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2016年11月8日火曜日

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居の紙上観察

2016.10.28記事「資料精査による鍛冶関連情報再ピックアップ」で被熱ピット等のある竪穴住居をピックアップして、鍛冶関連遺構の可能性を検討しました。

この被熱ピット等のある竪穴住居を詳しく紙上観察してみました。

発掘調査報告書による記述と平面図は次の通りです。

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居(平面図) 1

上谷遺跡 被熱ピットのある竪穴住居(平面図) 2

発掘調査報告書ではA188について「火の使用」に注目していて、A242では小鍛冶を想定しています。

A188もA142も浅い被熱ピットです。

同様の浅い被熱ピットは別に11箇所の竪穴住居から出土しています。(上図で赤字記述)

住居中央部に存在する浅い被熱ピットは鉄器修繕のための小鍛冶場跡と考えて大きな間違いはないと思います。

浅い被熱ピットではない被熱ピットもおそらく鞴の使い方が異なる別タイプの小鍛冶場であると想像します。

しかし不確かさが増す想像となります。

浅い被熱ピットは鞴送風を炭の上からおこなうタイプ、穴を掘った被熱ピットは鞴羽口を土に埋め込み、炭の下から送風するタイプと空想しています。

被熱ピットのある竪穴住居の分布図を見ると、浅い被熱ピットのある竪穴住居の分布が2カ所に分かれるように分布していて竪穴住居や掘立柱建物の分布密集と対応します。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

浅い被熱ピットのある竪穴住居はほぼ小鍛冶場であると考えて間違いないと思いますが、この分布図には恐らく8世紀初頭頃~10世紀初頭頃の200年間ぐらい(*)の遺構が全部プロットされているので、ある時間断面をとれば平均して1/6の2カ所程度の小鍛冶場が稼働していたのかもしれません。

*近隣の萱田遺跡群の例から類推(2016.11.09追記)
2016.02.11記事「鳴神山遺跡と萱田遺跡群の出土土器数比較」掲載図「萱田遺跡群の竪穴住居消長と蝦夷戦争に関する時代区分」参照

2016年10月28日金曜日

資料精査による鍛冶関連情報再ピックアップ

このブログでは現在、上谷遺跡の鍛冶関連遺物・遺構の検討(学習)をしています。

検討を進めるに従い発掘調査報告書精査の必要性に気が付き、鍛冶関連情報について発掘調査報告書全6冊について詳しく読み直しました。

鍛冶関連遺物情報が(鍛冶に限らず他の対象も全てですが)遺物観察表やスケッチに掲載されているとは限らず、文章中に単に「多くの鉄滓が出土した」などとさらりと書かれている場合もあるからです。

また、鍛冶関連遺物が出土しないけれども鍛冶行為が疑われる被熱ピット等が存在する遺構についてはこれまで詳しく調べてこなかったからです。

1 鞴羽口・鉄滓出土遺構

発掘調査報告書精査の結果、次の15個所の遺構から鞴羽口あるいは鉄滓出土情報を確認しました。

上谷遺跡 鞴羽口・鉄滓出土遺構

遺構種類別にみると、竪穴住居11カ所、掘立柱建物2カ所、土坑2カ所の内訳になります。

遺跡区域の北端部には出土しません。

遺跡区域の南部に出土が密であるような分布となっています。

なお当初調査では次の8遺構の情報でしたから2倍近く情報が増えたことになります。

参考 2016.10.09記事「上谷遺跡 鍛冶関連出土物」掲載 上谷遺跡 鞴羽口、鉄滓出土遺構

2 被熱ピット等のある竪穴住居

被熱ピット等のある竪穴住居をピックアップしました。

なお、「不用材を焼却した」と発掘調査報告書で書かれている竪穴住居が多数あります。遺構の床面上の覆土層に焼土がある遺構です。

このような覆土層(たとえその最下部でも)に焼土層があるものは、別に被熱ピット等が無ければ、それだけでは「被熱ピット等のある竪穴住居」には含めていません。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

遺跡区域北端部を除き、ほぼ全域から17ケ所ピックアップできました。

これらの被熱ピット等のある竪穴住居がほんとうに鍛冶遺構であるかどか、これからの検討課題となります。

この17遺構のうち次の2遺構はすでに検討しています。

A133竪穴住居 2016.10.24記事「上谷遺跡 鍛冶遺構を疑う竪穴住居

A102a竪穴住居 2016.10.10記事「上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討

なお、17遺構のうち次の2遺構は発掘調査報告書の記述の中で鍛冶行為の存在を疑っています。

A188竪穴住居(火床状赤化ピット、鉄滓出土、本来の使用目的が「火の使用」)

A242竪穴住居(鉄滓と強い火熱痕、小鍛冶想定)


掘立柱建物に関連して存在する被熱ピットは存在しないようです。

土坑で被熱しているものの検討は2016.09.21記事「上谷遺跡 被熱土坑」で行っていて、現状では鍛冶に関連しているものはないと考えています。


3 被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構のオーバーレイ

被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構のオーバーレイ図を作成しました。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構

考察

●被熱ピット等のある竪穴住居はそのほとんどが鍛冶遺構であると想定しますが、その検証が必要です。

●被熱ピットの様式が2つに分割できるような印象を持っています。(浅い被熱ピットと小さいがえぐられた焼土充填ピット)

この様式の違いが鍛冶様式の違いによるものかどうか検討が必要です。

●被熱ピット等のある竪穴住居と鉄滓等が一緒に出土している遺構は鍛冶遺構である可能性が一段と濃厚であると考えます。

したがって、その遺構状況を詳しく調べれば、その結果を被熱ピット等のある竪穴住居が鍛冶遺構であるかどうかの判断材料に使える可能性があると考えます。

●被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構が重なる割合が少ない理由を次のように考えます。

ア 鍛冶遺構であった竪穴住居が廃絶する時、他の竪穴住居と同じように、ほとんど全ての什器や道具を持ち出している。

イ 規模の大変小さな小鍛冶であり、もともと残るような遺物が少ない。

従って、アとイから、鍛冶遺構から鍛冶関連遺物が出土しにくいと考えます。

ウ 鞴羽口や鉄滓が一種の威信財のような記念物として扱われ、廃絶した竪穴住居で行われる祭祀の際に、その場所に墨書土器、鉄器などと同じようにお供え物として埋められた(置かれた、投げ込まれた)

従って、覆土層から出土している鞴羽口や鉄滓はほとんど全てお供え物であると考えます。(「流れ込んだ」という安易な考えに反対します。)




2016年10月10日月曜日

上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討

鞴羽口や鉄滓が出土した遺構について、発掘調査報告書の記載を詳しく検討し、想像も交えて学習します。

この記事ではA102a竪穴住居について検討します。

1 A102a竪穴住居の位置

A102a竪穴住居の位置

墨書文字「得」が多出する集団と関わる掘立柱建物群の近く(入口?)にA102a竪穴住居は存在します。

その位置からA102a竪穴住居は集団の中で重要な機能を有していたと考えても不合理なことはありません。


2 A102a竪穴住居の特徴

次にA102a竪穴住居の特徴を列挙します。(発掘調査報告書から引用、表は作成。)

● A102aとA102bの重複

A102a竪穴住居はA102b竪穴住居と重複している。

A102aが新しい遺構、A102bは現状からみた推定規模は大きくなるが、堀込が浅く、床面も捉えきれなかった遺構である。A102aとの重複関係や規模等から竪穴住居跡としてが、竪穴状遺構と捉えた方がよいかもしれない。

● 規模のやや大きな竪穴住居

A102aは長軸5.62m×短軸5.57m×壁高0.83m、主軸方向はN-75°-Eを示す。竈を再構築している。

● 炉状ピットの検出

住居跡中央に炉のような浅いピットが検出されているが、住居廃絶後の燃焼行為の結果ではないと覆土から捉えられ、本住居跡に伴う炉状のピットであった。

ピット覆土は、焼土を混入した褐色土が1~5cmの厚さで堆積していた。

貼床を剥がしたような凹凸のあるハードローム面を坑底として、火床範囲と捉えたものも赤味を帯びる程度であった。

調査では、本ピットに係るような付帯遺構は検出できなかった。

覆土は基本的には自然堆積であり、色調や包含物により分層した。

A102a・b


● 極めて多数の遺物出土

A102aの出土遺物は極めて多く破片数は3000点を超えるものであったが、A102bの遺物の出土は少なかった。

3000点を超える遺物点数のため、全体的な平面及び垂直分布状況も、全域から出土しているものとなっている。

しかし、掲載した遺物は床面出土よりも覆土中層の遺物が多く、自然堆積によって住居跡が埋没する過程で、遺物の廃棄が行われたことを示している。

A102a・A102b出土遺物分布図

A102a・A102b出土遺物 1

A102a・A102b出土遺物 2

A102a・A102b出土遺物 3

● 墨書土器の出土が多い

特に墨書土器の出土が多く、87点に及んでいる。

記された文字は「得」が最も多く、31点が出土している。

また、「万」「大万」「仁」等も出土しており、Ⅱ地区の特徴的な文字の両者を出土する竪穴住居跡である。

A102a竪穴住居 墨書土器

● 鉄器出土が多い

この他には鉄器の出土も多く、鉄鏃3点、刀子3点、紡錘車2点等の12点を数える。

紡錘車は石製も出土している。

A102a竪穴住居 遺物観察表の集計

● 鞴羽口の出土

鞴の羽口片も出土しており、本住居跡ではその明瞭な形跡は認められなかったが、上谷遺跡における小鍛冶生産を想定できる資料といえよう。

A102a竪穴住居 鞴羽口

現存高(4.80)、内面 高温のため灰色化、羽口部分。



3 検討(想像を交えた学習)

3-1 炉状ピットの意義

竪穴住居の中にその住居に由来する炉状ピットがあるのですから、それが小鍛冶施設であったと考えることが合理的です。

ただし簡易な小鍛冶であり、炉の構造が残らなかったのだと考えます。

参考 古代の鍛冶工房復元図
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

炉状ピットは既成鉄製品の修理やリサイクルなどのための簡易な鍛冶跡と考えます。


3-2 鞴羽口出土の意味

発掘調査報告書掲載図を拡大すると次のようになり、鞴羽口出土は覆土層の中層からであることがわかります。

A102a竪穴住居 鞴羽口出土位置

覆土層の中層から出土した鞴羽口片はこの竪穴住居で使われたものではない可能性が高いと考えます。

この住居で使われ鞴羽口が一度住居外に持ち出され、後に再度持ち込まれたと考えることの可能性もゼロではないと思いますが、その可能性は低いと考えます。

小鍛冶が行われた竪穴住居の覆土層に、別の場所で使われた鞴羽口が持ち込まれたということになります。

それは全くの偶然ということではなく、一定の必然性があると考えられますの、その考えを次にメモしておきます。

●メモ1 小鍛冶技術者(=集団指導者)に対する弔い

小鍛冶が行われていて廃絶したA102a竪穴住居は比較的大きな竪穴住居であり、また掘立柱建物群の入り口付近という集団拠点の要衝に位置しています。

このことから、A102a竪穴住居住人は集団の指導層に属していたと想定できます。

従って、小鍛冶という集団にとって重要な技術を有し、かつ指導者であるものが死亡して、その住居が廃絶したとき、集団住民がその廃絶した住居を、そこは決して墓ではありませんが、一種の弔いの場として、小鍛冶に関連する物品を供えたと考えます。

現代でも人が死ぬと1周忌、3回忌、7回忌などがありますが、同じような心性で、墓ではないが、過去に小鍛冶という重要な機能を担った人に感謝し、弔う気持ちから、お参り(祭祀)があり、その時関連する物が置かれたと考えます。

その時鞴羽口破片が供えられた(置かれた)と考えます。

●メモ2 A102a竪穴住居空間(場所)が過去に有した小鍛冶という有用機能に対する感謝の念

A102a竪穴住居で小鍛冶が行われ集団にとって大変有用な機能を有していた時期があり、その有用な機能が廃絶したとき、その空間の有用であった機能に感謝する気持ちから、小鍛冶に関連する物品を供えた、置いた、埋めたと考えます。

別の場所の小鍛冶で鞴羽口が壊れた時、その破片をわざわざA102a竪穴住居跡の穴にお供え物として持ってきたというようなことも想定します。

メモ1とメモ2は類似していますから通底していることは確かです。

私は、墓ではない場所に祭祀的なことが感じられるので、メモ2が大切な視点であり、その視点は現代社会ではほとんど失われていると考えます。

空間(場所)そのものに対する「思い」を古代人は持っていて、現代人はその感覚がすっかり退化していると考えます。

メモ2の視点に立脚すると多くの遺構・遺物の意味が解読できるような気がしています。


3-3 鉄器多数出土の意味

鞴羽口出土と同じ意味であると考えます。

つまり小鍛冶技術者(=集団指導者)に対する弔い、あるいはその場所の過去の小鍛冶機能に対する感謝の念からだと考えます。

恐らく、壊れたあるいは不用になった鉄器をその場にお供えした(あるいは埋めた)弔いや感謝の祭祀があったのだと思います。

3-4 墨書土器多数出土の意味

鞴羽口出土や鉄器多数出土の意味と共通すると思います。

鞴羽口や鉄器をお供えする祭祀の際に、集団のエンブレムとなっている文字「得」が墨書された土器を持ちより、酒宴をおこない、最後にそれを打ち欠いてその場に供えた(埋めた、投げた)のだと思います。