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2017年11月18日土曜日

小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)

5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕

奈良時代において墨書文字「野」は上記八千代市上谷遺跡出土多文字墨書土器の例から牧の意味であることが明白です。

一方、鳴神山遺跡で墨書土器「大」「大加」が最も集中して出土する直線道路北側の小字が「大野」です。
「大」「大加」集団が運営していた牧であるから「大野」という地名がついたと思考できます。
牧集団出土物である墨書文字「大」「大加」を根拠に小字「大野」の出自を説明できる珍しい例であると言えます。
学術的な意義(価値)のある小字であると考えることができます。

墨書文字「大」「大加」の元来の読みはオオカミで意味は大神、大国玉神であると考えます。その根拠はリーダー層が書いたと考えられる多文字墨書土器に大国玉神、国玉神がでてくることから推論できます。
具体的固有名詞(大物主神、大国主神など)でイメージされていたのかもしれません。
「大」「大加」は国譲りの神様である国津神を表現しているものと考えて間違いないと思います。
「久弥良」(クビラ)つまり金毘羅を表している墨書文字もあります。
なお「大」とともに「王」が共伴出土する場合がいくつかありますから、元来の読み(意味)「オオカミ」が短縮されて「オオ」と読まれていた場合が多いと推察します。
鳴神山遺跡のリーダー氏族は多文字墨書土器に出てくる丈部(ハセツカベ)であると考えられます。

墨書文字「大」は下総国、上総国の広範な開発集落から出土します。丈部の分布も同じく広範であるので氏族としての丈部が墨書文字「大」を共有していて各地の開発集落で使っていたと考えられます。

養蚕の道具である紡錘車が鳴神山遺跡から出土しています。

同時に養蚕集団の祈願文字であると考える「依」(キヌ)も多数出土します

墨書文字「依」(キヌ)は掘立柱建物が集中する付近の竪穴住居から集中出土し、紡錘車の出土は掘立柱建物群を取り囲むように広範な竪穴住居から出土します。
この分布の様子から蚕飼育は掘立柱建物で集中しておこない、その世話を行っていた集団の祈願文字が「依」(キヌ)であり、繭から糸を紡ぐ作業は女性が自宅(竪穴住居)で行っていたものと考えることができます。蚕飼育と糸紡ぎは人間的空間的に分業されていたと見てとることができます。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

2017年11月17日金曜日

鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)

4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団

鳴神山遺跡の牧関連遺物の出土状況を示しています。
馬骨出土祭祀跡井戸と牧関連墨書土器があります。
参考に船尾白幡遺跡をみると、船尾白幡遺跡がかかわる西根遺跡領域から馬歯などが出土していて、希薄ですが船尾白幡遺跡も牧に関連していることがわかります。

鳴神山遺跡の馬骨出土祭祀跡井戸の平面図・断面図を八千代市白幡前遺跡の類似土坑資料と同縮尺にして並べてみました。
下総では古墳時代から大切な馬を祭祀の生贄としてきましたが、鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑ともに馬を生贄とした牧建設祈願祭祀の跡であると考えることができます。
白幡前遺跡では馬2頭と人1人が犠牲となり、高津馬牧建設祈願に関わる祭祀が行われたと考えます。鳴神山遺跡では馬を犠牲にした8世紀後半の牧建設祈願が行われたと考えます。鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑の双方から東京湾産貝が出土し、祭祀に際して貝食が振舞われたことがわかります。

鳴神山遺跡の同じ竪穴住居から斃牛馬処理集団や漆を示す墨書土器が出土して、牧集団の存在と牧集団が皮を材料にした漆製品を作っていたことが判りました。
この墨書土器は「馬牛子皮身軆」と書いてあり「馬牛蚕皮肉骨」の意味であり、斃馬牛処理集団の祈願墨書土器であることが判明します。斃馬牛処理集団が存在するのですから、その場が牧であったことが証明されます。

この墨書土器は「馬牛子皮身軆」墨書土器と同じ竪穴住居から共伴出土しています。「七」=漆(シツ)、「知益」=汁液(シルエキ)と読めますから、斃馬牛処理集団が馬皮をつかって漆製品(漆皮)をつくっていたことが判ります。

「馬牛子皮身軆」墨書土器、「七 知益」墨書土器が出土した竪穴住居から多量の「大」「大加」墨書土器が共伴出土しています。この状況から「大」「大加」を共有する集団こそが牧集団であることがわかります。
この絵は「大」と書かれた墨書土器です。「大」と書かれた文字の部分が残るように土器を意図的に割っていることが判る例が多くあります。「大」は「大加」とくらべて墨書が多く、刻書が少なくなっています。
「大」をマイ土器に祈願文字として書いた集団がこの竪穴住居の穴の前でマイ土器を割り、投げ込んだと考えます。そのような祭祀が牧活動の組織性を強めるために行われたと感が増す。

「大加」はロゴマークになっています。また刻書が多くなっています。墨書が少なく刻書が多いことから「大加」集団は「大」集団より貧しい(墨にありつけない)集団で劣位な集団であったと考えます。
刻書「大加」に墨書「弓」が上書きされているものがかなりの数出土しています。相撲の弓取式は勝者に武器としての弓を与える儀式ですが、同じことが文字レベルで行われていたと推察します。つまりマイ土器「大加」を持っていたものが牧活動で功績を上げ、支配層から墨書「弓」を与えられたものと考えます。あるいは弓現物をもらい、その記念として墨書「弓」を書いてもらったのかもしれません。

牧集団「大」「大加」は武装していて刀子や鉄鏃が多数出土します。
この絵は刀子の例です。刀子は成人男性が1人1本持っていたのではないかと想像しています。

この絵は鉄鏃の例です。T字形、三角、Y字形など破壊力の大きな殺人専用の槍です。腕や足、首も一刺しで飛んだと思います。
鉄鏃は「大加」の出土する竪穴住居からの出土がほとんどないので上位集団である「大」集団だけが独占していたようだと推察します。鉄鏃は牧内支配のための威圧的武器だったように感じます。

鉄鏃と「大」の相関の高さは時代毎に分布面から確かめることができます。
逆に「大」「大加」出土竪穴住居から紡錘車などの道具類の出土は少なくなっています。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2017年10月18日水曜日

鳴神山遺跡 牧と武士集団、輸送集団との強い関係

白幡前遺跡では牧と武士集団、輸送集団との関係が密接であることが判りました。
2017.10.16記事「白幡前遺跡における牧と武士集団、輸送集団の関係」参照
鳴神山遺跡でも同じことが言えますので記述します。

1 墨書文字「大」集団、「大加」集団について
墨書文字「大」(オオ)集団と「大加」(オオカ)集団は集落の北側に竪穴住居をかまえ、牧の現業に関わる集団であると考えています。
「大」は下総各地に同族を持つ氏族的集団であると考えています。「大加」は「大」に加勢するという意味であり、新たに「大」一族に従った寄せ集め外人部隊であると想像しています。
なお、例えば墨書「依」(キヌ…養蚕)集団は集落の南側に竪穴住居をかまえ、牧現業集団の生活を支えるサポート集団であり、養蚕、漆、食料生産などに関わっていたと考えています。たとえば養蚕に使う掘立柱建物や製糸に使う紡錘車の出土は集落南側に集中しています。

墨書文字「大」の分布

墨書文字「大加」の分布

参考 墨書文字「依」の分布

2 墨書文字「大」「大加」出土と武器出土の関係
集落が最盛期を迎えた9世紀第2四半期でみると「大」出土と鉄鏃出土が強く相関するとともに、「大加」と「弓」が同じ土器に書かれます。「弓」は武装勢力であることを直接示します。
なお「大加」出土竪穴住居から刀子は出土しますが、鉄鏃の出土はなく、外人部隊である「大加」集団(武装集団)が外敵と戦うための武器(鉄鏃)は日常的には所持していないことがわかり、親集団の「大」と雇われ集団の「大加」の関係が見えて興味が増します。

9世紀第2四半期の「大」「大加」

9世紀第2四半期の「大」「大加」 説明

鉄鏃の集中出土と「大」出土が強く相関し、「大」集団の武装化が進んだ様子が次の図でわかります。

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土

9世紀第2四半期の鉄鏃と「大」出土 説明

牧の現業を担う集団の武装化がすすみ、武士集団となっていく様子がよくわかるデータとなっています。

牧集団が武士集団になっていく理由の最大のものは、牧集団が単純に馬生産に特化してたわけではなく、9世紀になると生産した馬を使って運送業を行い、街道での盗賊から身を守ることが必要であったからであると考えます。
なお、墨書文字「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団は関西から鳴神山遺跡に来た輸送専門集団であると想像しています。
武装化は牧や集落を盗賊から守るための自衛でもあったと考えます。

しかし、9世紀末頃の制度的混乱で無政府状態が生まれ、俘囚の反乱や群盗の蜂起が相次ぎ、牧が盗賊に襲われる機会が増し、逆に武装した牧集団が盗賊にもなり、下総の牧は一気に凋落したと考えます。
武装した牧集団がその後の専業武士集団誕生の母体の一つになったと考えます。