2016年6月1日水曜日

学習メモ 古代房総部民「車持部(クルマモチベ)」と交通

古代房総部民に「車持部(クルマモチベ)」(職業部)が存在し、上総国長柄郡車持郷という郷名(和名抄)でその存在を現代に伝えています。

車持郷の場所が東京湾水系と太平洋水系の分水界付近に位置していて、古代交通の面から、私の興味を強くそそります。

車持郷に関して検討(想像)した事柄をメモしておきます。

1 車持部(クルマモチベ)の一般的説明

車持部の一般的説明を次に引用します。

……………………………………………………………………
くるまもちべ 【車持部】

大和朝廷の職業部の一つ。

天皇の乗輿〘じようよ〙の管理にあたった伴造〘とものみやつこ〙車持公(君)の管掌下にあって,その職務に要する費用を貢納した。

《日本書紀》履中5年条によると車持君が筑紫国の車持部をほしいままに検校し,さらに宗像神社に割き充てた車持部も奪った罪で筑紫の車持部を没収されたとあり,《新撰姓氏録》には雄略天皇のとき,乗輿を供進し車持公の姓を賜ったという話を伝える。

これらは事実とは言えないにしてもその職務と部のあり方を反映した伝承とみてよい。

車持氏は684年(天武13)君姓から朝臣〘あそん〙姓に改姓された。

部民は河内,伊賀,上総,近江,越前,越中,播磨,豊前など全国に分布。大化改新以降は解放された。

令制下で供御の輿輦〘よれん〙を管掌したのは主殿寮で,車持氏は負名氏〘なおいのうじ〙として,▶主殿寮殿部〘とのもり〙に代々任じられている。

この時期にも天皇の輿輦に関与していたことが知られる。

▶▶▶駕輿丁(かよちょう)

新井 喜久夫

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズ から引用
……………………………………………………………………

車持部(クルマモチベ)は天皇や皇族等の移動・交通を管掌し、部民名に含まれる文字「車」は文字通り車輪を意味しています。

車持部(クルマモチベ)が関わった車輪のイメージは次のようなものだったと考えます。
……………………………………………………………………

て‐ぐるま【手車・輦・輦車】

 〖名〗
① 輦(れん)に車をつけ、肩でかつがずに車で運行する乗り物。特に手車の宣旨を受けた皇太子または親王・内親王・女御・大臣などが乗用するもの。れんしゃ。〔十巻本和名抄(934頃)〕

手車①〈石山寺縁起絵巻〉

※貞享版沙石集(1283)八「白く清げなる法師を手輿(テグルマ)にかきて」

『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から画像を含めて引用
……………………………………………………………………

2 大和朝廷の職業部である車持部(クルマモチベ)が房総半島中央部に存在した理由

車持部(クルマモチベ)が房総に立地した理由を2つ列挙し、検討します。

……………………………………………………………………
■車持部(クルマモチベ)が房総に立地した主な理由 その1 農産物の産出

車持部(クルマモチベ)の房総立地の主要理由を一般的地域開発であると捉えます。

部民による土地開拓で、そこから米や雑穀等の農産物を産出し、それを大和朝廷や部民を直接支配する車持氏に献上するという役割を果たしたと考えます。
……………………………………………………………………
■車持部(クルマモチベ)が房総に立地した主な理由 その2 車輪技術を使った難所における輸送活動

考古遺物としての車輪の最初のものは、日本では7世紀頃のようです。したがって部民制度が存在した5~6世紀頃の車輪技術は希少なものであり、当時のハイテク技術であったと考えます。

房総の車持部(クルマモチベ)は単に農産物の生産のために設定組織された部民ではなく、大和政権中央に存在していたハイテク技術である車輪技術を使った輸送活動であると考えます。

5~6世紀頃の房総開発の主要部隊は太平洋岸地域です。

太平洋岸地域の開発のためには東京湾側から養老川等を使って水運で多量の物資を運び、船越(分水嶺付近の陸路)で物資を中継輸送して、その後太平洋岸の河川を使った水運で運搬することになります。

車持部(クルマモチベ)は、その船越における、車輪技術を使った戦略的輸送部隊であったと考えます。
……………………………………………………………………

車持部(クルマモチベ)以外の他の職業部について、「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)では次のように記述されています。

●磯部(イソベ)は「香取の海」の水上交通と関係すると推定される。

●船木部(フナキベ)は造船と関係すると推定される。「香取の海」との関係が注目される。

●玉作部(タマツクリベ)、曲玉・管玉などの玉製品を加工した部民。

●海人部(アマベ)、海産物の採集や海上交通に携わったと推定される。

房総に存在した職業部の部民は、その専門性を生かした機能を発揮していたと考えられています。

職業部は名代・子代や部曲のような単なる農産物産出ではなく、大和政権の戦略性に基づいて設置されたと考える方が妥当だと思います。

従って、車持部(クルマモチベ)もその専門性(車輪技術)との関係で房総立地を考えることが大切であると思います。

車持部(クルマモチベ)が房総に立地する理由を2つ列挙しましたが、車持部(クルマモチベ)が大和政権の職業部であると考えると、理由1農産物の産出はその根拠が薄弱であり、理由2の車輪技術を使った輸送活動であると考えることが的確であると考えます。

なお、車持部(クルマモチベ)の部民が自ら食べるための農業を行っていたことは当然であると考えますから、農業面での地域開発地でもあったことは当然だと思います。

3 交通戦略上の要衝である船越に位置する車持部(クルマモチベ)

次の地図に示すように、車持部(クルマモチベ)は東京湾水系と太平洋水系の船越地帯に位置します。

上総国長柄郡車持郷付近の交通(想定)

船越とは古代水運交通で使われた短区間陸送路です。

車持部(クルマモチベ)は東京湾水系養老川を遡って運搬されてきた物資を船越において車輪技術を使って太平洋水系水運路まで輸送した(あるいはその反対方向に産物輸送をした)と推定します。

車輪技術は都で天皇や皇族等の移動に使われただけではなく、房総で物資運搬という戦略的実務に使われたと想定します。

なお、養老川にある海部(アマベ)は元来東京湾水系と太平洋水系のネットワークを睨んで設置されていると考えます。

2016.05.24記事「古代房総の海人(あま)の活動」参照

5~6世紀頃、中央直轄型で房総の開発が進む中で、海人(アマ)にはないハイテク技術である車輪技術を大和政権が房総に投入したのだと考えます。

それだけ、養老川と太平洋水系を結ぶ船越の役割が重要だったのだと思います。

この船越の移動輸送をスムーズにできれば、房総の太平洋岸開発が大いに進むと大和政権が判断したのだと考えます。



参考 古代内陸水運路が遠距離(広域)をつなぐことができたシステム原理


……………………………………………………………………
4 超空想 車輪技術が船本体の輸送に使われた可能性

太平洋岸の地域開発が大和政権の重要課題であるとき、太平洋岸では水運のための船が不足していたことは想像に難くありません。

地域開発が進んでいないのですから、造船だけが進むということはありません。

しかし、地域開発のためには物資の輸送が必須であり、そのためには多数の船が必要です。

このような矛盾を解決するために、小型船を車輪技術で東京湾水系から太平洋水系に運んだことも考えられます。

古代ギリシャではコリントス地峡(イオニア海とエーゲ海の地峡)で船を台車に乗せ運搬していて、そのレールの遺跡が出土しています。

古代ギリシャ船越における船の輸送想像図



0 件のコメント:

コメントを投稿