ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年11月17日金曜日

鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)

4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団

鳴神山遺跡の牧関連遺物の出土状況を示しています。
馬骨出土祭祀跡井戸と牧関連墨書土器があります。
参考に船尾白幡遺跡をみると、船尾白幡遺跡がかかわる西根遺跡領域から馬歯などが出土していて、希薄ですが船尾白幡遺跡も牧に関連していることがわかります。

鳴神山遺跡の馬骨出土祭祀跡井戸の平面図・断面図を八千代市白幡前遺跡の類似土坑資料と同縮尺にして並べてみました。
下総では古墳時代から大切な馬を祭祀の生贄としてきましたが、鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑ともに馬を生贄とした牧建設祈願祭祀の跡であると考えることができます。
白幡前遺跡では馬2頭と人1人が犠牲となり、高津馬牧建設祈願に関わる祭祀が行われたと考えます。鳴神山遺跡では馬を犠牲にした8世紀後半の牧建設祈願が行われたと考えます。鳴神山遺跡井戸、白幡前遺跡土坑の双方から東京湾産貝が出土し、祭祀に際して貝食が振舞われたことがわかります。

鳴神山遺跡の同じ竪穴住居から斃牛馬処理集団や漆を示す墨書土器が出土して、牧集団の存在と牧集団が皮を材料にした漆製品を作っていたことが判りました。
この墨書土器は「馬牛子皮身軆」と書いてあり「馬牛蚕皮肉骨」の意味であり、斃馬牛処理集団の祈願墨書土器であることが判明します。斃馬牛処理集団が存在するのですから、その場が牧であったことが証明されます。

この墨書土器は「馬牛子皮身軆」墨書土器と同じ竪穴住居から共伴出土しています。「七」=漆(シツ)、「知益」=汁液(シルエキ)と読めますから、斃馬牛処理集団が馬皮をつかって漆製品(漆皮)をつくっていたことが判ります。

「馬牛子皮身軆」墨書土器、「七 知益」墨書土器が出土した竪穴住居から多量の「大」「大加」墨書土器が共伴出土しています。この状況から「大」「大加」を共有する集団こそが牧集団であることがわかります。
この絵は「大」と書かれた墨書土器です。「大」と書かれた文字の部分が残るように土器を意図的に割っていることが判る例が多くあります。「大」は「大加」とくらべて墨書が多く、刻書が少なくなっています。
「大」をマイ土器に祈願文字として書いた集団がこの竪穴住居の穴の前でマイ土器を割り、投げ込んだと考えます。そのような祭祀が牧活動の組織性を強めるために行われたと感が増す。

「大加」はロゴマークになっています。また刻書が多くなっています。墨書が少なく刻書が多いことから「大加」集団は「大」集団より貧しい(墨にありつけない)集団で劣位な集団であったと考えます。
刻書「大加」に墨書「弓」が上書きされているものがかなりの数出土しています。相撲の弓取式は勝者に武器としての弓を与える儀式ですが、同じことが文字レベルで行われていたと推察します。つまりマイ土器「大加」を持っていたものが牧活動で功績を上げ、支配層から墨書「弓」を与えられたものと考えます。あるいは弓現物をもらい、その記念として墨書「弓」を書いてもらったのかもしれません。

牧集団「大」「大加」は武装していて刀子や鉄鏃が多数出土します。
この絵は刀子の例です。刀子は成人男性が1人1本持っていたのではないかと想像しています。

この絵は鉄鏃の例です。T字形、三角、Y字形など破壊力の大きな殺人専用の槍です。腕や足、首も一刺しで飛んだと思います。
鉄鏃は「大加」の出土する竪穴住居からの出土がほとんどないので上位集団である「大」集団だけが独占していたようだと推察します。鉄鏃は牧内支配のための威圧的武器だったように感じます。

鉄鏃と「大」の相関の高さは時代毎に分布面から確かめることができます。
逆に「大」「大加」出土竪穴住居から紡錘車などの道具類の出土は少なくなっています。

つづく
……………………………………………………………………
パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)



2016年12月17日土曜日

上谷遺跡 漆筆しごき跡土器3点閲覧

上谷遺跡の出土物等閲覧の中に付着物土器3点が入っていますので、閲覧を記録します。

1 閲覧した付着物土器

A144竪穴住居出土付着物土器

A145竪穴住居出土付着物土器

A157竪穴住居出土付着物土器

閲覧した付着物土器が出土した竪穴住居の位置

閲覧した3点の付着物土器はいずれも土器縁の一部に付着物が付いています。

発掘調査報告書の記載はタール状付着物あるいはタールとなっています。

この近くに漆風呂(*)と想定される特異な円形形状の掘立柱建物があり、一帯が漆業務ゾーンであったことを既に検討しています。

漆風呂…漆を塗った製品を湿度の高い状態で乾かす施設。

2016.10.03記事「上谷遺跡 漆風呂(漆乾燥施設)としての掘立柱建物の可能性」参照

2 付着物土器の筆跡

A157竪穴住居出土付着物土器(遺物番号3)について子細に観察して次にまとめました。

A157竪穴住居出土付着物土器(遺物番号3)観察結果

液体の付いた大筆(あるいは刷毛)と小筆を土器縁両側を利用してしごいた跡を観察することができます。

この様子から、漆液体を製品に塗っている最中に大筆(あるいは刷毛)及び小筆の漆液付着状況を調整するために、この土器縁で筆をしごいたと想定できます。

付着物土器の現物を閲覧して、それが漆工芸の現場で使われていた道具であったことを確認できました。

A144竪穴住居、A145竪穴住居出土付着物土器も同じであり、漆塗り用筆のしごき跡であると観察しました。

(A145竪穴住居出土付着物土器は出土後付着物を削っている様子が観察できますから、その成分の分析が行われているのかもしれません。)



2016年9月30日金曜日

上谷遺跡 漆関連土坑の可能性

上谷遺跡学習における寄り道学習として土坑の学習をしています。

上谷遺跡の主な大型土坑のうち、D125土坑について学習します。

上谷遺跡の主な大型土坑

D125土坑は発掘調査報告書では次のように記載されています。

●遺構

長軸1.97m×短軸1.79m×深さ0.97m、長軸方向はN-44°-Eを示す。

平面形はほぼ円形である。

A144(竪穴住居)と重複している。坑底は平坦であり、壁の立ち上がりに周溝を持つ土坑である。

覆土はロームを混入させた暗褐色土を主体とした人為堆積である。

須恵器2片が出土している。

●所見

覆土は、単に土砂を放り込んだような堆積である。

形状から墓壙とも想定したが、覆土状況からそのようには捉えられないものである。

D125土坑

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

この土坑が切っている竪穴住居A144及び直近の竪穴住居からタール状付着物のある土器が出土していて、この付近が漆工房集中区域である可能性を既に検討しています。

2016.09.14記事「上谷遺跡 漆工房群存在の可能性」参照

上谷遺跡 付着物土器出土遺構

漆工房集中区域の可能性

想定(想像)になりますが、D125土坑は漆産業に関連する土坑であると考えることが合理的です。

次のような機能のうちどれかあるいは全部がこの土坑の機能であると考えます。

1 漆栽培のための分根の貯蔵庫(土に埋めて貯蔵する装置)

2 漆実生発芽のための漆実の脱蝋装置(脱蝋のために果肉を腐らせる装置)

3 脱蝋した漆実の貯蔵庫(脱蝋漆実の発芽を促進させるために土に埋め、散水する装置)

この土坑の検討の中で、奈良時代の漆産業は自然に生えた漆の木を利用するのではなく、漆の木を栽培してそれを利用していたということを学びました。

漆工房が集中する空間付近(の斜面)には漆畑が存在していたと考えます。