2018年9月30日日曜日

竪穴住居漆喰貝層有無別の理由

学習テーマについて 4

2018.09.24記事「ブログ学習活動の経緯と学習テーマ」で今後の縄文時代学習のテーマとして次の4つを選び取り組むことにしました。
1 中期~後期・晩期の貝塚集落消長
2 なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?
3 竪穴住居漆喰貝層有無別の理由
4 土器形式年代と海岸地形との関係
この記事では3の学習テーマ「竪穴住居漆喰貝層有無別の理由」の今後の学習について検討します。

1 私の竪穴住居漆喰貝層有無理由検討結果に対する専門家のコメント
大膳野南貝塚学習の中間とりまとめ」で竪穴住居漆喰貝層有無の理由が集団の違いで、その集団の間に階層的上下関係があるのではないかとの推測を結論としました。この結論にたいして千葉県貝塚研究の第一人者である西野雅人先生から概略次のようなコメントをいただくことができました。

ア 大膳野南貝塚の検討だけから結論をだすべきではない。他の多くの貝塚の情報を総合して判断すべきである。
イ 竪穴住居漆喰貝層有無別は住居に関する違いであり、即集団の違いと結論付けることはできない。
ウ 竪穴住居漆喰貝層有無別は同じ人々が使い分けた可能性もある。生活のなかで機能や活動によって住居を使い分けた検討がなされていない。
エ 竪穴住居漆喰貝層有無別が生業を異にする集団の違いに対応するとはみられない。

素人の学習作文を専門家に読んでいただいたこと自体がとてつもなく素晴らしいことであり、さらにコメントまで頂けたことに感謝し、感激します。西野雅人先生にお礼申し上げます。

コメントの内容により私の狭い視野と検討方向の不適格性の側面があぶり出されて、それが自分に自覚できたので、学習を進める上で素晴らしいことになったと思います。学習方向を調整することができます。

2 今後の学習について
2-1 多くの遺跡の竪穴住居漆喰貝層有無別の情報収集と比較
多数貝塚の詳細調査が行われているのですから、それらの情報をできるだけ収集咀嚼して大膳野南貝塚とも比較して竪穴住居漆喰貝層有無別の理由について検討します。
次の図は草刈貝塚の貝層有無別遺構分布と大膳野南貝塚の漆喰貝層有無別遺構分布です。

草刈貝塚の貝層有無別遺構分布 「千葉県の歴史資料編考古1」(千葉県)から引用

大膳野南貝塚の漆喰貝層有無別遺構分布
中期草刈貝塚でも貝層有竪穴住居と貝層無竪穴住居があります。そして環状に分布する貝層有竪穴住居の内側と外側に貝層無竪穴住居が分布するように観察できます。このような3重環状は後期大膳野南貝塚でもおなじです。
この2つの図を並べただけでも類似性があるのですから、漆喰貝層有無(貝層有無)別の理由は多くの遺跡情報を比較検討すれば充実して的確性の高い結論を得られそうな予感がします。
竪穴住居の貝層有無別が中期貝塚にも見られるのですから、その理由として後期に顕著になったかもしれないと空想した階層分化説は弱まり、別の理由が絡んでいるらしいとの感覚が強まります。

2-2 生活の機能や活動等と竪穴住居漆喰貝層有無別との対応検討
竪穴住居漆喰貝層有無別はこれまでそれに居住する集団の違いだと決めつけてきていますが、その結論も残しつつ次のような可能性があるかもしれないと考え、思考の幅を追加して広げます。

ア 集落に正メンバーと準メンバーが居住していた可能性
・漆喰貝層有…集落正メンバーの住居
・漆喰貝層無…集落準メンバーの住居(ホテル)→交易等で逗留する客人、近隣集落から生業応援でかけつけ季節的に居住する者、流れ者等の住居(ホテル)
・集落正メンバー住居だけ漆喰炉と住居廃絶祭祀とその祭祀での貝層形成を許される。
・正メンバーにもランクがあり、上位ランクは漆喰貼床を持つ 住居内埋葬も許される
・正メンバー普通ランクは漆喰貼床はなし、土坑埋葬
・準メンバーは漆喰炉はゆるされない、住居廃絶祭祀はない(住居は借家だから、土地や家材料は地元のものであり、正メンバーのものだから廃絶祭祀はない)当然貝層形成もない。
・準メンバーにもランクがあり、上ランクは住居内埋葬が許される

イ 本住居と仮住居が存在していた可能性
・漆喰貝層有竪穴住居…本住居で主人が死んだ後はその住居が殯の場所、墓となり、祭祀が行われる場所となる。
・漆喰貝層無竪穴住居…主人が死んだ後の家族の仮住まい住居。(そこで祭祀はおこなわれない)

ウ 住居機能と作業機能が分化していた可能性
・漆喰貝層有竪穴住居…通常の住居機能
・漆喰貝層無竪穴住居…燻製製造、発酵食品製造、乾燥が必要な物品の貯蔵、漆作業や漆風呂(蒸気充満が必要)など作業機能

エ 季節による住居の使い分け
・漆喰貝層有竪穴住居…冬利用(直ぐ近くの貝塚腐敗物や殯人体・埋葬人体の異臭が気温が低いのであまり気にならない。不衛生が気温が低いので我慢できる。)
・漆喰貝層無竪穴住居…夏利用(貝層や廃屋墓から離れるので腐敗物や殯人体・埋葬人体の異臭が弱くなる。不衛生から逃れる。)

2018年9月29日土曜日

地名「千葉」=原史「チハ」同族集団説 武田宗久仮説の先進性

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その4

梅原猛は「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)のなかで、地名「千葉」がチパ(アイヌ古語でヌササン(イナウでつくった祭壇)の意味)に由来し、それは縄文時代に遡るという仮説を提示しています。
このシリーズ記事ではこの仮説に興味をおぼえて検討しています。
この記事では梅原猛がおそらく仮説構成要素として使ったであろうと推定している武田宗久仮説を引用紹介します。
武田宗久は「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)執筆のなかで論文「千葉という名称の由来」を掲載し、原史時代における「チハ」という同族集団存在の仮説を展開しています。この論文は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市、昭和49年)においても再掲されています。

1 「千葉」名称由来3説と漢字「千葉」が単なる当て字の1つである説明
武田宗久は「千葉」という名称の由来は大要次の3説になるとして、それぞれの説を詳しく説明しています。
1)羽衣伝説に系統を引くもの
2)霊石天降伝説に系統を引くもの
3)草木の葉の繁茂する様を形容したとする説
この3説のうち1)と2)は千葉家の出自が高貴なことや一族の繁栄を念ずる意図から考案されたものとして「ただ千葉家の歴史を説明するための仮託としての用例にすぎない」としています。
3)の説には注目し、次のように記述しています。
……………………………………………………………………
次に草木の葉の繁茂する様に由来を求めようとする説は契沖において最も優れ、『万葉集』の「知婆(ちば)の加豆奴(かづぬ)」(応神天皇の歌)、『知波(ちば)の野(ぬ)』(太田部足人の歌)等をそれぞれ「千葉の葛野」「千葉の野」にあてるというふうに、千葉家成立以前にさかのぼって本市の地名の由来を探求している点に注目すべきものがある。しかし右は「千葉」という漢字にとらわれすぎた解釈であって、既に『万葉集』には知波、知婆、千葉郡などの語を見出し、『日本後紀』には千葉、『延喜式』には千葉、『倭名類聚抄』には、千葉と書いて知波と訓じていて、必ずしも「千葉」という漢字にあてて草木の繁茂する意味に解釈する必要はない。そこで「チバ」という言葉の構成から検討すると、上古には濁音を用いないのが原則であるから、「チバ」は「チハ」からの転音で、この変化はかなり早い時代に成立したらしいこと、「チハ」は「チ」と「ハ」の複合語であろうことを推知することができよう。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用
……………………………………………………………………
ここで武田宗久が述べていることは、地名「千葉」が千葉家成立以前に遡ることと、漢字「千葉」は単なる当て字の1つであり、漢字導入以前から音「チハ」あるいは「チバ」が存在していたということです。つまり地名「千葉」は漢字「千葉」とは全く無関係に音「チハ」あるいは「チバ」として存在していたという説明です。
漢字「千葉」はなんら地名とは関係がなく、地名の最初は「チハ」あるいは「チバ」という音で存在していたという根本原理がここに書かれており、この根本原理はだれも否定できません。漢字導入以前の地名とその当て字に関する関係は柳田國男もいろいろなところで既にのべています。
漢字「千葉」はその漢字を当てた人が考えた「地名「チハ」あるいは「チバ」への修飾・美化」であり、本当の由来とは全く無関係であると言い切ることができます。ただし沢山の異なる当て字のなかで漢字「千葉」が漢字導入期の人々にとって心地よいという事情があり、漢字「千葉」が生き残ったという経過はあったかと推定します。
この武田宗久の考えを梅原猛が読み、共鳴したと推定します。

2 武田宗久が考える「チハ」の意味
武田宗久は「チハ」の意味を次のように考えています。
……………………………………………………………………
恐らく「チ」は血(ち)、霊(ち)、乳(ちち)、父(ちち)などと音通で血縁を同じくするものの意、「ハ」は歯(は)、葉(は)、端(は)、母(はは)などと通じ呼吸する、繁る、子孫、生れる、末端などを意味し、「チ」と「ハ」の結合からなる「チハヤフル」という「神」の枕詞には神意の烈しさ、畏ろしさ、速さなどを含めた意味をもっていることなどから、「チハ」とは「畏敬する神を同祖とするものの血縁集団」又は「その居住する所」という程の意味があるのではないかと思われるのである。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用
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この「チハ」の意味を「ヌササンである」と言い換えると武田宗久仮説は梅原猛仮説と同じになります。

3 地名「千葉」成立プロセス
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これを要するに千葉という称呼の成立過程は、まず原史時代において自然に発生した「チハ」という同族集団の汎称から、やがて彼らの居住する所を表す固有名詞として「チハ」ないし、「チバ」が使用され、同時に彼らの氏族は「チバ」氏と呼ばれた。その後「チバ」氏が次第に勢力を蓄えてチバ一円を従えるようになると、「チバノクニ」が一般に知られるようになり、やがて大和朝廷の支配下に服属して、その首長は、「チバ」国造に任命され、彼の率いる人民はその領土と共に、一応収公された形式の下に大私部となって貢納のための労働に従事した。そこで「チバ」氏の首長は一方においては「チバ」国造であると同時に他方では大私部を統率する「トモノミヤツコ」(伴造)でもあったから、その家柄を示すにアタイ(直)の「カバネ」(姓)を公許され、ついには大私部を己の氏とするかのごとくになって、永く朝廷の直轄領土の中に奉仕する地方豪族の一つとなったために、たまたま『日本後紀』には「千葉国造大私部直善人」なる人物が見えるのである。
さて、その後王朝後半期の激しい政治的動乱期に際会して関東八平氏の一族が侵入し、後述するような方法で「チバ」氏の領土を蚕食し、ついには全く旧領を奪取してそこに新しい支配関係が成立した。その領土が「千葉の荘」であり、その新たなる支配者が所謂葛原親王の苗裔「千葉氏」であるのである。すなわちこの第二の「千葉氏」は第一の「千葉氏」の名称をそのまま踏襲することによって、領内の住民と新しい主従関係を結んだが、その出自は単に葛原親王の後裔とする以外に、古くから千葉の土地と深い関係にある高貴にして権威ある家柄であるとの印象を抱かせるために、いろいろな説話や伝承の中に附会して説明する必要があったのである。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用
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原史時代の「チハ」同族集団が千葉国造にまで繋がっているというまことに雄大でロマンあふれる仮説です。
武田宗久は千葉市誌の原始時代、古墳時代、王朝時代を執筆していますが、原始時代は縄文時代と弥生時代が含まれています。従ってここでの原史時代とは縄文時代・弥生時代を含む時代と考えてよいと考えます。
武田宗久は縄文時代・弥生時代に「チハ」同族集団が居住していて、その集団の系統が千葉国造につながったと考えています。そしてそれが第一の「千葉氏」であると考えています。
武田宗久の地名「千葉」仮説は誠に先進的なものであると考えます。

4 参考 地名「千葉」の位置
和名類聚抄には下総国千葉郡千葉という郷名が出てきます。

和名類聚抄の写本 「千葉県の歴史 資料編 古代」(発行千葉県)から引用
この郷名「千葉」の場所を邨岡良弼は次のように比定しています。

千葉県地名変遷総覧附録 千葉県郷名分布図(邨岡良弼日本地理志料による) 123千葉
この場所は都川と村田川に挟まれた台地に位置しています。この場所付近が古墳時代頃の第一の「千葉氏」と関わることは間違いないようです。
その第一の「千葉氏」のルーツとかかわるかもしれない遺跡を弥生時代・縄文時代へと遡って追ってみる。逆にこの場所付近の六通貝塚等縄文後晩期遺跡から弥生時代、古墳時代へと考古遺跡情報で社会がつながるのか考えてみることが課題となります。
地名「千葉」=チパ仮説検討は、縄文時代-弥生時代-古墳時代-奈良・平安時代へと社会のつながりを意識して考古遺跡を学習するテーマとなりますので、私にとって価値の大きな学習活動となりそうです。

2018年9月28日金曜日

なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?

学習テーマについて 3

2018.09.24記事「ブログ学習活動の経緯と学習テーマ」で今後の縄文時代学習のテーマとして次の4つを選び取り組むことにしました。
1 中期~後期・晩期の貝塚集落消長
2 なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?
3 竪穴住居漆喰貝層有無別の理由
4 土器形式年代と海岸地形との関係
この記事では2の学習テーマ「なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?」の今後の学習について検討します。

1「なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?」という疑問(興味)から導き出る思考
次の平面図、断面図は大膳野南貝塚の地形上の位置をしめしたものです。

大膳野南貝塚の平面図上の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
Bの位置に大膳野南貝塚があります。Bと海の間を谷津谷底を通って往来する場合のルート・断面がA-Bです。またBから尾根線を通って九十九里方面に往来する場合のルート・断面がB-Cです。

大膳野南貝塚は海から3㎞ほど離れていて、標高は50mのところにあります。他の貝塚も同じような地勢上の位置に立地するものが多く、「なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?」という素朴な疑問(興味)が以前からありました。重い漁獲物を3㎞、50m上まで運び上げるには不利な場所であると考えたことから生まれた疑問(興味)です。

しかし、この疑問(興味)を引き金にしてよくよく考えてみると、次のような思考(想像)を導くことができました。

1 大膳野南貝塚集落は漁業専業集落ではないと考えられますから、この場所の立地要因として漁業だけでなく、狩猟や堅果類採集の便利も同時に考慮されたに違いありません。

2 集落の立地要因として堅果類採集、飲料水の確保、燃料の確保、近隣集落との交通条件など、そのサイトに集落を立地させてはじめて得られる項目があります。それらの項目が集落立地で最初に考えられ、ベースになったのではないだろうかと考えます。

3 海から見えない、海が見えない場所に集落があっても恒常的な漁業を行っているので、地域社会に漁業権類似概念が存在していて、漁業に関して広域行政機能が存在していたと考えられます。その漁業権区域(広域社会が認めた集落の漁場)との交通の便がよい場所に集落が立地したと考えます。

4 狩猟の主な場がどこであるか不明ですが、例えばそれが集落周辺2㎞圏内にあるということはありえないと考えます。広域圏の中で、集落から離れた遠隔地に特定の狩場が存在していたのではないかと考えます。狩場での狩猟に関して漁業と同じく広域的行政機能が存在し、狩猟に関して空間的時期的な棲み分け等が図られていて、集落間の争いが起こらないような仕組みがあったと考えられます。その狩場(狩猟権を確保できた狩場)との交通の便が良い場所に集落が立地していたと考えます。

このように思考を巡らしてくると、集落周辺の環境と生業(漁業、狩猟、堅果類採集)の様子からなぜその場所に集落が立地したのか分析をすることが可能になると考えます。
逆にその分析が進めば、発掘情報の少ない遺跡に関して、立地場所から環境や生業の様子をある程度推定することが可能になるかもしれません。

集落立地要因分析が自分にとっての重要な学習テーマとなります。

2 谷奥台地に立地する集落と海辺台地に立地する集落の違い
中期集落のうち有吉北貝塚、有吉南貝塚は谷奥台地に存在しますが、草刈貝塚は海辺台地に存在し、集落から海が見えます。
後期集落のうち六通貝塚、大膳野南貝塚など多くは谷奥台地に存在しますが、菊間手永遺跡は海辺台地に存在し、集落から海が見えます。
このような違いが生業の在り方の違いに関わるのかどうか、関わるとするとその程度はどのようなものであったのか、比較学習を深めたいと考えます。

2018年9月26日水曜日

学習テーマの検討その1 縄文中期~後晩期の貝塚集落消長

学習テーマについて 2

2018.09.24記事「ブログ学習活動の経緯と学習テーマ」の続きです。
縄文時代学習のテーマとして次の4つに取り組みたいと考えています。
1 中期~後期・晩期の貝塚集落消長
2 なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?
3 竪穴住居漆喰貝層有無別の理由
4 土器形式年代と海岸地形との関係
このうち1を検討します。
このテーマは一言でいえば「中期大型貝塚がなぜ消滅し、後晩期大型貝塚がなぜ成立発展し、そしてなぜ衰退したのか」という3つの小テーマから構成されています。
このテーマの学習が進めば上記2~3のテーマもおのずと解決するような包括的な意味がある最も大切なものです。

1 事例学習から得た学習のヒント
「中期大型貝塚がなぜ消滅し、後晩期大型貝塚がなぜ成立発展し、そしてなぜ衰退したのか」という問題意識を確認した上で改めて「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」の関連遺跡事例を読み直してみましたが、なぜ消滅、あるいはなぜ成立したのかという点にかんする記述は皆無でした。しかし次の情報は自分の思考のヒントになるような気がしました。
1-1 貝塚形成や遺構形成の経緯が詳しく調査されている遺跡が多い。
中期大型貝塚の消滅の経緯と後期大型貝塚の成立の経緯を村田川河口低地付近で詳しく調べることは発掘調査報告書を閲覧すれば出来そうです。なぜ消滅したか、なぜ成立したかは別にして、経緯の事実は詳しく調べることができると考えますので、まず自分の手でデータを詳しく並べて検討してみることにします。

1-2 貝類乱獲及び資源保護の情報が調査されている遺跡がある。
有吉北貝塚の事例には「ハマグリは, 漁の盛んな時期, とくに加曽利EI式期に小型化が著しい。殻の成長は早いので,小型化は採取圧による年齢構成の若年化のためと考えられる。一方,加曽利EⅡ式期にはイボキサゴ漁などで混入したハマグリの稚貝をもう一度海へ戻すという資源の保護があったと推察される。この時期に若干大きなサイズの個体が増えたのはその効果とみられる。」と記述されていて乱獲とそれに対する保護の双方の情報が掲載されています。
草刈貝塚の事例には「ハマグリは3cm程度の小型貝を中心に採取しており、 乱獲による若年化の影響が強くみられる。」と記述されています。
六通貝塚の事例には「村田川水系の貝塚でハマグリのサイズをみると,中期貝塚では殻長3cm前後のきわめて小さな個体が中心であり,木戸作貝塚や本貝塚の後期前葉をみても中期とそれほど変わらない。これに対して,後期中葉頃からはかなり大きな個体が増え,後期後葉から晩期の貝層ではさらに顕著である。殻長5cmほどのハマグリが普通にみられ, 7~10cmほどの大型個体も少なくない。成長線分析によると中期では生後1年から1年半のものが中心であり,小型化は高い乱かくによる若年化によることがわかっている。本遺跡における後期後葉以降の大型化は,ハマグリの資源量に対して漁が減ったことを示す。このことは貝類への依存度が減ったことを表していると考えられる。」と記述されています。
これらの記述から、中期大型貝塚の時代と後期大型貝塚の後期前葉までは乱獲が行われ、場合によっては資源保護が図れましたが、後期中葉頃から乱獲が収まった(採貝活動が少なくなった)ことが推察できます。
このような資源の状況が中期大型貝塚の消滅と後晩期大型貝塚の成立繁栄に大きく関わるものであるかどうかは重要な検討ポイントであると考えます。

1-3 土地の荒廃(裸地化)を暗示する遺跡がある
有吉北貝塚では「北斜面貝層は,ほぼ加曽利EⅡ式期以外の混入物のない大規模な貝層である。この時期には台地上の遺構内貝層が少なく,崖崩れなどによる浸食の拡大をくい止めるように,集中的に廃棄が行われたようである。」という記述があります。断面図等をみるとガリー浸食防止土木工事跡のように推察できます。貝塚周辺の谷津斜面が裸地化したためにガリー浸食が発生し、集落存亡の危機に直面して斜面保護工を実施したと捉えられます。ガリー浸食が発生するほど植生が貧弱になっていたことから、集落近辺は燃料や建材として樹木がほとんど伐採しつくされていた状況が考えらえます。
森林乱伐と植生破壊は食料・燃料・建材等の資源の減少を招くだけでなく、土地の浸食、水問題(泉の枯渇)、鳥獣減少、土砂流入による沿岸域魚介類の減少等の連鎖反応を生じます。
このような森林資源破壊とそれによる環境破壊が中期大型貝塚消滅に関わっているのか、関係ないものであるのか検討する価値は大きいと思います。
たとえ食料は賄えても、燃料(燃焼エネルギー)が無くなればその場での集落運営は不可能です。

有吉北貝塚北斜面貝層平面図断面図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
当時の切羽つまったガリー浸食防止土木工事跡と考えます。

1-4 他地方との交流を示す遺跡がある
有吉南貝塚では「有吉南貝塚の竪穴住居跡の特徴として,火床面を2面もつ複構造炉ともいうべき炉の存在とその出現頻度の高さがあげられる。そのほとんどは地床炉と埋甕炉の組み合せで構成されており,埋甕に使用されている土器の多くは東北地方南部を主要分布域とする大木式およびその影響を受けたものである。大木式文化圏に特徴的な複式炉との関係が考えられる。」という記述があります。
実信貝塚では「本貝塚から出土した土器群は,中期後半から晩期終末にかけてのものである。注目される資料として晩期終末を中心とする土器群がある。東北地方の大洞(おおぼあら)式系の土器群であり,このほかに,詳細な時期が不明の壺形土器や,稲妻状(Z字状)の意匠を有する粗製土器などがある。」という記述があります。
菊間手永遺跡では「図4-3は屋外埋設土器に用いられた土器であるが東北地方の後期前半に属する螢沢式土器であり,関東地方での出土例がきわめて稀なものである。このほかに,中部瀬戸内地域の後期前半に属する福田K2式土器も出土例が稀なものであり,注目される。」という記述があります。
これらの記述で示される他地方との交流が単なる一般的な交易・交流であるのか、それとも集落住民の心の支えとなるような交流であったのか、その違いはとても重要であると考えます。たとえ遠方であっても心の支えとなるような交流が絶たれると集落の勢いが無くなるということはあり得ると考えます。

2 学習方法
このようなヒントを活用して次のような学習を展開しようと思います。
2-1 千葉広域学習
千葉県全体を対象にして「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」事例、「同 考古4(遺跡・遺構・遺物)」の貝塚、西野雅人先生を始めとする研究者の論文等の学習をして学術界における最新知識を入手します。

2-2 村田川河口低地付近を対象とした発掘調査報告書分析学習
次のようなテーマを念頭において発掘調査報告書データの分析学習を行います。
・有吉北貝塚、有吉南貝塚、草刈貝塚等の消滅理由
・六通貝塚、大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡、菊間手永遺跡等の成立理由、発展理由
・大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡等の短期消滅理由
・六通貝塚、菊間手永遺跡等の長期継続理由、消滅理由

とくに中期遺跡(有吉北貝塚、有吉南貝塚、草刈貝塚等)消滅と後期遺跡(六通貝塚、大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡、菊間手永遺跡等)成立の関わりについて詳細な経緯、関連に着目して学習を進めることにします。

2-3 学習チェックリストとしてジャレド・ダイアモンド5つの社会崩壊潜在要因の活用
学習チェックリストとしてジャレド・ダイアモンドのつぎの5つの社会崩壊潜在要因を活用することとします。
1)自らが引き起こした環境・資源破壊の影響
2)気候変動の影響
3)近隣敵対集団の影響
4)友好的な交流相手の影響
5)問題に対する社会の対応の仕方

2018年9月24日月曜日

千葉=チパ説の根拠 知里真志保の網走語源解説

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その3

梅原猛が地名「千葉」はアイヌ語「チパ」(ヌササンのある場所)を起源とするという仮説を述べています。そのなかで「チパ」がヌササンのある場所という記述の出典や情報源は述べていません。(注 ヌササンとはイナウの集まりでつくった棚、つまり木製祭壇。ヌサを日本語表記すれば幣)

ただ、厳密な証拠はありませんがアイヌ語学者知里真志保の著書「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター)に記述されている網走語源情報を梅原猛が利用していると推定しますので、その情報を引用紹介します。

知里真志保は著書「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」のなかで永田方正氏の蝦夷語地名解のChipashiri説明(下に引用)を批判して次のような記述をしています。
……………………………………………………………………
「チパシリ」はchipa-sirで、「幣場〔の〕・島」の意であるらしい。*)
*)アバシリ(網走市)は、アイヌ語「ア・パ・シㇽ」(a-pa-sir「われらが・見つけた・土地」)から出たとも、「アパ・シㇽ」(apa-sir「入ロの・土地」)から出たとも云われ、或はアパシリは古くチパシリと云ったが、それも「チ・パ・シㇽ」(chi-pa-sir「われらが・見つけた・土地」)の意であるとか、或いは神鳥が’チパシリ!チパシリ!'と鳴いたという伝説から名つげられたとか、諸説紛々としている。しかし,「チパ」は実は「イなウサン」(inàw-san「幣場」)の古語で、「チぱシㇽ」(chipà-sir「幣場のある・島」)の意に解すべきものであるらしい。アバシリ川の川口に近い海中に帽子岩というのがあって、古くは「ヵむイ・ワタラ」(kamùy-watara「神・岩」)と云った。土地のアイヌは非常にこれを崇拝し、アザラシ狩に出る時は、かならずここに幣を捧げて祈った。そこに捧げた幣が倒れているのを見た場合は、不吉だとして出漁を見合わせて戻った。漁季にはじめてアザラシを捕った時は、ここでイよマンテ(iyómante 魂送の儀式)をとり行つた。この岩が、実は「チぱシル」(幣場のある島)だったらしい。ただ、「チパ」が古語になって、その意が解し難くなるに及んで、民衆はこれを「チ・パ・シル」(われらが・発見した・土地)の意に俗解し、さらに「チ」(chi- われら)を同意の「ア」(a-)に代えて、「ア・パ・シㇽ」(われらが・発見した・土地)としたのであろうと思われる。
知里真志保著「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター)から引用
……………………………………………………………………
参考●永田方正氏の蝦夷語地名解のChipashiri説明
Chipashiri;我等ガ見付タル岩[昔シ,アバシリ沼ノ岸ニ白キ立岩アリ,笠ヲ蒙ブリテ立チタル「アイヌ」ノ如シ,「アイヌ」等之ヲ発見シテ「チパシリ」ト改称スト云フ,此白石崩壊シテ今ハナシ,名義国郡ノ部二詳ニス,参照スベシ,或云フ,此ノ岩,神自ラ「チパシリ」「チパシリ」卜歌ヒテ舞ヒタリ,故二地二名クト,或ハ云フ,一鳥アリ,「チパシリ」「チパシリ」ト鳴キテ飛ブヲ以テ地二名クト,「アイヌ」口碑相伝フル処大同小異アリ](地名解475)。
知里真志保著「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター)から引用

知里真志保著「アイヌ語入門 -とくに地名研究者のために-」(初版1956、北海道出版企画センター) 写真は2004年発行七刷
……………………………………………………………………

「「チパシリ」はchipa-sirで、「幣場〔の〕・島」の意であるらしい。」と記述していて、「あるらしい」という普通使わないあくまで推定であるとする記述になっています。その理由は現在使われているアイヌ語ではなく、アイヌ古語を推定復元しているのでこのような表現になったと考えます。

梅原猛が使った情報源が判明したと考えます。
同時に、チパのイメージの例がアザラシ猟に出る時の祈願の場であることがわかりました。この情報は千葉地名が発生した時の様子を検討する材料の一つに使えると考えます。
チパ(ヌササン)の最大の役割は、危険や苦労をともなう生業の成功を祈願する場であったのかもしれません。
千葉地方の縄文後期晩期の主要生業は漁労ではなく狩猟であるようですから、千葉地方では狩猟祈願でチパが盛んに利用されたということかもしれません。
全国で同じようにチパが狩猟祈願で使われていたなら、千葉地方だけで地名チパ=千葉が生れる説明は出来ません。従って、千葉地方でだけ狩猟祈願でチパが盛んにつかわれる(東京や茨城では狩猟祈願に別の祭具が使われる)などといったチパに関わる何らかの地域独自性が証明できれば地名「千葉」=チパ起源説の蓋然性が高まると考えます。
この梅原猛仮説を追うことによって自分の縄文時代学習問題意識が研がれると想定できますから、今後の縄文時代学習が楽しみになりました。

ブログ学習活動の経緯と学習テーマ

学習テーマについて 1

1 ブログ学習活動の経緯
大膳野南貝塚学習の中間とりまとめ」の作成はそれまでの自分の学習を決算するような意味合がありました。その後ひきつづき、大膳野南貝塚で得た興味を周辺遺跡に投影して学習を深めるべく「村田川河口低地付近縄文集落の消長分析」学習活動をはじめました。

しかしその後、この中間とりまとめに千葉県縄文研究の最先端で活躍される西野雅人先生(千葉市埋蔵文化財調査センター所長)からコメントをいただくことができました。その結果、自分の学習がいかに井の中の蛙であったのかという身の程に気が付くことができるとともに、きわめて有益なアドバイスを多数いただくことができました。
西野雅人先生からいただいたアドバイスのうち主要なものは次の2点です。
・大膳野南貝塚で取り組んだテーマの多くは周辺の多くの遺跡の情報を総合して判断すべきであり、大膳野南貝塚だけの情報で結論を出すべきではない。
・漆喰貝層有無別竪穴住居の違いはそれがどのような社会状況(機能・活動等)に対応しているかという視点から検討すべきである。生業を異にする集団の違いとはみられない。
西野雅人先生に感謝します。

また「千葉県の歴史資料編」の旧石器・縄文時代事例266編を電子化データベース化して重力から解放されて自由に利用できるようになりました。その結果、縄文遺跡事例の知識を得る機会が飛躍的に増大し、自分が知らなかった興味深い多数事例の学習が実現し、学習上の視界が急速に広がりました。

こうした心理衝撃・専門家アドバイス・情報収集力増強という経緯の中で「村田川河口低地付近縄文集落の消長分析」学習活動が充実して、大膳野南貝塚学習で得た興味を発展させる新たな4つの興味(学習テーマ)を組み立てることができました。

ブログ学習活動の経緯

2 今後の学習テーマ
2-1 中期~後期・晩期の貝塚集落消長
次の疑問の解明に強い興味をおぼえます。
ア なぜ中期貝塚集落が衰滅したのか?
有吉北貝塚や有吉南貝塚が社会崩壊した理由に興味をおぼえます。
イ 大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡が堀之内式期に盛期を共にし、その間六通貝塚が縮小している理由は何か?
ウ 大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡が衰退する加曽利B式期以降六通貝塚が発展している理由はなにか?
集落消長は生業の環境や条件と深くかかわってと考えますから、おそらく生業の分析がこのテーマ検討の鍵になると推測します。

2-2 なぜ谷奥台地に貝塚集落が立地するのか?
中期有吉北貝塚、有吉南貝塚、後期六通貝塚、大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚は谷奥台地に立地します。中期草刈貝塚、後期菊間手永遺跡の様に海辺台地に立地するものもありますが多くの貝塚は谷奥台地に立地します。その理由を解明したいと考えます。貝塚の立地分析もそのメインは生業の分析と関わると考えます。

2-3 竪穴住居漆喰貝層有無別の理由
多遺跡の情報を収集・比較して、竪穴住居漆喰貝層有無別の理由がどのような社会状況(機能、活動、組織、集団)に対応するものなのか検討することにします。
漆喰は大膳野南貝塚でのみ確認されているので、厳密には竪穴住居貝層出土有無別が存在する理由の分析ということになります。

2-4 土器形式年代と海岸地形との関係
・技術的問題意識として、土器形式年代と既往資料で発表されている縄文時代海岸地形との対応関係を十分納得して理解できるようにしたいと考えています。
・また新たに生まれた土地の環境とその利用という意味で、後期・晩期に陸化した土地の様子や利用についても理解したいと考えています。

次の記事以降で4つの学習テーマについて本格学習開始前にじっくり考えて見ることにします。

2018年9月22日土曜日

地名「千葉」はチパ説(梅原猛仮説)の検討について

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その2

2018.09.20記事「地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説」で地名「千葉」がチパ(ヌササン)に由来するという梅原猛仮説を紹介しました。
この仮説は自分の考古歴史趣味における2つのテーマ(縄文時代と古代)を結ぶ可能性があるのでとても強い興味を持ちました。多少時間をかけてじっくり楽しみたいという気持ちになり、その検討項目をピックアップしてみました。

1 梅原猛仮説に関する検討項目
1-1 アイヌ語や古代語に関する検討
・縄文時代の縄文語チパがアイヌ古語語彙チパとして同じ意味で現代に伝わってきているか?
・古代語にチパ(チハ)が存在し、それはヌササンや類似祭壇(幣や梵天等)を意味していたか?

1-2 チパ-チハ-チバ地名が縄文時代に生れた理由
・縄文時代の都川河口付近にチパが多いなどの「地名として残るほどの特別な理由が存在して」チパ-チハ-チバが地名として生まれたか?
・縄文時代の考古遺跡から関連情報を汲み取り、説得力のある仮説をつくる必要がある。

1-3 チパ-チハ-チバ地名が弥生・古墳時代を通じて伝承してきた理由
・地名チパが弥生時代・古墳時代を通じて人々に使われたか?
・弥生時代、古墳時代を通じてチパ-チハ-チバ地名を伝承した「ヒトビト」が存在したことの考古遺跡等による説明をする必要があります。

1-4 参考 全国で残存するチパ-チハ-チバ関連地名
・地名チパ-チハ-チバが生れた類似事例が他の場所に存在するか?
・例 知里真志保の網走(chipasir)語源。

1-5 参考 「千葉」語源既往資料の検討
・「千葉」語源既往資料の整理・検討と評価・批判

今後折に触れて上記検討課題に取り組みたいと思います。

2 「千葉」語源既往資料の把握
手持ち資料を漁ったところ、学術性のある地名「千葉」語源関連資料はおそらくほとんど揃いました。ラッキーです。(一般通俗図書はとりあえず扱わないことにします。)
2-1 大日本地名辞書坂東(吉田東伍、明治40年)復刻本
・邨岡良介「日本地理誌料」の千葉語源諸説紹介の掲載(植物繁茂説など)

2-2 千葉県千葉郡誌(千葉郡、大正15年)復刻本
・千葉が古事記から記述されていること。

2-3 千葉市誌(千葉市、昭和28年)
・「千葉という名称の由来」(武田宗久)掲載…原始時代における「チハ」という同族集団存在の仮説。

2-4 アイヌ語入門(知里真志保、1956年)
・アイヌ古語「chipa」=「inaw-san(幣・棚)」による網走の説明。

2-5 千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館、昭和47年)
・邨岡良介「日本地理誌料」の千葉語源諸説紹介の掲載(植物繁茂説など)

2-6 千葉市史 原始古代中世編(千葉市、昭和49年)
・「千葉という名称の由来」(武田宗久)掲載…原始時代における「チハ」という同族集団存在の仮説。

2-7 千葉市史史料編1原始古代中世(千葉市、昭和51年)
・千葉地名関連古文書抜粋掲載

2-8 角川日本地名大辞典12千葉県(角川書店、昭和59年)
・下総国旧事考の説(植物繁茂説)紹介

2-9 千葉県の歴史通史編古代2(千葉県、平成13年)
・万葉集歌紹介。

3 感想
3-1 梅原猛仮説の非普及
梅原猛仮説の存在は最近偶然知ったのですが、WEBを検索するなどしてもほとんど引用されていません。これまで千葉県民に対する影響力はほとんどないようです。恐らく考古遺物としてのチパ(ヌササン、イナウ)の出土が無かったこと、あるいはチパから派生した木製祭具(幣[ヌサ]、梵天、イグシなど)に注意が払われなかったことによるのではないかと想像します。

3-2 原始時代「チハ」同族集団存在仮説を説いた武田宗久の先見性
梅原猛仮説に共鳴する立場から「千葉」語源既往資料を読むと「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)収録論文「千葉という名称の由来」(武田宗久)の先見性が光ります。この論文の中で地名「千葉」語源として原始時代における「チハ」という同族集団存在仮説を提起しています。この論文は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市、昭和49年)にも再録されています。しかし残念ながらこの論文が掲載されている2冊の図書はともに久しく絶版であり、武田宗久仮説を知る人はおそらく限りなく少ないと想像します。
武田宗久が「千葉」語源に確信を持った背景にはそれまで情報が少なかった縄文時代遺跡を積極的に発掘するとともに弥生時代、古墳時代、奈良平安時代までの通史を全て著述する活動を行い、その体験から「チハ」という同族集団を考えざるを得なかったのだと思います。

「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)収録論文「千葉という名称の由来」(武田宗久)の最初ページ 論文は全6頁

「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)

3-3 梅原猛仮説を構成する3要素
私の想像ですが、梅原猛は武田宗久仮説(原始時代における「チハ」集団の存在)を知っており、知里真志保のアイヌ古語「chipa」=「inaw-san(幣・棚)という説明を本人から直接あるいは間接に聞いていたのだと思います。そうした2つの知識の上に本人のチパにおける祭体験が加わって、地名「千葉」がチパ由来という仮説に到達し、確信を抱いたのだと思います。

3-4 印西市西根遺跡出土イナウ似木製品の大きな意義
印西市西根遺跡出土イナウ似木製品が杭ではなくイナウそのものであると考えましたが、そのような立場にたつと、縄文時代遺跡からイナウが出土したのですから、これまで無視されてきた梅原猛仮説が千葉県民に受け入れられるキッカケになるのではないだろうかと考えます。また見捨てられている武田宗久仮説の先見性に人々が気が付くことになると思います。

2018年9月20日木曜日

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その1

8月に「縄文後期イナウ似木製品の意匠と解釈 ~印西市西根遺跡出土品の実見・分析・考察~」をまとめて公表しましたが、このまとめ作業をするなかで地名「千葉」が縄文語起源であり、それもイナウを起源とするものであるという梅原猛の説を知りましたので紹介しつつ数編のシリーズ記事を書いて検討します。
自分にとっては衝撃があり、かつ説得力のある仮説です。この記事では仮説そのものを引用掲載します。

1 仮説 掲載図書
梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)の「第一の旅 異界の旅へ、鳥、四-鳥その二、イナウの美-「チパ」から「チバ」へ」にこの仮説が掲載されています。

図書 梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001) 

2 イナウの美-「チパ」から「チバ」へ 抜粋引用
著者は帯広在住のアイヌの方が司祭する祭に参加した体験を語るなかで地名「千葉」が「チパ」(アイヌ語でヌササンのある場所)起源であると考え、そう考えると縄文文化が発展した千葉の地名の意味がよくわかると述べています。

そしてイナウは、祈りを捧げる神さまの数だけ作られる。縄でそれぞれを結びつけて、一つの棚状のものにする。これを、「ヌササン」という。「ヌサ」とはイナウの集まり、「サン」とは棚のことである。今はアイヌでもあまり使われなくなった言葉であるが、このようなヌササンのある場所を「チパ」という。つまり、ヌサをおいて神を祀る場所が、チパなのである。かつてはアイヌの家のどこにでも、家の東側にこのチパは設けられていたという。また村全体として神を祀るチパもあったようである。
「イナウ」、日本でいう「削り掛け」は、平城京跡からもたくさん出てきたという。かつてバチェラーが見たイナウの並ぶ美しい光景は、古代日本にもあったのであろう。そしてイナウ、削り掛けの並ぶ棚、ヌササンのあった場所、チパに私の想像はおよぶ。「チパ」とは「千葉」に通ずる言葉ではなだろうか。
「日本書紀」の応神天皇の条に、近江(おうみ)に行くとき山城国宇治郡の菟道野(うじの)に立って国見をしたという歌がある。
千葉の葛野(かづの)を見れば百千足(ももちた)る家庭(やには)も見ゆ国の秀(ほ)も見ゆ
この歌の「千葉」とは「チパ」ではないか。葛野は神を祀る場所で、そこにチパがあったのではないか。その下に「百千足る家庭も見ゆ」とあるから、「家庭」というのは家の中で神を祀る場所というのであろう。
また「チハヤフル」は神にかかる枕詞(まくらことば)であるが、これも「チパが古くなっている」、つまり「古い神々がいる」という意味で神にかかるのではないかと考えられる。さらに、氏にかかる枕詞「チハヤビト」、これは武勇の優れた人と従来解されてきたが、やはり「チパヤヒト」つまり「神祭りの霊場に集まる人」という意味で、氏にかかったのではないかと思う。「千葉」をそのように解すると、あの千葉県の「千葉」の意味もよくわかる。「千の葉」という意味では何のことかわからないが、チパのあったところと解すればよくわかる。千葉県は縄文の遺跡の宝庫であり、縄文文化がもっとも発展したところである。」梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用

チパ(ヌササン)で祈る著者 梅原猛著「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)から引用 

3 感想
千葉県には縄文時代の遺跡が数千あり縄文文化が花咲いたので、その影響は後世に強く伝わったはずです。縄文人がつかった言葉も地名として数多く伝わってきていると考えています。ただ古い地名が縄文人から伝わってきたと認識できていないだけで学術が進歩すれば数多くの縄文語起源地名が明らかになると考えています。このブログでも過去の幾つかのテーマで検討しています。
千葉が「チパ」起源であり、それが縄文時代の文化から継承されたものであるという梅原猛仮説に強い興味と共感を覚えます。さらにそれがイナウと結びついているので、自分のとってより大切な仮説となります。
地名「千葉」は現在では範囲が「千葉県」まで拡大していますが、当初は現在の千葉市中心市街地付近つまり都川河口付近であったと考えられます。その付近にある縄文時代の遺跡には加曽利貝塚も含まれていて、加曽利貝塚が国特別史跡に指定されていていわば土地に関わる国宝であると考え千葉市がその価値の大きさを行政に活かそうとしている現在、この仮説の意義には大きなものがあると考えます。

都川河口付近の代表的縄文時代遺跡

2018年9月19日水曜日

事例学習 菊間手永遺跡

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 18

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では菊間手永遺跡を学習をします。村田川河口低地付近の事例学習はこれで一応完結です。

1 菊間手永遺跡の位置

菊間手永遺跡の位置
近くにある実信貝塚の学習は既に2018.09.13記事「事例学習 実信貝塚」で行っています。

2 遺跡の概要
「本貝塚は台地の最北端の海岸平野を見下ろす標高約16~20mの地点に位置する。周辺の遺跡としては,本遺跡の台地直下の海岸平野上に,実信貝塚がある。実信貝塚は標高約5mの現水田面から検出されており,貝層の形成時期(縄文時代中期後半~晩期終末)は,本遺跡の形成時期(後期前半から晩期終末)と併行することから,本遺跡の性格を解明するうえで,重要な貝塚であるといえる。
本遺跡には,馬蹄形を呈し, 北側に開口する環状貝塚が形成されており,このほかに後期前半から晩期の住居跡26軒、後期前半を主とする時期の土坑(小竪穴)3基が検出されている。このほかに、墓域・住居跡・土坑から計82個体分の人骨が検出されている。」

遺構配置図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
遺構配置図では貝層の分布は斜面に限定されています。台地の地形が馬蹄形をしているように観察できますが、これが環状貝塚の実相を表現しているものか、それとも自然地形であるのか自分には不明です。参考文献で確かめたいと思います。

遺構配置図の1960年代空中写真へのプロット

1960年代空中写真

3 遺物
「遺物としては, 土器・ 石器のほかに,土製品(異形脚付土器・ 土偶など),骨角器(ヤス状刺突具・鏃・ 骨針など),貝製品(貝輪・ヘラ状加工品など)が出土している。自然遺物として.魚類(クロダイ・スズキなど),爬虫類(アオウミガメ)、鳥類(ガンカモ類など),獣類(シカ・イノシシ類)の動物遺存体出土している。
本遺跡からは多量の土器・土製品が出土している。注目すべき遺物としては,安行3a式期の異形脚付土器と浅鉢がある。ともに03号住居跡からの出土である。図4-3は屋外埋設土器に用いられた土器であるが東北地方の後期前半に属する螢沢式土器であり,関東地方での出土例がきわめて稀なものである。このほかに,中部瀬戸内地域の後期前半に属する福田K2式土器も出土例が稀なものであり,注目される。」

骨角器 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

出土遺物 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

4 感想
この貝塚集落のメイン生業が集落存在期間をとおして漁労であるのかどうか確かめたいと思います。六通貝塚は海から離れた場所に立地し、加曽利B式期以降の生業では漁労の比重が軽くなり、狩猟の比重が重くなるような印象を受けます。菊間手永遺跡は海辺に立地しますが、縄文晩期までに漁労の比重が変化するのかしないのか、六通貝塚と集落発展モデルが同じなのか異なるのか、比較対照検討の価値が大きいと感じます。

なお、蛇足ですが菊間手永遺跡の縄文人がミナトとする実信貝塚から出る海域・干潟には村田川河口湾の湾入部は含まれていないような印象を受けます。菊間手永遺跡からは村田川河口湾の湾入部は見えません。もし漁労のメインテリトリーが村田川河口湾の湾入部だとすると集落立地位置が台地の北端部に位置すべきです。縄文時代後期から晩期の村田川河口湾の湾入部は六通貝塚のテリトリーであったようです。縄文時代中期では草刈貝塚や神門遺跡をミナトとする集落が湾入部をテリトリーとしていたと考えられますから、湾入部は最初から右岸(北岸)サイドのテリトリーであるようです。こうした情報は縄文人の移動入植経路や順番と関わるのではないだろうかと想像します。

2018年9月18日火曜日

事例学習 誉田高田貝塚

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 17

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として「千葉県の歴史 資料編」掲載事例の学習を遺跡別にしています。この記事では誉田高田を学習をします。

1 誉田高田貝塚の位置

誉田高田貝塚の位置
誉田高田貝塚は都川の上流の河畔台地に位置し、河口からの直線距離は約10.5km、西の村田川河口低地までの直線距離は約5kmである。

2 貝塚の概要
「貝塚は,台地の縁辺や, 一部は斜面にかけて大きく4か所のブロックに分かれて堆積している。平面形は半月形を呈し,約100mの規模である。大きなブロックはそれぞれ30~40mの規模であり,小さいものは数m程度の規模である。また,住居跡内や土坑内に堆積したと考えられる地点貝塚が多数存在する。」

誉田高田貝塚貝層分布図 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 遺構
「1次調査で堀之内式期の住居跡が1軒,加曽利B式期の住居跡が1軒検出されている。また,人骨集積遺構が1基検出されている。2次調査では,堀之内式期から加曽利B式期の住居跡が5 軒以上検出され,このほか廃屋墓1基・土坑墓1基(1次調査の人骨集積遺構の続き)・ 土坑11基・ピット200基が検出されている。住居跡は複雑に重複し,3回以上の建替えが行われた例も存在するという。廃屋墓には成人女性と幼児が合葬されていた。」

4 人工遺物
「発見された人工遺物は,土器・石器・骨角器・土製品である。土器はすべて後期のもので,堀之内式土器・加曽利B式土器が主体である。1次調査地点では,堀之内式土器が多く出土し, 2次調査地点では加曽利B式土器が多いようである。骨角器は骨針・骨鏃・イノシシの牙鏃・鹿角製装身具や、貝匙ともいうべきスクレイパーが発見されている。土製品には, ミニチュア土器・耳栓(耳飾)・ 土製円盤がある。」

5 自然遺物
「自然遺物は貝類37種・魚類10種・鳥類1種・哺乳類5種がある。貝類のなかでは巻貝のキサゴ類が全体の90%と,圧倒的多数を占めている。また二枚貝ではハマグリ・シオフキ・オキアサリが多い。魚類ではマダイ・スズキ・コチ・ボラという湾内に特徴的な魚種が獲られている。2次調査で,軟骨魚類・ニシン科・フナ・コイ科・ウナギ・ハゼが新たに加えられているが,主体を占めているのはフナであるという。鳥類はキジが出土している。哺乳類は,シカ・イノシシ・イヌ・サル・タヌキが出土している。」

6 人骨集積遺構
「特筆すべきは,人骨集積遺構であろう。1・2次調査を合わせて最小個体数28体の人骨が、解剖学的な正常位を失って発見された。直径3mをこえる土壙に納められていたと考えられる。調査所見によれば、「一度改葬された痕跡があり」「完全な個体をなしたものは1体もなく、長骨上に頭骨を置いたような状態で出土した」という。」

人骨集積遺構内人骨検出状況 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

7 感想
記述にはこの貝塚住人がどの場所で漁業をしていたのか書いてありませんが、その場所が都川河口域であることが当然であるような印象を受けます。出典資料を読んで確認したいと思います。誉田高田貝塚と六通貝塚の関係を知ることが当面のテーマの一つとなります。
同じ遺跡に土壙多人数合葬と廃屋墓の双方があることが判ります。また土壙多人数合葬の例が市川市権現原貝塚や船橋市古作貝塚でも見られると書いてあり、自分の知見を広める上で参考になります。ちなみに市川市権現原貝塚の事例では集落に2グループが居住し、その間の婚姻関係で生まれたⅡ世たちによる、Ⅰ世開拓者にみる集落2分関係撤廃を目的とした再葬合葬であるという説を紹介検討しており、大変興味深いものです。船橋市古作貝塚の事例でも「そもそも改葬の目的は、異なる出身者からなる集団の祖先を一体化することである。」という視点から詳しい検討がなされ、興味津々の記述となっています。後日詳しく学習したいと思います。

8 特別検討 貝塚と空中写真との関係
衛星撮影高解像度マルチスペクトル画像を使えば現代日本においても未知の考古学的遺跡を発見できるのではないだろうかと密かに興味を持っています。そうした興味を深める上で誉田高田貝塚はまたとないテスト学習の場になりそうです。
●1960年代撮影空中写真に貝塚分布図を重ねてから空中写真だけをみると、そこに貝塚分布が写っていることがよくわかります。

1960年代空中写真+誉田高田貝塚分布図

1960年代空中写真

●おなじく現代空中写真(2007年以降撮影)と貝塚分布図を重ねた後、現代空中写真だけをみると、そこに貝塚分布を確認できます。

現代空中写真+誉田高田貝塚分布図

現代空中写真

●さらに、現代地形図(地理院標準地図)と貝塚分布図を重ねると、地形図に貝塚の高まりが表現されていることが確認できます。

地理院標準地図+誉田高田貝塚分布図

地理院標準地図

一般の空中写真や地形図で確認できるのですから、マルチスペクトル画像ならばより詳しい浅い地下の情報が入手できそうです。