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2020年6月18日木曜日

前田耕地遺跡資料にありつく

縄文社会消長分析学習 28

4月に縄文草創期遺跡の事例として前田耕地遺跡を学習しましたが、まともな資料にありつくことができませんでした。そのため学習が深まりませんでした。このたび資料にありけましたので、遺跡のイメージが徐々に湧いてきた様子をメモします。

1 これまでの前田耕地遺跡に関する学習と資料
これまで前田耕地遺跡について次の学習をしてきました。

2020.04.05記事「縄文草創期サケ骨出土遺跡(前田耕地遺跡)の地形
2020.04.16記事「前田耕地遺跡付近の地形3Dモデル
2020.04.18記事「前田耕地遺跡付近地形3Dモデルの動画作成

前田耕地遺跡について強い興味をもったのですが、その様子をある程度詳しくわかるような説明図書を見つけることができませんでした。webで検索すると年次別発掘調査報告書以外に、全体を俯瞰すると考えられる資料「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)が存在することがわかりました。しかしこの資料集は古書店にもなく、千葉県立図書館や千葉市立図書館にもありません。

そこでこの資料集を千葉市立図書館経由であきる野市立図書館から取り寄せることにしました。コロナ禍で中断し、2か月を経てようやく地元花見川図書館まで到着しました。あきる野市立図書館及び千葉市立図書館に感謝します。

花見川図書館に到着した「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)
コロナ禍のため、利用は図書館館内で1日30分間だけという制約があります。
そうした制約があっても、この資料集を取り寄せてみたことにより前田耕地遺跡の様子と発掘調査の状況がよくわかり、自分にとっては学習上の大成果となりつつあります。
なお、多数の槍先形尖頭器やサケ顎骨が出土した場所は第6遺跡集中地点ですが、この第6遺跡集中地点の発掘調査報告書が刊行されないまま発掘調査が終了してしまったため、東京都教育委員会がこの資料集を刊行したという説明がありました。

2 前田耕地遺跡の様子

第17号竪穴住居跡
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用
この住居跡覆土層から槍先形尖頭器188点、無紋土器片、サケ顎骨7200点、クマ骨等が出土しています。

槍先形尖頭器出土の様子
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用

出土した槍先形尖頭器
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用

3 第6遺物集中地区の様子
資料集掲載のコンターマップ、石材別平面分布図チャートA(透明度の高いもの)、竪穴住居跡分布イメージを強引にオーバーレイして、遺跡イメージ地図を試しに作ってみました。

コンターマップ、石材(チャートA)分布図、竪穴住居跡分布イメージのオーバーレイ図
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)の情報を加工

・第6遺物集中地区は地形学的には拝島面にあるのですが、コンターマップから拝島面をさらに区分する小段が存在し、その小段上の縁に第6遺物集中地区が位置します。小段の下の面は竪穴住居が使われていた時は秋川河床面だった可能性があります。
・石材の分布が竪穴住居の回りに色濃く分布していることが特徴的です。つまり尖頭器を作る主な作業は竪穴住居の内部ではなく、その周りの野外で行われていたことがわかります。おそらく石器づくりにかかわらず、縄文人の生活は食事を含めてその多くの時間を野外で過ごしていたと想像します。

……………………………………………………………………

・この資料集における第6遺物集中地区の地形面表記は次のように拝島面より古い時代の青柳面となっています。この資料集における地形学的検討がどのようになされているのか、その検討が既存地形学資料とどのような関係になるのか詳しく知りたいところです。第6遺物集中地区の地形面を青柳面とするのは広域地形(広域の青柳面と拝島面の分布)をみると少し苦しいかもしれません。

青柳段丘と拝島段丘の境点線
「前田耕地遺跡-縄文時代草創期資料集-」(2002年、東京都教育委員会)から引用

前田耕地遺跡付近土地条件図 地理院地図3Dモデル
土地条件図(数値地図25000)と陰影起伏図の合成
赤丸:前田耕地遺跡(縄文草創期遺跡、サケ骨多数、無紋土器、尖頭器等出土)
垂直倍率:×9.9

2020年4月18日土曜日

前田耕地遺跡付近地形3Dモデルの動画作成

縄文社会消長分析学習 5

前田耕地遺跡付近の地形3Dモデルを作成しましたが、その3Dモデル操作を動画として録画しましたので掲載します。
2020.04.16記事「前田耕地遺跡付近の地形3Dモデル

1 前田耕地遺跡付近地形3Dモデルの動画

前田耕地遺跡付近地形3Dモデルの動画

2 動画の元となった3Dモデル

前田耕地遺跡付近土地条件図 地理院地図3Dモデル
土地条件図(数値地図25000)と陰影起伏図の合成
赤丸:前田耕地遺跡(縄文草創期遺跡、サケ骨多数、無紋土器、尖頭器等出土)
垂直倍率:×9.9

3 感想
地形の垂直倍率が×9.9で極端ですが、広域の段丘面を階段状に表現するためには適切な方法であると考えます。
前田耕地遺跡が最終氷期クライマックス期(海面がマイナス100m以上であった時期)の多摩川河床である青柳面(⑤)を刻んだ拝島面に立地していることがわかります。
3Dモデルからわかるように拝島面も数段に区分されますが、その最上段に前田耕地遺跡が立地します。
Sketchfab3Dモデルの操作動画録画にはWindows10おまけソフトのGame DVRを使いました。

2020年4月16日木曜日

前田耕地遺跡付近の地形3Dモデル

縄文社会消長分析学習 3

2020.04.05記事「縄文草創期サケ骨出土遺跡(前田耕地遺跡)の地形」の続きです。
前田耕地遺跡付近の地形3Dモデルを作りましたのでメモします。

1 前田耕地遺跡付近土地条件図 地理院地図3Dモデル
地理院地図の素晴らしい機能により極短時間に美しく立体性のある地形3Dモデルができました。
地理院地図で前田耕地耕地付近の土地条件図(数値地図25000)と陰影起伏図を合成して、さらに前田耕地遺跡を赤丸でプロットした地図を作成しました。

地理院地図の作業風景
その地図を3DモデルにしてVRMLファイルで出力しました。3つのファイルが出力されます。
その3つのファイルをSketchfabにアップロードして次のSketchfab3Dモデルを作成し、注記を書き込みました。

前田耕地遺跡付近土地条件図 地理院地図3Dモデル
土地条件図(数値地図25000)と陰影起伏図の合成
赤丸:前田耕地遺跡(縄文草創期遺跡、サケ骨多数、無紋土器、尖頭器等出土)
垂直倍率:×9.9

2 感想
2-1 前田耕地遺跡の立地
拝島面が形成されていた時期は広い河原に多摩川と秋川が網状流のように流れていたと推定できます。その時期の「河原の微高地」に前田耕地遺跡が立地していたと推定できます。前田耕地遺跡はサケ漁に併せて石槍をつくった作業場であると考えることができます。

2-2 地理院地図の急速な進化に驚く
地理院地図の使い勝手が急速に良くなっていることに驚きます。地理院地図の機能向上に感謝します。
地理院地図とGoogle earth proとQGISが全て3Dモデルに対応していることを改めて認識します。それらの操作テクニックの習得を急ぎたいと思います。


2020年4月5日日曜日

縄文草創期サケ骨出土遺跡(前田耕地遺跡)の地形

縄文社会消長分析学習 2

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)の学習をする中で生まれた興味を深め疑問を解決するための寄り道学習を始めます。
この記事では縄文草創期サケ骨出土遺跡の前田耕地遺跡の地形を確かめます。
山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)ではこの時期の遺跡は「平野における微高地上に立地することが多く」と書いてあり、一応自分の目で確かめました。

1 前田耕地遺跡の位置

前田耕地遺跡の位置
多摩川と秋川の合流部に位置し、この付近がサケの産卵場であったという解説がされています。

2 最終氷期最盛期頃の多摩川縦断地形

多摩川の縦断面図
貝塚爽平他著「日本の地形4関東・伊豆小笠原」(2000、東京大学出版会)から引用、加筆
最終氷期最盛期の多摩川縦断地形は青柳面として表現されています。立川付近から上流では河岸段丘として、立川付近から下流では埋没段丘として観察されています。
前田耕地遺跡は拝島付近に位置していて、この付近では青柳面が河岸段丘として観察される場所です。

3 前田耕地遺跡が立地する地形面

地形面区分と前田耕地遺跡
5万分の1都道府県土地分類基本調査成果から引用
前田耕地遺跡は青柳段丘面より1段低い拝島面に立地します。多摩川の縦断勾配が少し緩くなり始めたころ、つまりこの付近で多摩川の下刻が始まったころの地形面に前田耕地遺跡があります。

4 前田耕地遺跡立地頃の多摩川標高

前田耕地遺跡立地頃の多摩川標高 地理院地図で作成
地理院地図で標高10m毎に色塗りして、かつ断面図を作成すると、拝島面に立地する前田耕地遺跡は標高が略125mです。一方、多摩川左岸の拝島面の標高は略118mです。厳密な検討ではありませんが、前田耕地遺跡が立地する陸地拝島面と左岸側に流路があった拝島面が同時に存在していたことを想定できます。
従って、前田耕地遺跡が存在したころ、多摩川の標高は118mくらいだったかもしれないという目検討をつけることができます。その標高差は約7mです。
前田耕地遺跡と秋川の標高差はもう少し小さくなります。
以上の検討から前田耕地遺跡が立地していた頃のその場所の地形は多摩川や秋川のほとりの標高差数mの微高地であるといえます。