鳴神山遺跡が大結馬牧であるという新仮説を立てました。
大結馬牧が船橋にあったという既存説明に説得力がなく、同時に鳴神山遺跡の正業としての牧を大結馬牧として捉えると多様な情報をセットで合理的に説明できることから生まれた仮説です。
印西台地(鳴神山遺跡)における馬牧開発の背景に、大化の改新後中央政府が下総国を東北進出の一大兵站基地とするための総合開発があったことを考えると、その馬牧開発が律令国家肝いりの諸国牧開発であると考えることが、印西台地の戦略的位置からして必然であると考えました。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」参照
この仮説により鳴神山遺跡出土墨書文字「播寺」「波田寺」が大塚前廃寺の名称であると推定できました。
播寺(大塚前廃寺)は鎮護国家の観点から大結馬牧に付属する仏教寺院であると仮説しました。
2017.10.27記事「印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)」参照
この記事では墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡に深い関わりがあり、その関わりから大結馬牧のおおよその空間的広がりをイメージしてみました。
1 大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
大結馬牧(仮説)に関わる主な遺跡として、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、大塚前遺跡、南西ヶ作遺跡の4つを挙げることができます。
大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
2 墨書文字共通性からみた鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡の親近性
鳴神山遺跡で特徴的な墨書文字は「大」「大加」などがあります。
「大」は大国玉神、大国神、大神などの大であると推定しています。
また「大加」はオオカミと読むのではないかと推定しています。(以前「大加」の加を加勢の加と考えましたが、その考えは廃棄します。)
大国玉神、大国神、大神を念頭にすべてオオカミと発音し、その発音を「大加」と略してかいたのではないかと推定しています。「大加」は文字でありながら一種のロゴマークのようなものであったと考えます。
実際に「大加」は線刻では特徴的な組文字になっていて、図案化しています。墨書文字も大の下に組文字風に加が小さく添えられ図案化しています。
この「大加」(墨書)が南西ヶ作遺跡からも出土します。
南西ヶ作遺跡出土墨書土器(例)
「大加」の図案風書き方は鳴神山遺跡出土墨書と似ています。
また「大加」は千葉県で鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡だけから出土します。
こうした事情から南西ヶ作遺跡は鳴神山遺跡と交流があったことは確実です。
「大加」の他に、その語源と推定できる「大国玉」も双方の遺跡から出土します。
また、共通して出土する「佛」の書体をよく見ると、南西ヶ作遺跡出土の蓮花も書かれた土器の「佛」と鳴神山遺跡出土「佛」が酷似しています。
播寺(大塚前廃寺)の僧侶が鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡を回り、それぞれの集落で土器に墨書をして住民に布教活動をした可能性が浮かび上がります。
このような墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡は親近性があります。
南西ヶ作遺跡が戸神川東岸に位置していることを考慮すると、鳴神山遺跡の出先機能を有する集落であった可能性があります。
3 大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
4つの遺跡が大結馬牧(仮説)に関わっていたことを念頭にその牧場地区(馬を放し飼いにする地区)の範囲をイメージすると次のようになります。
大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
馬を放し飼いにする牧場地区は戸神川流域であったと考えられます。
戸神川の本支谷津が合流する部分より上流部では谷津が浅い谷になっていて、放し飼いされた馬が台地からいつでも谷底水飲場に下りられる地形になっています。この浅い谷を軸に牧場地区が設定されていたと考えると合理的です。
空想の域を出ませんが、鳴神山遺跡が牧全体の統括と牧南西部の管理、播寺(大塚前廃寺)付近に存在していたであろう寺院サポート集落が牧北西部の管理、南西ヶ作遺跡が牧北東部の管理、船尾白幡遺跡が牧南東部の管理に関わったと考えます。
なお、船尾白幡遺跡の東北東の戸神川流域内に多々羅田という地名があり、遺跡包蔵地となっていて鉄滓が出土しています。どの時代の製鉄遺跡か不明ですが、大結馬牧の時代(奈良・平安時代)のものである可能性もあります。その場合、その場所が大結馬牧の馬具工房であったと考えられます。
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