みたいという衰退期集落縄文人の内向きな心性が存在していたと考えます。

反対に集落ピーク期の「3 堀之内1式期」には送り場近辺以外の場所に竪穴住居が広がります。発展期集落縄文人の進取の心性がそこに存在していたと考えます。

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