2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」で 鳴神山遺跡こそが大結馬牧であるという仮説を立てました。
この仮説が生まれた瞬間の思考はつぎのようなものです。
「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説が生まれた瞬間
鳴神山遺跡の牧が国家的重要性があると気が付いたことと、大結馬牧船橋説の根拠薄弱に気が付いたことが重なったためです。
大結馬牧船橋説がしっかりしていればこの仮説がうまれる余地はありません。
大結馬牧船橋説の根拠虚弱性検討は次の記事でおこなうことにして、この記事では鳴神山遺跡が典型古代牧の様相を呈していて、国家的重要性がある様子をメモします。
1 鳴神山遺跡が典型古代牧の様相である様子
古代牧関連遺構は次の6つの施設から構成されるという研究があります。
1 牧場地区(牧本体。草原であり遺構は少ない。土塁・堀・柵列などが牧認定の根拠となる。)
2 繋飼地区(厩舎。駅路・居館・官衙・宮都・寺社などに付設される。)
3 管理地区(官衙的な事務空間(検印・礎石建物・文房具、馬具工房)、検印のための土塁・柵列など)
4 居住地区(牛馬飼育集団の居住集落。牛馬骨や馬具の出土、皮革加工などの痕跡を伴う。)
5 牧田地区(牛馬飼育集団が自営するための田畑。)
6 墳墓・祭祀地区(埋葬牛馬、牛馬殉葬、殺牛馬儀礼。)
(桃崎祐輔(2012):牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-;日韓集落の研究 弥生・古墳時代及び無文土器~三国時代(最終報告書)、日韓集落研究会 による)
この6つの施設区分の考えを鳴神山遺跡に適用すると、次のように具体例が浮かび上がり、その場所を地図に投影することができます。
●牧関連6施設の鳴神山遺跡投影
1 牧場地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布の北側)
2 繋飼地区(直線道路行軍将兵に軍馬を支給した可能性のある総柱掘立柱建物の付近)
3 管理地区(リーダー氏族名のある墨書土器や羽口が出土付近)
4 居住地区(牧集団を示す墨書文字「大」分布域)
5 牧田地区(養蚕痕跡の濃い地域)
6 祭祀地区(馬骨出土祭祀跡井戸付近)
鳴神山遺跡牧遺構ゾーン区分推定
2 鳴神山遺跡牧が国家的戦略的重要性を帯びている様子
牧と東北進出用行軍道路がセットで建設されていることから、このセットには律令国家東北進出の国家的戦略性が備わっていたと考えます。
2017.11.01記事「鳴神山遺跡直線道路が行軍用一方通行道路であった可能性」参照
2017年11月9日木曜日
2017年10月29日日曜日
大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
鳴神山遺跡が大結馬牧であるという新仮説を立てました。
大結馬牧が船橋にあったという既存説明に説得力がなく、同時に鳴神山遺跡の正業としての牧を大結馬牧として捉えると多様な情報をセットで合理的に説明できることから生まれた仮説です。
印西台地(鳴神山遺跡)における馬牧開発の背景に、大化の改新後中央政府が下総国を東北進出の一大兵站基地とするための総合開発があったことを考えると、その馬牧開発が律令国家肝いりの諸国牧開発であると考えることが、印西台地の戦略的位置からして必然であると考えました。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」参照
この仮説により鳴神山遺跡出土墨書文字「播寺」「波田寺」が大塚前廃寺の名称であると推定できました。
播寺(大塚前廃寺)は鎮護国家の観点から大結馬牧に付属する仏教寺院であると仮説しました。
2017.10.27記事「印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)」参照
この記事では墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡に深い関わりがあり、その関わりから大結馬牧のおおよその空間的広がりをイメージしてみました。
1 大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
大結馬牧(仮説)に関わる主な遺跡として、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、大塚前遺跡、南西ヶ作遺跡の4つを挙げることができます。
大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
2 墨書文字共通性からみた鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡の親近性
鳴神山遺跡で特徴的な墨書文字は「大」「大加」などがあります。
「大」は大国玉神、大国神、大神などの大であると推定しています。
また「大加」はオオカミと読むのではないかと推定しています。(以前「大加」の加を加勢の加と考えましたが、その考えは廃棄します。)
大国玉神、大国神、大神を念頭にすべてオオカミと発音し、その発音を「大加」と略してかいたのではないかと推定しています。「大加」は文字でありながら一種のロゴマークのようなものであったと考えます。
実際に「大加」は線刻では特徴的な組文字になっていて、図案化しています。墨書文字も大の下に組文字風に加が小さく添えられ図案化しています。
この「大加」(墨書)が南西ヶ作遺跡からも出土します。
南西ヶ作遺跡出土墨書土器(例)
「大加」の図案風書き方は鳴神山遺跡出土墨書と似ています。
また「大加」は千葉県で鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡だけから出土します。
こうした事情から南西ヶ作遺跡は鳴神山遺跡と交流があったことは確実です。
「大加」の他に、その語源と推定できる「大国玉」も双方の遺跡から出土します。
また、共通して出土する「佛」の書体をよく見ると、南西ヶ作遺跡出土の蓮花も書かれた土器の「佛」と鳴神山遺跡出土「佛」が酷似しています。
播寺(大塚前廃寺)の僧侶が鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡を回り、それぞれの集落で土器に墨書をして住民に布教活動をした可能性が浮かび上がります。
このような墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡は親近性があります。
南西ヶ作遺跡が戸神川東岸に位置していることを考慮すると、鳴神山遺跡の出先機能を有する集落であった可能性があります。
3 大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
4つの遺跡が大結馬牧(仮説)に関わっていたことを念頭にその牧場地区(馬を放し飼いにする地区)の範囲をイメージすると次のようになります。
大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
馬を放し飼いにする牧場地区は戸神川流域であったと考えられます。
戸神川の本支谷津が合流する部分より上流部では谷津が浅い谷になっていて、放し飼いされた馬が台地からいつでも谷底水飲場に下りられる地形になっています。この浅い谷を軸に牧場地区が設定されていたと考えると合理的です。
空想の域を出ませんが、鳴神山遺跡が牧全体の統括と牧南西部の管理、播寺(大塚前廃寺)付近に存在していたであろう寺院サポート集落が牧北西部の管理、南西ヶ作遺跡が牧北東部の管理、船尾白幡遺跡が牧南東部の管理に関わったと考えます。
なお、船尾白幡遺跡の東北東の戸神川流域内に多々羅田という地名があり、遺跡包蔵地となっていて鉄滓が出土しています。どの時代の製鉄遺跡か不明ですが、大結馬牧の時代(奈良・平安時代)のものである可能性もあります。その場合、その場所が大結馬牧の馬具工房であったと考えられます。
大結馬牧が船橋にあったという既存説明に説得力がなく、同時に鳴神山遺跡の正業としての牧を大結馬牧として捉えると多様な情報をセットで合理的に説明できることから生まれた仮説です。
印西台地(鳴神山遺跡)における馬牧開発の背景に、大化の改新後中央政府が下総国を東北進出の一大兵站基地とするための総合開発があったことを考えると、その馬牧開発が律令国家肝いりの諸国牧開発であると考えることが、印西台地の戦略的位置からして必然であると考えました。
2017.10.22記事「大結仮説 鳴神山遺跡が大結馬牧であるとする新仮説」参照
この仮説により鳴神山遺跡出土墨書文字「播寺」「波田寺」が大塚前廃寺の名称であると推定できました。
播寺(大塚前廃寺)は鎮護国家の観点から大結馬牧に付属する仏教寺院であると仮説しました。
2017.10.27記事「印西市大塚前廃寺の名称は播寺(波田寺)」参照
この記事では墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡に深い関わりがあり、その関わりから大結馬牧のおおよその空間的広がりをイメージしてみました。
1 大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
大結馬牧(仮説)に関わる主な遺跡として、鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、大塚前遺跡、南西ヶ作遺跡の4つを挙げることができます。
大結馬牧(仮説)に関わる遺跡
2 墨書文字共通性からみた鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡の親近性
鳴神山遺跡で特徴的な墨書文字は「大」「大加」などがあります。
「大」は大国玉神、大国神、大神などの大であると推定しています。
また「大加」はオオカミと読むのではないかと推定しています。(以前「大加」の加を加勢の加と考えましたが、その考えは廃棄します。)
大国玉神、大国神、大神を念頭にすべてオオカミと発音し、その発音を「大加」と略してかいたのではないかと推定しています。「大加」は文字でありながら一種のロゴマークのようなものであったと考えます。
実際に「大加」は線刻では特徴的な組文字になっていて、図案化しています。墨書文字も大の下に組文字風に加が小さく添えられ図案化しています。
この「大加」(墨書)が南西ヶ作遺跡からも出土します。
南西ヶ作遺跡出土墨書土器(例)
「大加」の図案風書き方は鳴神山遺跡出土墨書と似ています。
また「大加」は千葉県で鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡だけから出土します。
こうした事情から南西ヶ作遺跡は鳴神山遺跡と交流があったことは確実です。
「大加」の他に、その語源と推定できる「大国玉」も双方の遺跡から出土します。
また、共通して出土する「佛」の書体をよく見ると、南西ヶ作遺跡出土の蓮花も書かれた土器の「佛」と鳴神山遺跡出土「佛」が酷似しています。
播寺(大塚前廃寺)の僧侶が鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡を回り、それぞれの集落で土器に墨書をして住民に布教活動をした可能性が浮かび上がります。
このような墨書文字の共通性から鳴神山遺跡と南西ヶ作遺跡は親近性があります。
南西ヶ作遺跡が戸神川東岸に位置していることを考慮すると、鳴神山遺跡の出先機能を有する集落であった可能性があります。
3 大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
4つの遺跡が大結馬牧(仮説)に関わっていたことを念頭にその牧場地区(馬を放し飼いにする地区)の範囲をイメージすると次のようになります。
大結馬牧(仮説)の牧場地区イメージ
馬を放し飼いにする牧場地区は戸神川流域であったと考えられます。
戸神川の本支谷津が合流する部分より上流部では谷津が浅い谷になっていて、放し飼いされた馬が台地からいつでも谷底水飲場に下りられる地形になっています。この浅い谷を軸に牧場地区が設定されていたと考えると合理的です。
空想の域を出ませんが、鳴神山遺跡が牧全体の統括と牧南西部の管理、播寺(大塚前廃寺)付近に存在していたであろう寺院サポート集落が牧北西部の管理、南西ヶ作遺跡が牧北東部の管理、船尾白幡遺跡が牧南東部の管理に関わったと考えます。
なお、船尾白幡遺跡の東北東の戸神川流域内に多々羅田という地名があり、遺跡包蔵地となっていて鉄滓が出土しています。どの時代の製鉄遺跡か不明ですが、大結馬牧の時代(奈良・平安時代)のものである可能性もあります。その場合、その場所が大結馬牧の馬具工房であったと考えられます。
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