鏡味完二の地名型の7番目の「~条」を検討します。
1 鏡味完二による「~条」の検討
次に、鏡味完二の「~条」の検討結果を引用します。
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条里の地名
大化の条里制に由来する地名には,条・里・坪などがある。"~里(ザト)"という地名が多く広く分布し,坪にしても条里制と無関係のものも予想される。
これらに比してただ"~条"の地名の分布は,殆んど条里制の遺物とみられる現在の地割の分布と一致するので,これのみをとることにした。
大化元年は645年であるから,多くの条里地名の発生の時期は700年頃とみられる。
これに対して和銅4年(711年),「遣桃文師干諸国,始教修織錦綾」,またその翌年「令二十一国,始織綾錦」とあるのは,条里地名の発生時期と大体一致するから,ここに21ケ国に綾錦をおらしめた当時の文化地域を,条里地名の分布図と対照してみると,越前を除く北陸地方と信濃,甲斐だけが前者にない以外は,Fig.22No.7の開拓地域と合致していることが解る。
すなわちこの21ケ国というのは,西は安芸,石見,伊予,阿波まで,東は越前~伊豆を結ぶ線までの地域である。
以上の対比により700年頃の大和朝廷の支配圏が広島~伊豆の間に強く及んだことと,多くの"~条"の地名がその範囲内に分布するようになったことを推定す
ることができる。
〔地図篇.Fig.326〕
鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957年) から引用
鏡味完二(1958)「日本地名学 地図編」(日本地名学研究所)から引用
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条里制に関する知識は発掘等により増大し、鏡味完二が想定したような大化の条里制で全国に一斉に条里が建設されたことはないようです。
参考に千葉県内で最も典型的な条里地割の例として知られている市原市の発掘情報を次に掲載します。
2 市原条里地割の成立時期
市原条里地割の成立時期に関する「千葉県の歴史 通史編 中世」の記述を引用します。
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市原条里地割の成立時期
市原条里制遺跡の畦畔(けいはん)・地割の方向(以下、地割方位)は、東側の台地の方向に合わせるように、N~四五度~E(北から四五度、東へ振れる)の方位をとっている。
市原・郡本地区の発掘調査では、古代から近世にかけての水田の痕跡がⅠ~Ⅲ層までの間で五面確認されており、その耕作土層中に含まれる土器・陶磁器の型式から各水田面の年代は、Ⅰ層(十八世紀以降)、Ⅱ1層(十七世紀~十五世紀)、Ⅱ2層(十四世紀~十二世紀)、Ⅱ3層(十一世紀~九世紀後半)、Ⅲ層(九世紀以前)と推定されている。
昭和四十年代まで地表面に残されていたN~四五度~Eの地割方位は、Ⅰ層からⅡ3層の水田区画と基本的に一致し、十一世紀以降、市原条里制遺跡では同じ地割方位が踏襲され続けてきたことが判明した。
ところが、Ⅱ3層の下層、郡本地区のⅢ3層で確認された畦畔と水路の方位は、N~六五度~Eの方位をとっており、市原条里制遺跡の基本的な水田区画の方位とは大きく異なっている。
この水路周辺からは、八世紀後半から九世紀にかけての須恵器・土師器が出土しており、Ⅲ層の畦畔と水路は、この時代に近い時期に機能していた考えられる。
つまり、八世紀後半から九世紀(奈良時代から平安時代前半)にかけて市原条里制遺跡には、十一世紀以降の方位とは異なった水田区画が存在していたことになり、広大な範囲の水田を統一した方位で区画する条里地割は成立していなかったと考えざるを得ない。
そして、市原地区と郡本地区の水田が、統一された方位で区画されるのは、Ⅱ3層の十一世紀の水田で確認できることから、市原条里制遺跡のN~四五度~Eの地割方位は、十一世紀頃までに大規模な水田区画の再編成が行われ、条里地割の面的な施工が行われた結果成立したと推定できる。
「千葉県の歴史 通史編 中世」(千葉県発行)から引用
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最初の条里地割が出来たのが8世紀後半頃から9世紀頃であり、その条里地割が全面的に改変されて、11世紀以降から20世紀までは同じ姿であったことを読み取ることができます。
千葉に限らず、条里地割は班田収授制に伴い施行されたものとは見られていないようです。
条里地割は鏡味完二の時代とは異なり、班田収授制に伴ってキャンペーン的に全国一斉に行われた地域開発プロジェクトとはみられていないようです。
条里地割はキャンペーン的地域開発プロジェクトではなく、生産や徴税等の効率化に関わる仕組み・技術です。
3 千葉県における条里地割と地名「~条」の関係
千葉県小字データベースから、大字と小字を対象にして「~条」の地名を検索して、条里地割の位置を示した情報図にオーバーレイしてみました。
千葉県の「~条」地名
大字・小字「~条」の分布
条里地割がある館山市北条平野で大字・小字が対応、また鴨川市で小字が対応します。
しかし、それ以外で条里地割と「~条」地名は全く対応しません。
全体として捉えると、「~条」地名と条里地割は無関係のように観察できます。
館山市北条平野の大字「北条」について角川千葉県地名大辞典を調べると、次のような結果になりました。
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ほうじょう 北条 館山市
館山湾岸に沿った砂丘列台地上に位置する。
北条は平安後期,律令郡制の解体に伴い安房郡が分割され,それに伴い成立した国衙領の所領単位の1つと推定され、当地に対応する南条の地名も残る。
角川千葉県地名大辞典から引用
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北条、南条は条里地割が出来た時の地名ではなく、その後の土地所有・支配に関わる単位であることが判りました。
参考 館山市北条と南条の位置
北条・南条は条という言葉は条里制の条と同じですが、別の意味(所領単位)であることが確認できました。
また、大字・小字の実際の「~条」地名をよくみると、その多くが「方位又は数詞」+「条」という構造になっています。
「固有名詞」+「条」という条里地割成立と同時に命名された、その地域一帯の固有地名の姿をとどめるような構造のものがほとんどありません。
これら、「~条」地名と条里地割の相関がほとんどないことと、北条・南条の条が条里地割を表現していないこと、「固有名詞」+「条」という構造のものが少ないことから、結論として、千葉県では「~条」地名と条里地割が無関係であると結論づけることができます。
鏡味完二は全国レベルで関係づけて、地名型にしているのですが、おそらく全国レベルでも鏡味完二の「~条」地名検討は間違っていると考えます。
全国レベルでも間違っていると私が直観する理由は、条里地割が土地所有とか、支配とか、特定開発地域(の限定)とか、産物産地とかに関わるものではなく、農業や徴税等の効率化の仕組みに過ぎないからです。
土地所有とか、支配とか、特定開発地域(の限定)とか、産物産地とかに関わる全国共通事象ならば、その名称が地名になる可能性が強いと考えます。鏡味完二もそれに着目して地名型をつくったのだと思います。
ところが、農業や徴税等の効率化の技術的仕組みである地割という方法は、それを条里とよんでも、地名にはなりづらいのではないかと考えます。
千葉県でピックアップした大字・小字の「~条」はほとんどすべて館山市北条と同じような所領(所有・支配)単位、土地の分割単位であると考えます。
条里地割が社会効率化の先端的技術であった時代に、所領単位や土地分割単位を「~条」で表現する言葉遣いが流行したのだと思います。
そのために、見かけ上、全国規模でみればあたかも「~条」と条里地割が相関するように錯覚するのだと思います。
現場レベルで詳しく見れば、条里地割建設に起因してそのサイトに「~条」地名が発生するということはないのだと考えます。
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