以前、旧版1万分の1地形図(大正6年測量)における竹林の偏在分布について話題にしました。
柏井付近に竹林の分布が集中していて、堀割普請と関係するのではないかと推論したのですが、すっきりした結論にまでは到達できませんでした。
この検討の際、高津新田(主に仲東谷津北岸台地)にも竹林が偏在していることに気がつきました。
最近仲東谷津をはじめ高津新田付近を歩く機会がありましたので、再度高津新田付近の竹林偏在の理由について考えてみました。
旧版1万分の1地形図における竹林記号の分布
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2011.2.6記事「花見川上流紀行20竹林その3」
2011.6.12記事「タケノコ採り」
現在、高津新田付近は市街地化がすすみ、竹林はほとんど残っていませんが、旧家の屋敷地内には、マダケの竹林を見かけました。
旧家の屋敷内のマダケ竹林
さて、大正6年測量の地図で確認できた高津新田における竹林の偏在について、その根拠ある理由はわかりませんが、次のようなメモを作成しておくことにより、自分自身の思考の片隅にアンテナを張っておきたいと思います。
そして、いつの日にか根拠ある理由を語れるようになりたいと思います。
ア 柏井の竹林の主分布地は花見川谷津の谷壁斜面である。高津新田の竹林分布地も斜面(小崖2)が多い。
→元来日本にはない竹林を育てた主要因は防災上のものである?
→印旛沼堀割普請に関連して、防災工法(法止め)として持ち込まれたのが柏井における最初の竹林である?
イ 柏井の竹林と高津新田の竹林は直線距離で、近いところで約1㎞しか離れていない。
ウ 高津新田の開拓参加農民に柏井からの参加者が含まれていた可能性が高い。
エ 高津新田の最初の検地は享保の頃であり(八千代市教育委員会ヒアリング)、印旛沼堀割普請が行われた享保、天明、天保の頃の柏井で起こった出来事(最新技術導入等)の情報が生産性向上に励む開拓地・高津新田にそのまま伝わった可能性が高い。
→人的関係(姻戚関係等)により、柏井から高津新田に竹林分布が飛び火した可能性?
オ 現代でもマダケのタケノコを(転売目的で)採る人がいて、近在(勝田台や八千代台)の非スーパー系青果店で売られている。(地元内流通が存在する。)
→当初、防災上の役割で形成された竹林が、タケノコ生産や農業用資材提供の機能を果たすことにより、土地利用上の市民権を得た?
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