白幡前遺跡では牧と武士集団、輸送集団との関係が密接であることが判りました。
2017.10.16記事「白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係」参照
鳴神山遺跡でも同じことが言えますので記述します。
1 墨書文字「大」集団、「大加」集団について
墨書文字「大」(オオ)集団と「大加」(オオカ)集団は集落の北側に竪穴住居をかまえ、牧の現業に関わる集団であると考えています。
「大」は下総各地に同族を持つ氏族的集団であると考えています。「大加」は「大」に加勢するという意味であり、新たに「大」一族に従った寄せ集め外人部隊であると想像しています。
なお、例えば墨書「依」(キヌ…養蚕)集団は集落の南側に竪穴住居をかまえ、牧現業集団の生活を支えるサポート集団であり、養蚕、漆、食料生産などに関わっていたと考えています。たとえば養蚕に使う掘立柱建物や製糸に使う紡錘車の出土は集落南側に集中しています。
墨書文字「大」の分布
墨書文字「大加」の分布
参考 墨書文字「依」の分布
2 墨書文字「大」「大加」出土と武器出土の関係
集落が最盛期を迎えた9世紀第2四半期でみると「大」出土と鉄鏃出土が強く相関するとともに、「大加」と「弓」が同じ土器に書かれます。「弓」は武装勢力であることを直接示します。
なお「大加」出土竪穴住居から刀子は出土しますが、鉄鏃の出土はなく、外人部隊である「大加」集団(武装集団)が外敵と戦うための武器(鉄鏃)は日常的には所持していないことがわかり、親集団の「大」と雇われ集団の「大加」の関係が見えて興味が増します。
9世紀第2四半期の「大」「大加」
9世紀第2四半期の「大」「大加」 説明
鉄鏃の集中出土と「大」出土が強く相関し、「大」集団の武装化が進んだ様子が次の図でわかります。
9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土
9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土 説明
牧の現業を担う集団の武装化がすすみ、武士集団となっていく様子がよくわかるデータとなっています。
牧集団が武士集団になっていく理由の最大のものは、牧集団が単純に馬生産に特化してたわけではなく、9世紀になると生産した馬を使って運送業を行い、街道での盗賊から身を守ることが必要であったからであると考えます。
なお、墨書文字「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団は関西から鳴神山遺跡に来た輸送専門集団であると想像しています。
武装化は牧や集落を盗賊から守るための自衛でもあったと考えます。
しかし、9世紀末頃の制度的混乱で無政府状態が生まれ、俘囚の反乱や群盗の蜂起が相次ぎ、牧が盗賊に襲われる機会が増し、逆に武装した牧集団が盗賊にもなり、下総の牧は一気に凋落したと考えます。
武装した牧集団がその後の専業武士集団誕生の母体の一つになったと考えます。
2017年10月18日水曜日
2017年10月16日月曜日
白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係
白幡前遺跡、鳴神山遺跡、上谷遺跡などの生業が牧であり、特に白幡前遺跡と鳴神山遺跡は官牧(延喜式における諸国牧)従事集団の居住地区としての集落であることが判ってきました。
同時に、これらの集落の遺物(特に墨書文字)からは武士集団や輸送集団の存在が浮かび上がっています。
牧という生業は単純な家畜生産業務だけではなく、騎馬に関連する戦闘員の駆り集め養成や専門従事者による荷物馬輸送も行っていたようです。
その様子を遺跡毎に考察することにします。
この記事では萱田遺跡群(白幡前遺跡)について考察します。
1 萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」について
萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」は次のように変化してきています。
萱田遺跡群における墨書文字「生」の変化
この変化から「生」の原義は人や生命を表現すると考えます。
2 萱田遺跡群における刀子・鉄鏃と「生」分布の強い相関
萱田遺跡群では出土金属製品の種類をみると刀子が1位、鉄鏃が2位となり武器出土が特に目立っています。鉄器は生産生活用具ではなく武器がメインとなっています。
萱田遺跡群金属製品出土数
萱田遺跡群内部における刀子・鉄鏃の分布と墨書文字「生」の分布をみるとその間に強い相関がみられます。つまり武器の多いゾーンには墨書文字「生」も多いということです。
竪穴住居10軒あたり刀子出土数
竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数
ゾーン別墨書土器の代表文字(白幡前遺跡、井戸向遺跡)
3 墨書文字「生」の解釈
武器と墨書文字「生」の相関が強いことから「生」の意味を一例として「白兵戦で生き残る」と解釈しました。「生」は「武士が戦いの中で勝って自分の命を守る」という祈願であると考えました。
同様に墨書文字の解釈を行い、次に示します。
ゾーン別墨書土器代表文字の意味イメージ(想定)
参考
〇…則天文字「星」→白星(相撲の星取表と同じ)であり、戦勝祈願を意味します。
継…都と戦地を繋ぐと解釈します。輜重部隊、輸送部隊の仕事完遂祈願です。
4 土坑から人骨が出土した意味
武器出土が多く、また墨書文字「生」出土が多い白幡前遺跡1Aゾーン土坑(P-168)から馬2頭と人1体が出土しています。
馬2頭と人1体出土位置
馬骨出土は律令国家の蝦夷戦争に関わる牧発展祈願であると想像しました。
人骨出土はこの祈願が単純な家畜増産祈願ではなく、1人の人間の命を身代わりで神にささげることによって、戦地に赴く武士集団の命確保を同時に祈願したことを物語っていると考えます。
武士集団が集まった中で1人の人間(*)を殺す瞬間を見せ、白兵戦で勝ち抜く覚悟を植え付けたのだと思います。
*犯罪者とか俘囚(蝦夷)だったと考えます。
つまり牧発展という概念の中に馬増産と同時に覚悟のある武士集団育成・派遣が一体のものとして含まれていたと考えます。
5 牧と武士集団、輸送集団の関係
蝦夷戦争が終結する前は、牧業務の中で東北地方に騎馬と武士を派遣するために馬の増産、武士の育成、輸送部隊の結成が行われ、それらを戦地に送ったと考えます。
蝦夷戦争終結後は、牧活動が律令国家のコントロールから離れて発展し馬の増産、耕地開拓、馬を使った輸送業務等が行われ、それらの活動(荘園的活動)を守る武士集団を搔き集め育成したと考えます。
9世紀末頃から強雇(ごうこ)(荷物を運んでいる馬から荷物を離し、馬だけ手に入れて自分の荷物を運ぶ行為)や「僦馬(しゅうば)の党」をはじめとする群盗の蜂起が相次ぎ、俘囚の反乱もあり牧が一気に凋落します。「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では「群盗のなかに牧で働く人々がいた可能性が考えられる。」と記述しています。
同時に、これらの集落の遺物(特に墨書文字)からは武士集団や輸送集団の存在が浮かび上がっています。
牧という生業は単純な家畜生産業務だけではなく、騎馬に関連する戦闘員の駆り集め養成や専門従事者による荷物馬輸送も行っていたようです。
その様子を遺跡毎に考察することにします。
この記事では萱田遺跡群(白幡前遺跡)について考察します。
1 萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」について
萱田遺跡群のメイン墨書文字「生」は次のように変化してきています。
萱田遺跡群における墨書文字「生」の変化
この変化から「生」の原義は人や生命を表現すると考えます。
2 萱田遺跡群における刀子・鉄鏃と「生」分布の強い相関
萱田遺跡群では出土金属製品の種類をみると刀子が1位、鉄鏃が2位となり武器出土が特に目立っています。鉄器は生産生活用具ではなく武器がメインとなっています。
萱田遺跡群金属製品出土数
萱田遺跡群内部における刀子・鉄鏃の分布と墨書文字「生」の分布をみるとその間に強い相関がみられます。つまり武器の多いゾーンには墨書文字「生」も多いということです。
竪穴住居10軒あたり刀子出土数
竪穴住居10軒あたり鉄鏃出土数
ゾーン別墨書土器の代表文字(白幡前遺跡、井戸向遺跡)
3 墨書文字「生」の解釈
武器と墨書文字「生」の相関が強いことから「生」の意味を一例として「白兵戦で生き残る」と解釈しました。「生」は「武士が戦いの中で勝って自分の命を守る」という祈願であると考えました。
同様に墨書文字の解釈を行い、次に示します。
ゾーン別墨書土器代表文字の意味イメージ(想定)
参考
〇…則天文字「星」→白星(相撲の星取表と同じ)であり、戦勝祈願を意味します。
継…都と戦地を繋ぐと解釈します。輜重部隊、輸送部隊の仕事完遂祈願です。
4 土坑から人骨が出土した意味
武器出土が多く、また墨書文字「生」出土が多い白幡前遺跡1Aゾーン土坑(P-168)から馬2頭と人1体が出土しています。
馬2頭と人1体出土位置
馬骨出土は律令国家の蝦夷戦争に関わる牧発展祈願であると想像しました。
人骨出土はこの祈願が単純な家畜増産祈願ではなく、1人の人間の命を身代わりで神にささげることによって、戦地に赴く武士集団の命確保を同時に祈願したことを物語っていると考えます。
武士集団が集まった中で1人の人間(*)を殺す瞬間を見せ、白兵戦で勝ち抜く覚悟を植え付けたのだと思います。
*犯罪者とか俘囚(蝦夷)だったと考えます。
つまり牧発展という概念の中に馬増産と同時に覚悟のある武士集団育成・派遣が一体のものとして含まれていたと考えます。
5 牧と武士集団、輸送集団の関係
蝦夷戦争が終結する前は、牧業務の中で東北地方に騎馬と武士を派遣するために馬の増産、武士の育成、輸送部隊の結成が行われ、それらを戦地に送ったと考えます。
蝦夷戦争終結後は、牧活動が律令国家のコントロールから離れて発展し馬の増産、耕地開拓、馬を使った輸送業務等が行われ、それらの活動(荘園的活動)を守る武士集団を搔き集め育成したと考えます。
9世紀末頃から強雇(ごうこ)(荷物を運んでいる馬から荷物を離し、馬だけ手に入れて自分の荷物を運ぶ行為)や「僦馬(しゅうば)の党」をはじめとする群盗の蜂起が相次ぎ、俘囚の反乱もあり牧が一気に凋落します。「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では「群盗のなかに牧で働く人々がいた可能性が考えられる。」と記述しています。
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