縄文土器学習 247
千葉市土気あすみが丘プラザ展示室が8月10日にリニューアルオープンしたとの報に接し、観覧してきました。リニューアルの報以前にはこのような施設の存在自体を知りませんでした。
土気あすみが丘プラザ展示室の全景 中央にあるのは土気地区ジオラマ
へたな博物館をその展示内容の質の高さからはるかに凌駕する、素晴らしい施設です。緑区のコミュニティ施設内部にこのようなへたな博物館以上の展示があることに驚きました。
土気地区は旧石器時代及び縄文時代における千葉県最重要の狩猟場です。列島規模でみても本州中央部付近の極めて有数な狩猟場の一つと考えられます。
旧石器時代と縄文時代展示は狩猟という観点から設計されているように感じられます。
旧石器時代は石器が縄文時代は土器(18点)が展示されています。展示物は圧巻といえるものです。さらに解説パネルに書かれていることがまさに研究最前線の最新知識であるように感じられ興味が尽きません。
旧石器時代展示 植刃器製作復元資料が展示され参考になります
縄文時代展示 縄文時代初期の土偶も展示されています
古代の展示も南河原坂窯跡群に関連するもので遺跡の復元模型や多数の出土物があり、以前から深い興味をもって何回もブログ記事を書いてきています。しかし、今回の観覧では自制しておざなりの写真撮影程度にし、意識のほとんどを旧石器と縄文に割り振りました。
リニューアルの考え方のパネルがあり、この展示施設は単純な地域住民向け広報ではなく、今後の土気地区研究のための出発点としての意義があることがわかります。
リニューアルを終えて
なお関連するパンフレットや資料は展示施設にはありませんでした。
次の千葉市ホームページに情報が掲載されています。
土気あすみが丘プラザ展示室リニューアルオープン
展示18点の縄文土器について3Dモデル作成用撮影を行いました。移入土器である十三菩提式土器などもあり、学習の楽しみ素材が増えました。
2019年8月27日火曜日
2018年9月4日火曜日
事例学習 大道遺跡・馬ノ口遺跡・バクチ穴遺跡(旧石器)
村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 7
縄文時代それも中期から後期・晩期にかけての様子をターゲットにした学習を行っているのですが、その時期の特性を比較して理解するために迂遠ですが旧石器時代近隣遺跡の学習をしています。
1 大道遺跡・馬ノ口遺跡・バクチ穴遺跡の概要
1-1 大道遺跡
縄文時代それも中期から後期・晩期にかけての様子をターゲットにした学習を行っているのですが、その時期の特性を比較して理解するために迂遠ですが旧石器時代近隣遺跡の学習をしています。
1 大道遺跡・馬ノ口遺跡・バクチ穴遺跡の概要
1-1 大道遺跡
「検出されたのは舌状台地中央部であり,数か所の遺物集中地点が捕捉されている。遺物の平面分布状況および産出層準、母岩の分布状況などから, これらの集中地点がいわゆる環状ブロック群の一部を構成していた可能性はきわめて高い。遺物の総数は349点で、仮に本集中地点が環状分布していれば発掘調査されたのは約1/4にすぎない。」
遺物の出土状況 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
1-2 馬ノ口遺跡
「遺跡は標高30~40mほどの半島状の台地上にある。調査の結果, 21か所の遺物集中地点が検出された。遺物の集中には, 6点以下の少量の遺物からなる遺物集中地点と,比較的点数の多い遺物集中地点並びに,礫のみの遺物集中地点という3種類に分かれる。また, 出土層準から大きく4つの文化層に分けることができる。第1文化層はソフトローム層中(Ⅲ層),第2文化層は第1黒色帯下部~ハードローム層上部(Ⅴ層~Ⅵ層)、第3文化層は第2黒色帯上部(Ⅵ層~Ⅶ層),第4文化層は第2黒色帯下部~立川ローム層下部(Ⅸ層~Ⅹ層)を遺物産出層準としている。」
馬ノ口遺跡出土の石器(第4文化層) 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
1-3 バクチ穴遺跡
「バクチ穴遺跡は,村田川北岸の標高約50mの台地上に位置する。第1文化層は2つの遺物集中地点があり、石器の数量的な差はみとめられるが、ナイフ形石器にはメノウ、角錐状石器には黒曜石、掻器には黒曜石・頁岩を用いており、器種と石材の関係に共通点が多い。第2文化層はすべて黒曜石で17点の剥片が石核に接合する。」
バクチ穴遺跡出土遺物 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
2 遺跡の位置
旧石器時代遺跡と事例
事例の3遺跡は台地尾根に存在しますが、事例以外にも台地尾根に多数の旧石器時代遺跡が分布します。旧石器時代には台地尾根が良好な狩場となり、狩が終わった後その場に逗留して動物解体、皮を干したり干し肉を作ったものと想像します。その逗留の跡が旧石器時代遺跡として発掘されているものと考えます。
旧石器時代には千葉東南部地区の台地尾根は動物が豊富で同時に狩をするに絶好の地形をしていたものと考えます。
狩のイメージはシカなど季節移動する動物を追って人が移動して生活していたと考えます。千葉東南部地区付近の台地尾根に動物が増える季節があり、その季節に人が来て狩をし、しばらく逗留し、去っていくという生活が存在していたと考えます。
狩のイメージはシカなど季節移動する動物を追って人が移動して生活していたと考えます。千葉東南部地区付近の台地尾根に動物が増える季節があり、その季節に人が来て狩をし、しばらく逗留し、去っていくという生活が存在していたと考えます。
3 広域の旧石器時代遺跡分布からみた千葉東南部地区の様子
旧石器時代遺跡
広域的に見て千葉東南部地区は旧石器時代遺跡分布が濃密であり、旧石器時代に良好な狩場であったことに間違いありません。
2018年9月3日月曜日
事例学習 草刈遺跡(旧石器)
村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 6
村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として、私家版暫定版GIS連動千葉県遺跡データベースにpdfコンテンツとして収録した「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)掲載「遺跡資料」をテキストとして事例学習を行います。事例(15遺跡)は参考として下に示した学習マップに掲載しています。
この記事では草刈遺跡(旧石器)を学習します。
縄文時代の様子を理解するためには旧石器時代の様子と比較することが大切であると考え草刈遺跡(旧石器)を対象としました。同様の趣旨で今後弥生時代遺跡も事例学習対象に含める予定です。
なお、事例学習は旧石器→縄文前期→縄文中期→縄文後期の時期別に個別遺跡毎に進めていきます。
1 草刈遺跡の概要
「草刈遺跡とその隣接地では,武蔵野ローム層上部から立川ローム層最上部にかけての10枚にも及ぶ文化層から,遺物集中地点130か所以上,石器総数18000点もの旧石器時代資料が出土している。とくに,姶良Tn火山灰(AT)よりも下位の,後期旧石器時代前半期の資料が充実しており,南関東地方における指標的役割を果たすものと考えられる。特筆される点は,草刈遺跡C区で,武蔵野ローム層最上部から県内最古の石器群が出土したこと,草刈六之台遺跡で, 立川ローム層Ⅹ層からIX層上部にかけて,石斧をともなう3枚の文化層が確認され,大型の台形様石器,石斧用の砥石などが出土したことがあげられる。」「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
2 草刈遺跡周辺の旧石器時代遺跡
「「ちはら台ニュータウン」事業地内には, 村田川に沿って, 旧石器時代の遺跡が数多く分布している。西端部に草刈遺跡・草刈六之台遺跡があり,東に向かって中永谷遺跡・川焼台遺跡・鶴牧辿跡・ナキノ台遺跡・押沼遺跡群が並んでいる。とくに, 押沼遺跡群からは,草刈遺跡に匹敵する規模と内容の旧石器時代遺物が出土している。」「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
この記述を地図に表現すると次のようになります。
草刈遺跡と台地尾根でつながる旧石器時代遺跡
村田川北岸の台地尾根に沿って旧石器遺跡がつづきます。この台地尾根に沿って動物の移動ルートがあり、その動物移動を追って旧石器時代人が狩をしていたと考えます。この台地尾根は現在では海食崖で終わってしまいますが、旧石器時代には村田川まで尾根を下って降りることができた場所です。下総台地を周回した動物がこの尾根を通って村田川におりて渡河し、上総台地に移動していたのかもしれません。
3 旧石器時代遺物集中地点
旧石器時代遺物集中地点 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
4 出土遺物
●最古の石器群…草刈遺跡C区では武蔵野ローム層最上部から遺物集中地点1カ所が検出さ先端の鋭利な斜軸尖頭器など約30点が直径3mほどの円形の範囲にまとまって出土しました。
●Ⅹ層の石器群…草刈六之台遺跡では立川ローム層Ⅹ層上部から遺物集中地点2カ所が検出され約260点の遺物が出土しました。石器石材のうち珪質頁岩の一部は千葉県嶺岡産、黒曜石は栃木県高原山産と推定されています。
●Ⅸ層下部の石器群…草刈六之台遺跡ではⅨ層下部から遺物集中地点5カ所が検出され約145点の遺物が出土しました。石器石材のうち黒曜石は神津島産と推定されています。
●Ⅸ層上部の石器群…草刈六之台遺跡ではⅨ層上部から遺物集中地点12カ所が検出され約1750点の遺物が出土しました。石器石材の大半が信州産の黒曜石で構成されナイフ形石器が急増します。
●Ⅶ~Ⅵ層の石器群…草刈遺跡C区ではⅦ層からⅥ層にかけて硬質な頁岩の石刃がまとまって出土しています。
●Ⅳ層下部の石器群…草刈遺跡H区ではⅣ層下部の隣接する2カ所の遺物集中地点から5000点を超える石器・焼礫が出土しています。焼礫は近隣の露頭からもたらされたと考えられています。
●Ⅲ層の石器群…Ⅲ層からは多種多様な石器群が出土しています。
草刈遺跡群出土遺物 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
概ね上列が古く下列が新しい時代の遺物となっています。最上列左が武蔵野ローム層最上部出土斜軸尖頭器
参考 学習マップ
学習マップ 「千葉県東南部地区」付近の「千葉県の歴史 資料編」事例(旧石器・縄文時代)
村田川河口低地付近縄文集落の消長分析の一環として、私家版暫定版GIS連動千葉県遺跡データベースにpdfコンテンツとして収録した「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)掲載「遺跡資料」をテキストとして事例学習を行います。事例(15遺跡)は参考として下に示した学習マップに掲載しています。
この記事では草刈遺跡(旧石器)を学習します。
縄文時代の様子を理解するためには旧石器時代の様子と比較することが大切であると考え草刈遺跡(旧石器)を対象としました。同様の趣旨で今後弥生時代遺跡も事例学習対象に含める予定です。
なお、事例学習は旧石器→縄文前期→縄文中期→縄文後期の時期別に個別遺跡毎に進めていきます。
1 草刈遺跡の概要
「草刈遺跡とその隣接地では,武蔵野ローム層上部から立川ローム層最上部にかけての10枚にも及ぶ文化層から,遺物集中地点130か所以上,石器総数18000点もの旧石器時代資料が出土している。とくに,姶良Tn火山灰(AT)よりも下位の,後期旧石器時代前半期の資料が充実しており,南関東地方における指標的役割を果たすものと考えられる。特筆される点は,草刈遺跡C区で,武蔵野ローム層最上部から県内最古の石器群が出土したこと,草刈六之台遺跡で, 立川ローム層Ⅹ層からIX層上部にかけて,石斧をともなう3枚の文化層が確認され,大型の台形様石器,石斧用の砥石などが出土したことがあげられる。」「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
2 草刈遺跡周辺の旧石器時代遺跡
「「ちはら台ニュータウン」事業地内には, 村田川に沿って, 旧石器時代の遺跡が数多く分布している。西端部に草刈遺跡・草刈六之台遺跡があり,東に向かって中永谷遺跡・川焼台遺跡・鶴牧辿跡・ナキノ台遺跡・押沼遺跡群が並んでいる。とくに, 押沼遺跡群からは,草刈遺跡に匹敵する規模と内容の旧石器時代遺物が出土している。」「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
この記述を地図に表現すると次のようになります。
草刈遺跡と台地尾根でつながる旧石器時代遺跡
村田川北岸の台地尾根に沿って旧石器遺跡がつづきます。この台地尾根に沿って動物の移動ルートがあり、その動物移動を追って旧石器時代人が狩をしていたと考えます。この台地尾根は現在では海食崖で終わってしまいますが、旧石器時代には村田川まで尾根を下って降りることができた場所です。下総台地を周回した動物がこの尾根を通って村田川におりて渡河し、上総台地に移動していたのかもしれません。
3 旧石器時代遺物集中地点
旧石器時代遺物集中地点 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
4 出土遺物
●最古の石器群…草刈遺跡C区では武蔵野ローム層最上部から遺物集中地点1カ所が検出さ先端の鋭利な斜軸尖頭器など約30点が直径3mほどの円形の範囲にまとまって出土しました。
●Ⅹ層の石器群…草刈六之台遺跡では立川ローム層Ⅹ層上部から遺物集中地点2カ所が検出され約260点の遺物が出土しました。石器石材のうち珪質頁岩の一部は千葉県嶺岡産、黒曜石は栃木県高原山産と推定されています。
●Ⅸ層下部の石器群…草刈六之台遺跡ではⅨ層下部から遺物集中地点5カ所が検出され約145点の遺物が出土しました。石器石材のうち黒曜石は神津島産と推定されています。
●Ⅸ層上部の石器群…草刈六之台遺跡ではⅨ層上部から遺物集中地点12カ所が検出され約1750点の遺物が出土しました。石器石材の大半が信州産の黒曜石で構成されナイフ形石器が急増します。
●Ⅶ~Ⅵ層の石器群…草刈遺跡C区ではⅦ層からⅥ層にかけて硬質な頁岩の石刃がまとまって出土しています。
●Ⅳ層下部の石器群…草刈遺跡H区ではⅣ層下部の隣接する2カ所の遺物集中地点から5000点を超える石器・焼礫が出土しています。焼礫は近隣の露頭からもたらされたと考えられています。
●Ⅲ層の石器群…Ⅲ層からは多種多様な石器群が出土しています。
草刈遺跡群出土遺物 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用
概ね上列が古く下列が新しい時代の遺物となっています。最上列左が武蔵野ローム層最上部出土斜軸尖頭器
参考 学習マップ
学習マップ 「千葉県東南部地区」付近の「千葉県の歴史 資料編」事例(旧石器・縄文時代)
2017年1月14日土曜日
大膳野南貝塚 旧石器時代ブロックの出土層
大膳野南貝塚の旧石器時代学習に入ります。
旧石器時代の発掘調査は86個所のテストピット(2m×2m)で行われ、発掘区域面積2%の土地に該当します。
3カ所のテストピットでブロック(石器集中地点)が観察され、別の文化層になっています。
ブロック分布図
隣接バクチ穴遺跡と一緒に表示
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅲ分冊-本文編3- から引用
第Ⅰ文化層の石器群は頁岩を主な素材とした細身の縦長剥片のナイフ形石器です。
第Ⅱ文化層の石器群は多種類の素材で小形、不定の剥片が多くなっています。
第Ⅲ文化層の石器群では角錐状石器の存在が大きなものとなっています。
文化層の出土層位と立川ローム層との関係は次の通りです。
文化層と立川ローム層との関係
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊-本文編1- から引用
第Ⅰ文化層は立川ローム層TL-Ⅸに第Ⅱ文化層は立川ローム層TL-Ⅶに対応し、AT(姶良丹沢火山灰)より下層です。
第Ⅲ文化層は立川ローム層TL-Ⅳに対応していて、AT(姶良丹沢火山灰)より上層になります。
次の資料から、第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層は最終氷期クライマックス期の直前頃、第Ⅲ文化層は最終氷期クライマックス期頃とイメージできます。
参考 「南関東の第四紀編年図」から作成した資料
「花見川河川争奪に関わる地形面の年代」2014.04.28記事「花見川河川争奪の発生年代 地形面モデル追考」掲載
第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層、第Ⅲ文化層の各時代ともに激しく地形が侵食されていた寒冷期であり、現在より海面が100数十mほど低い時代であり、もちろん沖積層(沖積面)は存在しない時代になります。
激しく侵食された山地の頂部に存在する平坦面(台地)の端が大膳野南貝塚の場所であったということになります。
ブロック分布図をGISにプロットすると次のようになります。
ブロック分布図のGISプロット図
第Ⅰ~Ⅲ文化層の時代は、背景旧版地形図の谷津谷底(水田記号)が存在していない時代です。
沖積谷底の代わりに、現在は埋没している侵食谷底が存在していました。
その侵食谷底の険しい地形は東京湾を過ぎ、そこから数十km先の太平洋のところまで続いていたと考えられます。
ですから、大膳野南貝塚の場所は地形的には極めて特異な場所、険しい侵食地形と台地平坦面の境界であったと考えられます。
その特異な地形変換点であったればこそ旧石器時代ブロックが観察されたことになります。
旧石器時代ブロックが観察された理由を次の記事で考えます。
旧石器時代の発掘調査は86個所のテストピット(2m×2m)で行われ、発掘区域面積2%の土地に該当します。
3カ所のテストピットでブロック(石器集中地点)が観察され、別の文化層になっています。
ブロック分布図
隣接バクチ穴遺跡と一緒に表示
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅲ分冊-本文編3- から引用
第Ⅰ文化層の石器群は頁岩を主な素材とした細身の縦長剥片のナイフ形石器です。
第Ⅱ文化層の石器群は多種類の素材で小形、不定の剥片が多くなっています。
第Ⅲ文化層の石器群では角錐状石器の存在が大きなものとなっています。
文化層の出土層位と立川ローム層との関係は次の通りです。
文化層と立川ローム層との関係
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅰ分冊-本文編1- から引用
第Ⅰ文化層は立川ローム層TL-Ⅸに第Ⅱ文化層は立川ローム層TL-Ⅶに対応し、AT(姶良丹沢火山灰)より下層です。
第Ⅲ文化層は立川ローム層TL-Ⅳに対応していて、AT(姶良丹沢火山灰)より上層になります。
次の資料から、第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層は最終氷期クライマックス期の直前頃、第Ⅲ文化層は最終氷期クライマックス期頃とイメージできます。
参考 「南関東の第四紀編年図」から作成した資料
「花見川河川争奪に関わる地形面の年代」2014.04.28記事「花見川河川争奪の発生年代 地形面モデル追考」掲載
第Ⅰ文化層、第Ⅱ文化層、第Ⅲ文化層の各時代ともに激しく地形が侵食されていた寒冷期であり、現在より海面が100数十mほど低い時代であり、もちろん沖積層(沖積面)は存在しない時代になります。
激しく侵食された山地の頂部に存在する平坦面(台地)の端が大膳野南貝塚の場所であったということになります。
ブロック分布図をGISにプロットすると次のようになります。
ブロック分布図のGISプロット図
第Ⅰ~Ⅲ文化層の時代は、背景旧版地形図の谷津谷底(水田記号)が存在していない時代です。
沖積谷底の代わりに、現在は埋没している侵食谷底が存在していました。
その侵食谷底の険しい地形は東京湾を過ぎ、そこから数十km先の太平洋のところまで続いていたと考えられます。
ですから、大膳野南貝塚の場所は地形的には極めて特異な場所、険しい侵食地形と台地平坦面の境界であったと考えられます。
その特異な地形変換点であったればこそ旧石器時代ブロックが観察されたことになります。
旧石器時代ブロックが観察された理由を次の記事で考えます。
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