2017年1月8日日曜日

大膳野南貝塚学習準備 遺構分布図GISプロット

大膳野南貝塚学習準備として遺構分布図をGISにプロットしましたのでメモしておきます。

遺構分布図をGISにプロットすることにより遺構や遺物の場所を周辺地形との関係で把握しやすくなります。

同時に遺構や遺物に位置情報を即座に付与することができるようになり、任意の分布図を作成したり、密度図(ヒートマップ)を作成したりできるようになります。

発掘調査報告書収録情報をGISデータベース化するための基盤インフラとなります。

発掘調査報告書の情報をGIS分析できるようになり、学習の態勢が整います。

次に遺構分布図GISプロットの様子を図示します。

1 旧石器時代

旧石器時代テストピット配置図
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊 から引用

旧石器時代テストピット配置図のGISプロット

2 縄文時代早期

縄文時代早期遺構分布図
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊 から引用

縄文時代早期遺構分布図のGISプロット

3 縄文時代前期後葉

縄文時代前期後葉遺構分布図
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊 から引用

縄文時代前期後葉遺構分布図のGISプロット

4 縄文時代中期末葉~後期中葉

縄文時代中期末葉~後期中葉遺構分布図
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅱ分冊 から引用

縄文時代中期末葉~後期中葉遺構分布図のGISプロット

5 古墳時代後期~古代、中・近世~現代

古墳時代後期~古代、中・近世~現代遺構分布図
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊 から引用

古墳時代後期~古代、中・近世~現代遺構分布図のGISプロット

6 遺構分布図のGIS画面例

縄文時代中期末葉~後期中葉遺構分布図GIS画面拡大例

縄文時代中期末葉~後期中葉遺構分布図GIS画面拡大例
利用しているGIS(地図太郎PLUS)の最大拡大画面(1/45)

この最大拡大画面のレベルで分析が可能だということです。(QGISをつかえばさらにミクロの分析が可能です。)

遺構内の個別遺物に位置データを付与して、遺構内空間のGIS分析をすることも可能です。


2017年1月7日土曜日

大膳野南貝塚学習準備 調査範囲GISプロット

大膳野南貝塚学習準備として2万5千分の1地形図と調査範囲をGISにプロットしましたのでメモしておきます。

1 2万5千分の1地形図「曽我野」図幅のGISプロット

1921年(大正10年)測量「曽我野」図幅をGISにプロットしました。

地形図の経緯度は日本測地系の数値ですから、世界測地系に変換してGISにプロットします。

「曽我野」の測地系変換メモ

GISにプロットした「曽我野」図幅 (部分)

2 大膳野南貝塚調査範囲のGISプロット

発掘調査報告書掲載の調査範囲位置図をGISにプロットして、それをなぞって調査範囲のGISファイルを作成しました。

発掘調査報告書掲載調査範囲図(部分)

GISにプロットした大膳野南貝塚調査範囲(基図 標準地図)

GISにプロットした大膳野南貝塚調査範囲(基図 5mメッシュによる標高区分図)

GISにプロットした大膳野南貝塚調査範囲(基図 旧版2万5千分の1地形図「曽我野」)

この一連の作業により発掘調査報告書の時代別遺構分布図をGISにプロットする基盤ができました。

大膳野南貝塚付近の地形の様子もより具体的に判るようになりました。

なお、旧版2万5千分の1地形図より精度の高い開発前3000分の1都市図(1960年代千葉市都市図、航空測量)の閲覧申請を千葉市立郷土博物館にしています。

1960年代千葉市都市図が予想通りの地図ならば、より詳しい開発前地形図が入手できるかもしれません。

2017年1月6日金曜日

地名「直道」(ナオミチ)の解釈 追補

2017.01.05記事「花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈」の続きです。


小字「直道」に隣接して小字「中扱」が、さらに「大扱台」、「大扱」があります。

注) 小字「中扱」、「大扱台」、「大扱」の存在は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)掲載情報に従います。
角川千葉県地名大辞典付録小字一覧では、この小字は「中坂」、「大坂台」、「大坂」となっています。
角川千葉県地名大辞典付録小字一覧の情報は手で書かれた文字「扱」を「坂」に読み間違いした誤情報であると考えて、この記事を書きます。

昭和初期大字検見川の小字名

小字「中扱」、「大扱台」、「大扱」の読み方は「ナカコク」、「オオコクダイ」、「オオコク」であるか、「ナカシゴキ」、「オオシゴキダイ」、「オオシゴキ」であると予想します。

その意味は俘囚を扱(シゴ)いた場所に由来するのではないかと想像します。

直道(ナオミチ)には俘囚を中央政府社会に服属させるための教化施設があったと考えましたが、その付属野外施設が「中扱」、「大扱台」、「大扱」という小字名で伝わったのではないだろうかと想像します。

中央政府に服属しない俘囚を野外で肉体的にシゴイテ、強引に服属させたのだと思います。

小字「中扱」、「大扱台」、「大扱」が台地面から谷津底面まで広い範囲に広がっていることから、肉体的シゴキとは単純な暴力とか拷問の類ではなく、農作業や鉱工業関係などの肉体労働、危険労働、非衛生労働、技術労働等であったと想像します。

陸奥国蝦夷の日常労働とは異なる労働に強引に従事させて思想改造を図ったものと想像します。

俘囚が全国各地の開発地で有力な労働力となるように、思想改造するとともに職業訓練的な要素もあったに違いないと想像します。

検見川台地の小字群から、そこにあった俘囚中継施設のゾーニングをイメージすると次のようになります。

小字による検見川台地俘囚中継施設のゾーンイメージ(想像)

2017年1月5日木曜日

花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈

1月2日早朝目覚めて、寝床の中でそれまで見ていた夢を反芻しました。

今年の初夢です。

自分が古代社会にいる様子で、その奇妙奇天烈な状況を一所懸命解釈しようとしています。

その夢の反芻の後、関連して検見川台地の小字「直道」(ナオミチ)の意味が直観的に判りました。

その直観は自分の知識の範囲内では正しいと考えますので、初夢のお告げみたいなものですが、メモしておきます。

検見川台地の小字地名は蝦夷戦争時代頃の俘囚収容所(俘囚移配中継所)に関連するものが集中していると考えてきています。

昭和初期大字検見川の小字名

参考 埋蔵文化財の分布

1 これまでの検討

1-1 玄蕃所、居寒台、木戸尻

ア 玄蕃所(げんばしょ)
古代遺跡がある場所に玄蕃所という地名が残っているのですから、この玄蕃所は玄蕃寮の東国出先施設がここに在ったと考えることが順当です。

玄蕃寮は次のように説明されています。

げんばりょう 〔玄蕃寮〕
律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国使節の接待、鴻臚館〘こうろかん〙の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。玄は中国では道教を意味し、隋・唐では崇玄署という道士を監督する役所が設けられ、僧尼も合せて管轄した。日本には道士が存在しないので、玄で僧侶のみをさすことになったとみられる。僧尼・仏寺の管轄範囲は、令制では京内に限られていたが、延喜式制では畿内・諸国にまで及んでいる。
「岩波日本史辞典」(岩波書店)

地名「玄蕃所」の伝承は、玄蕃寮の東国出先で、陸奥国から送られてくる俘囚を国内各地に移送する中継施設としての玄蕃所が存在していた可能性を濃厚に物語ります。

同時に、花見川河口津に俘囚移送中継施設があったと考えると、花見川-平戸川船越が俘囚移送路であったことは確実であり、花見川-平戸川船越ルートが軍事的に重要な水運路であったことを物語ります。

イ 居寒台(いさむだい)
「いさむ(勇)」という言葉には「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)という意味があります。
この場所が軍事的な場所であったことを示す地名です。

玄蕃寮が管理する外国使節の接待施設である鴻臚館は同時に軍事的な側面も持っていました。(「世界大百科事典」(平凡社)による)

ですから陸奥国から送られてきた俘囚を西方の各地に送り出す中継施設である玄蕃所も当然軍事的備えをしていたと考えられます。

地名「玄蕃所」と地名「居寒台」はセットの地名であり、居寒台遺跡、直道遺跡等の古代住居69軒、掘立柱建物40棟などは俘囚収容施設やその管理施設等であった可能性が濃厚です。

ウ 木戸尻(きどじり)
軍港があり、俘囚収容施設があれば当然それらの施設は柵で囲まれます。出入り口は柵に設置された特定の出入り口である「木戸」になります。
地名「木戸尻」は軍港・俘囚収容施設などの施設群の背後(陸側)にあった出入口の場所を指す地名であったと考えます。

(以上 2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」による)

1-2 検見川
2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」で、花見川河口津に古代律令国家の治部省玄蕃寮の出先機関があった可能性がきわめて濃厚であることを述べました。

玄蕃寮は国内の夷狄(蝦夷・隼人等)の管掌を行っていたことから、花見川河口津に陸奥国から送られた蝦夷戦争俘囚の移送中継施設があり、それが小字名「玄蕃所」として現代にまで伝承してきていると考えました。

さて、小字名「玄蕃所」は近世「検見川村」に位置します。昭和初期検見川町の大字検見川にふくまれます。検見川は少なくとも中世から地名として存在しています(角川日本地名大辞典)。

近世検見川村の領域

この地名「検見川」の意味説明は、私はこれまで納得のいくものがありませんでした。

ところが、この検見川の地に玄蕃所という特殊施設(俘囚一時収容施設)があることに気がつくと、私は、一気に検見川の意味が脳裏に浮かびあがりました。

自分の感情レベルでは「検見川」語源を探り当てたと思うようになりました。

陸奥国から送られてきた俘囚は、玄蕃所で検見(「よく見て調べること」精選国語大辞典、小学館)されたのです。

俘囚は花見川河口津まで水運で運ばれてきて、玄蕃所で尋問され(検見され)、その思想性や健康状態などを検査され、隼人などのように精強な軍事組織に組み入れるグループ、貴族の使役奴隷に回すグループ、各地の地域開発の労働力奴隷として回すグループ、…などに分類されたのだと思います。

つまり、花見川河口津の「玄蕃所」における検見(けみ)で俘囚の運命が決まったのだと思います。

俘囚とはいえ、同じ人間の運命が、それも多人数の運命が「玄蕃所」で決まることは、恐らく近隣の人々に一種の心理的影響を与えたと考えます。

その心理的影響から、玄蕃所のある地域一帯の地名が「検見川」となったと考えます。

俘囚は遠く陸奥国から水運で運ばれ、印旛浦、花見川-平戸川船越、花見川を経由して花見川河口津に到着し、そこで検見され、運命が決まったのです。

運命が決った俘囚は花見川河口津から東京湾に船出し、西方各地に送られて新しい境遇人生が始まったのです。

花見川河口津付近の人々は、俘囚が水運で運ばれてくる花見川を、俘囚の運命が決ることに思いを深めて、検見川と呼んだのだとの思います。

検見川とは自然現象の川、風景としての川ではなく、俘囚が運ばれてきて、この地でその運命が決ってしまうという、その俘囚の運命に移動経路の川を重ねた一種の比喩語です。

アフリカ大陸を暗黒大陸などと比喩するのと同じ言葉使いです。

その比喩語検見川が地名となったのです。

その後玄蕃所がなくなって検見川の意味は全く忘れられてしまったのだと思います。

ただ地名は、恐ろしく愚直に現代まで伝承してきているのです。

(以上 2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」)

2 小字「直道」(ナオミチ)の解釈

道の意味は人が歩む道という意味であり、直道は「人が歩む道に直る」「人が歩む道に直す」という意味に解釈します。

つまり俘囚が蝦夷の考え方を捨て、中央政府社会に服属を誓うことを直道(ナオミチ)と称したのだと思います。

より具体的には、俘囚教化施設があった場所の地名であると考えます。

直道(ナオミチ)と同じような用語法の言葉に直会(ナオライ)があります。

3 小字「大道」(オオミチ)の解釈

直道に隣接して小字「大道」(オオミチ)があります。

検見川台地上に幅広の大路が存在していたという情報は知りません。

小字「大道」(オオミチ)も「人が歩むべき正しい道」という比喩的な意味であると考えます。

直道(なおみち)(=俘囚教化施設)で中央政府に服属することを誓った俘囚が各地に移配される前に収容された施設が存在していた場所だと考えます。

小字「大道」(オオミチ)は服属した俘囚が中央政府社会に旅立つ(移配される)、開かれた場所を意味すると考えます。

4 花見川河口津における俘囚検見プロセス

花見川河口津における俘囚の検見プロセスを次のように想像することができます。

ア 居寒到着

陸奥国から平戸川-船越-花見川経由で居寒(花見川河口津(軍港))に俘囚が到着します。

イ 玄蕃所における検見

玄蕃所で俘囚は検見(尋問)を受けます。

ウ 直道での教化

俘囚は教化施設で中央政府に力づくで服属させられます。

エ 大道からの移配

服属した俘囚は外に開かれた施設に移り、そこから全国各地に移配されます。

2017年1月4日水曜日

大膳野南貝塚 地形断面上の位置

大膳野南貝塚の貝塚形成期の海面が縄文海進クライマックス期を過ぎて、海退が顕著になって海岸線がだいぶ引いた時期であることを学習しました。

2017.01.03記事「大膳野南貝塚 時代と縄文海進海面との対応イメージ」参照

この学習は自分の漠然としたイメージを打ち砕くものでした。

この記事では貝塚形成期(縄文時代後期)の海面分布が3500年前海面分布と略一致するものと大ざっぱに考えて、大膳野南貝塚の地形断面上での位置を把握することにします。

次の図は大膳野南貝塚で貝塚が形成された頃の海況想定図です。

想定 縄文時代後期頃の海況

この図に海から谷津を通って大膳野南貝塚に至り、さらに尾根筋を通って九十九里平野に抜ける地形断面線を設定してみました。

地形断面線の設定

地形断面図は次のようになります。

東京湾-大膳野南貝塚-九十九里平野地形断面図(現代地形)

大膳野南貝塚の際だった地形特性が浮き彫りになりました。

大膳野南貝塚は下総台地面から下ることなく、台地面上に存在するとともに、谷津を通って海に直接降りることができる場所に立地しています。

台地平坦面を通って、斜面を上下することなく効率的に九十九里平野を臨む台地東端まで移動できる場所に立地していることは、この遺跡が狩を最優先にした集団の生活跡であることを物語ると考えます。

同時に台地西端に位置してすぐに東京湾に出られる立地は強く漁撈を意識しています。

地形から大膳野南貝塚の位置は狩を最優先としつつ、それに特化することなく、漁撈も副次的に重要要素として生活に取り込んだ集団の生活を想定することができます。

広域的な地形から、大膳野南貝塚の特性大局観を持つことができました。



2017年1月3日火曜日

大膳野南貝塚 時代と縄文海進海面との対応イメージ

大膳野南貝塚発掘調査報告書第Ⅲ分冊に縄文時代遺構に関わる放射性炭素年代測定結果が掲載されています。

縄文時代遺構に関わる放射性炭素年代測定結果

この結果をざっくりと理解するならば、前期遺構は約5000年前、後期遺構は約4000年前ということになります。

この年代測定結果と「辻誠一郎他(1983):縄文時代以降の植生変化と農耕-村田川流域を例として-、第四紀研究22(3)251-266」による縄文海進海面をイメージ的に対応させると次のようになります。

大膳野南貝塚 時代と縄文海進海面に対応イメージ

大膳野南貝塚の学習を始めるにあたり、このイメージ図で時代と縄文海進海面との関係の大局観をもつことができました。

大膳野南貝塚に貝塚集落が出現するのは縄文時代中期から後期であり、その時の海面は海退が進み干潟が形成される環境にあったことがわかります。

縄文海進クライマックス期までの時代(縄文時代草創期、縄文時代早期)には大膳野南貝塚には貝塚は形成されていません。

またクライマックス期を過ぎても1500年から2000年の期間大膳野南貝塚では貝塚が形成されていません。

その理由が何であるか、興味が深まります。

とりあえず、海進期や海退に転じてもしばらくの間(1000年~2000年)は干潟の形成が不十分で安定した貝類採集が出来なかったと考え、そのような自然環境的な条件をその理由に考えておきます。

今後学習を深めるテーマにします。

これまで、漠然と縄文海進クライマックス期(海面が内陸に進入して最大化した時期)と貝塚形成を結びつけて考えていましたが、その考えを大幅に修正する必要に直面させられたことになります。

2017年1月2日月曜日

大膳野南貝塚と縄文海進海面との位置関係 その2

大膳野南貝塚発掘調査報告書第Ⅲ分冊科学分析の項に縄文海進海面について論じた論文の引用がありましたので、早速その論文原典をWEBで閲覧して学習しました。

縄文海進海面に関する予備知識は発掘調査報告書を学習する上で必須です。

1 予察的、簡易的に想定した縄文海進海面

予備知識ゼロの状態で、とりあえず予察的、簡易的に次のような縄文海進クライマックス期の海面を想定しました。

標高8m以下(空色)の土地を縄文海進クライマックス期の海面と簡易的に想定した地図

2016.12.25記事「大膳野南貝塚と縄文海進海面との位置関係」参照

2 辻誠一郎他(1983):縄文時代以降の植生変化と農耕-村田川流域を例として-、第四紀研究22(3)251-266による縄文海進海面

辻誠一郎他(1983):縄文時代以降の植生変化と農耕-村田川流域を例として-、第四紀研究22(3)251-266による縄文海進海面を示します。

縄文海進最高期の海況 1

縄文海進最高期の海況 2

3 予察簡易想定図との対比

標高8m以下の土地を縄文海進海面と簡易的に想定した地図に上記研究成果をオーバーレイしてみました。

標高8m以下土地(空色)と縄文海進最高期海況(6500年前)のオーバレイ

手前味噌になりますが、標高8m以下の土地の範囲が縄文海進最高期海面をイメージする簡易情報として役立つことを確認できたと考えました。

一方、6500年前の海面は現在の沖積低地よりも狭く設定されていることが大きな特徴となっています。

これは6500年前から現在までの期間に海蝕作用により台地が侵食され、波蝕台に変化したことを示しています。

つまり、現在の地形とくらべて、6500年前の地形はもっと台地が海側に張り出し、村田川河口湾が細長かったということになります。

この点は簡易的想定では考慮していませんでした。

GIS上で測定すると、大膳野南貝塚から谷津を下って東京湾(村田川河口湾)に出る場合、これまでの簡易想定では2.5㎞でしたが、この研究論文によると2.7㎞に延長となります。

この研究論文に接して、大膳野南貝塚と縄文海進海面との関係をより確信をもってイメージできるようになりました。

2017年1月1日日曜日

2017年 明けましておめでとうございます

2017年 明けましておめでとうございます。

新しい年を迎え、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

このブログも1月15日で7年目に突中することになり、掲載した記事も1890本となりました。

また、関連ファミリーブログも4つ誕生しています。

ひとえに皆様にこのブログを閲覧していただき、コメントしていただき、いろいろな協力をしていただいているおかげです。

あらためて心から感謝し、お礼申し上げます。

今年も花見川流域や下総台地の考古歴史、GISデータベース、地形などについて、その面白さ・興味を追究する学習を発展させ、その様子を生実況中継していきたいと思います。

今年もこのブログをよろしくお願い申し上げます。

千葉県墨書土器出土分布図 1
千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所サイト)本編・補遺1・補遺2全データを遺跡位置にプロットしてGoogle earth proに表示。グラフに日の出太陽光線を当てています。

千葉県墨書土器出土分布図 2
千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所サイト)本編・補遺1・補遺2全データを遺跡位置にプロットしてGoogle earth proに表示。グラフに日の出太陽光線を当てています。

千葉県墨書土器出土分布図 3
千葉県墨書土器データベース(明治大学日本古代学研究所サイト)本編・補遺1・補遺2全データを遺跡位置にプロットしてGoogle earth proに表示。グラフに日の出太陽光線を当てています。

2016年12月31日土曜日

2016年の趣味活動をふりかえる

2016年の大晦日となりました。

皆様のおかげで1年間趣味活動を進展できました。

お礼申し上げます。

この記事では2016年の年間活動をふりかえってみます。

1 古代遺跡学習

8世紀9世紀に大発展して、10世紀初頭には完全に衰退した下総台地開発集落のうち次の遺跡について学習しました。

鳴神山遺跡
船尾白幡遺跡及び西根遺跡(古代)
上谷遺跡

これらの遺跡学習では発掘調査報告書を「読んだ」だけでは理解できない情報を、GIS分析を導入することによって空間的に展開して、理解を深めることができるように工夫しました。

その結果ますます興味が深まり、いろいろな問題意識も派生しました。

上谷遺跡では情報を遺構別にGIS展開分析するだけなく、1つの遺構内の個別遺物情報をミクロにGIS展開して分析し、自分の興味範囲を遺構の覆土層区分にまで広げることができました。

単に遺跡の概要を知るだけでなく、発掘調査報告書から情報を最大限汲みだす方法を確立すべく、現在上谷遺跡の検討真っ最中です。

2 地名学習

千葉県小字データベースをとうとう完成させることができました。

94000のルビ付き小字名を自分個人が一人で電子化してデータベースをつくるなど、最初は夢の夢と考えていました。

最初千葉市の小字リスト電子化が完成したとき、鬼の首を取ったような気分になりました。

しかし、小字リストから原始古代情報を汲みだすことができると判ってから、電子化作業に熱心に取り組み、その後全部で千葉市分作業量の25倍の作業をしたことになります。

アドレスマッチングという技術をつかって小字リストをGISに展開できる方法を知ったので、作業した分だけ有用情報として即活用できるので、千葉県全体の作業に熱が入りました。

小字データベースの試用を兼ねて鏡味完二の「地名型」学習を行い、データベースの使い勝手を改善しました。

同時に小字データベースと遺跡データベース、墨書土器データベースをGIS上で突合せ統合して分析することにより、とても有用な情報を得ることができる可能性を発見しました。

3 ファミリーブログの開設

趣味活動の進展により興味が分化して発展していますので、一つのブログでそのすべてを表現することに窮屈さを覚えました。

そのため、今年3つのブログをブログ「花見川流域を歩く」のファミリーブログとして開設しました。

● 6月 ブログ「学習 幸福否定」の開設
● 9月 ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」の開設
● 10月 ブログ「世界の風景を楽しむ」の開設

(● ブログ「花見川流域を歩く 番外編」は2015年4月に開設しています。)

4 6年間のふりかえり

11月から12月にかけて、ブログ活動6年間をふりかえりました。

2016.11.19記事「ブログ花見川流域を歩く 6年間のふりかえり」等参照


5 感想
2016.01.15記事「ブログ開設5周年通過」で2016年の活動構想をメモしました。

そのメモのうち、実施・実現・取り組みをしたものを赤色、未実施・未実現・未取り組みのものを青色で表示します。

……………………………………………………………………
2016年の活動
●古代遺跡学習を継続して、花見川-平戸川筋の古代社会のイメージをより豊かにする。
・鳴神山遺跡学習の完結、西根遺跡・船尾白幡遺跡・上谷遺跡村上込ノ内遺跡の学習
・萱田遺跡群の再学習(遺構のGISプロットによる検討)

●下総国古代社会のイメージをより豊かにする。
・駅路網の再学習
・古代行政域の地図表現(GISプロット)

●千葉県小字データベースを完成させる。

●東海道水運支路仮説をまとめる

技術的にはGIS・データベース技術向上を目指す。またWEBサイトの運営ができるだけのHTML技術を習得する。

活動表現の軸となるべきWEBサイトをつくる。
……………………………………………………………………

1月に構想した活動の7割程度を実施・実現・取り組みしたことになるかと考えます。

活動を進展させることができた1年だったと思います。


皆様 よいお年をお迎えください。

花見川風景

2016年12月30日金曜日

千葉県小字データベースの活用可能性

1月から私家版千葉県歴史・地名GISデータベースの構築と活用学習をスタートさせます。

この記事ではデータベースの一翼を構成する千葉県小字土器データベースの活用検討例を示して、その活用可能性の「威力」の大きさを確認しておきます。

活用例として轆轤(ロクロ)地名を紹介します。

1 小字「轆轤(ロクロ)」の分布

千葉県小字データベースから次のような轆轤(ロクロ)地名を抽出できました。

千葉県の「轆轤(ロクロ)」小字分布

2 例 旭市横根の小字「六郎木工」

旭市横根付近の大字分布を示します。 横根に小字「六郎木工」が存在します。

千葉県郷名分布図をGISに取り込んだ様子(大字横根付近)

この付近は砂鉄の産地です。

参考 千葉県の砂鉄産地
植野英夫「明治以降の千葉県における砂鉄採取について」(千葉県立現代産業科学館研究報告第18号、2012.03)から引用

砂鉄産地であること、および古代遺跡情報などから、小字六郎木工に関して次のような想定を行うことができました。

旭市横根の小字六郎木工に関する想定

●小字「六郎木工」は台地上製鉄遺跡に海岸で採取した砂鉄を運び揚げる運搬用装置としての轆轤(ロクロ)に由来する可能性が高いと考えます。

現代の機械でいえばクレーンということになりますが、古代では低地と台地面の間の急斜面において、轆轤を使って人力で砂鉄を引っ張り上げたと想定します。

●木工(モツコ)は砂鉄を入れる運搬用具としてのもっこ(むしろなどで作る)を意味すると考えます。

●大字横根と三川の得意な形状は、砂鉄採取地とタタラ製鉄施設を含む古代の特定開発地域を示すと考えます。

●大字横根が海上郡、大字三川が匝瑳郡という邨岡良弼の説は再検討が必要であると考えます。


3 例 長南町蔵持の小字「六郎谷」

長南町大字蔵持と長南(宿)に小字「六郎谷」があります。

轆轤(ロクロ)地名が存在する大字「蔵持」=車持と「長南(宿)」
「千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館編)附録千葉県郷名分布図(邨岡良弼著日本地理志料による)のGISプロット

大字蔵持(クラモチ)は古代部民の車持部(クルマモチベ)の車持から転じた名称であると考えます。(角川千葉県地名大辞典による)

この付近は東京湾と太平洋を繋ぐ古代船越の位置にあたります。

長南町蔵持付近の地形

古代船越付近の地形

この付近の地形を分析して、次のような古代船越の運搬手段を想定しました。

古代船越付近の地形断面と運搬手段の想定
地形断面図は10mメッシュを使って、GISソフト地図太郎PLUSの機能を使って作成

A-Bは低平、B-Cは緩傾斜、C-Dは急傾斜、D-Eは低平という地形になっています。

この地形から船越における運搬手段はA-Bは曳舟、B-Cは車、C-Dは轆轤(ロクロ)、D-Eは曳舟であると想定しました。

旭市横根では砂鉄を海岸から台地に引きずり揚げる際に轆轤(ロクロ)を使いましたが、長南町蔵持でも同じく重量物を太平洋側から東京湾側に引きずり揚げるために使ったのだと思います。

なお、急斜面からすこし離れて長南(宿)にも小字六郎谷がありますから、その地名は轆轤(ロクロ)作業に従事する人夫の宿泊場所を表していると考えます。

2016.06.26記事「車持部と轆轤(ロクロ)地名」参照