大膳野南貝塚の旧石器時代学習に入ります。
旧石器時代の発掘調査は86個所のテストピット(2m×2m)で行われ、発掘区域面積2%の土地に該当します。
3カ所のテストピットでブロック(石器集中地点)が観察され、別の文化層になっています。
ブロック分布図
隣接バクチ穴遺跡と一緒に表示
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅲ分冊-本文編3- から引用
第Ⅰ文化層の石器群は頁岩を主な素材とした細身の縦長剥片のナイフ形石器です。
第Ⅱ文化層の石器群は多種類の素材で小形、不定の剥片が多くなっています。
第Ⅲ文化層の石器群では角錐状石器の存在が大きなものとなっています。
文化層の出土層位と立川ローム層との関係は次の通りです。
文化層と立川ローム層との関係
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊-本文編1- から引用
第Ⅰ文化層は立川ローム層TL-Ⅸに第Ⅱ文化層は立川ローム層TL-Ⅶに対応し、AT(姶良丹沢火山灰)より下層です。
第Ⅲ文化層は立川ローム層TL-Ⅳに対応していて、AT(姶良丹沢火山灰)より上層になります。
次の資料から、第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層は最終氷期クライマックス期の直前頃、第Ⅲ文化層は最終氷期クライマックス期頃とイメージできます。
参考 「南関東の第四紀編年図」から作成した資料
「花見川河川争奪に関わる地形面の年代」2014.04.28記事「花見川河川争奪の発生年代 地形面モデル追考」掲載
第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層、第Ⅲ文化層の各時代ともに激しく地形が侵食されていた寒冷期であり、現在より海面が100数十mほど低い時代であり、もちろん沖積層(沖積面)は存在しない時代になります。
激しく侵食された山地の頂部に存在する平坦面(台地)の端が大膳野南貝塚の場所であったということになります。
ブロック分布図をGISにプロットすると次のようになります。
ブロック分布図のGISプロット図
第Ⅰ~Ⅲ文化層の時代は、背景旧版地形図の谷津谷底(水田記号)が存在していない時代です。
沖積谷底の代わりに、現在は埋没している侵食谷底が存在していました。
その侵食谷底の険しい地形は東京湾を過ぎ、そこから数十km先の太平洋のところまで続いていたと考えられます。
ですから、大膳野南貝塚の場所は地形的には極めて特異な場所、険しい侵食地形と台地平坦面の境界であったと考えられます。
その特異な地形変換点であったればこそ旧石器時代ブロックが観察されたことになります。
旧石器時代ブロックが観察された理由を次の記事で考えます。
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