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2021年1月31日日曜日

有吉北貝塚 阿玉台式期と中峠式期の竪穴住居分布特性の大きな差異

 縄文社会消長分析学習 83

2021.01.31記事「有吉北貝塚 阿玉台式土器及び中峠式土器出土竪穴住居分布 3Dモデル」で阿玉台式土器のみ出土竪穴住居と中峠式土器出土竪穴住居ではその分布特性が違うことを確認しましたが、この記事ではその認識を屋内炉の有無という点を踏まえて深めてみました。

1 有吉北貝塚竪穴住居の時期別分布特性の差異


阿玉台式土器のみ出土竪穴住居と中峠式土器出土竪穴住居の分布特性差異

この分布特性差異の大きな要因として竪穴住居屋内炉存在有無が関わっている可能性があるので、それを想像を交えて以下検討します。

2 阿玉台式期竪穴住居の屋内炉確認


有吉北貝塚竪穴住居に炉がある割合イメージ

阿玉台式土器のみ出土する竪穴住居の炉検出は4軒中0軒で0%です。また阿玉台式土器と中峠式土器が出土する竪穴住居では6軒中3軒で50%です。それ以外の中峠式土器出土竪穴住居、加曽利E式土器出土竪穴住居ではほとんど炉があります。この情報から中峠式土器が持ち込まれる前には竪穴住居に炉が無く、中峠式土器が持ち込まれると同時に竪穴住居に炉が作られるようになったことが判明します。

3 阿玉台式期竪穴住居に炉が無い理由

2019.09.04記事「炉のない住居跡」で鎌ヶ谷市根郷貝塚の学習を行いました。その記事で阿玉台式期竪穴住居に炉が無いのは調理等を屋外炉で行っていて、その場所は通常の発掘調査では見つからない谷津斜面や谷底の水場に存在している可能性を別事例から推測しました。

この考えをこの記事でも踏襲して検討します。

4 阿玉台式土器のみ出土竪穴住居の分布特性(想像)


阿玉台式土器のみ出土竪穴住居の分布特性(想像)

炉の無い阿玉台式土器のみ出土竪穴住居の住人は斜面下の水場に屋外炉を設置して調理や食事をしていたと想定します。食と住が空間的に不一致です。そのように想定すると、4軒の竪穴住居はその位置から、それぞれ地先の谷底や斜面下部を水場として利用していたことが推測できます。4軒の竪穴住居は同時に存在していなかったと考えられることと、4軒が別の水場を利用していたという想定は整合します。

なお、屋外炉のある谷津谷底や斜面下部の水場付近に竪穴住居を作らないで、斜面最上部に作った理由は日光利用、衛生環境、眺望等の環境利用だけでなく、より天空界に近い場所に住みたいという呪術的要素も存在していたと推測します。

5 中峠式土器出土竪穴住居の分布特性(想像)


中峠式土器出土竪穴住居の分布特性(想像)

竪穴住居には炉があり、調理食事は屋外が多かったに違いありませんが、台地上で行っていたことは貝塚が斜面上部に存在していることから確実です。食住が近づきました。生活パターンが阿玉台式期と大いに異なります。

竪穴住居は阿玉台式期のように水場との関連で立地するのではなく、空間ゾーニングとして設定された集落中央広場を意識して、それを取り巻くように立地します。これにすぐ隣の竪穴住居だけでなく、離れた場所にある竪穴住居も同じ集落の一員として強く認識され、集落の組織性が空間的に担保されていたと考えられます。

集落中央広場の役割は、その強い中心性が天空界との交信経路を表現していると想像します。つまり、集落中央広場には依代のような地物が存在し、祖先霊や神々と交流する祭祀が営まれていたと想像します。

6 まとめ

・阿玉台式期竪穴住居軒数は少なく、中峠式期に竪穴住居軒数が急増します。

・阿玉台式期には調理・食事は水場で行われ、中峠式期には台地上で行われました。生活スタイルが全く異なります。

・阿玉台式期竪穴住居分布から集落構造は読み取れませんが、中峠式期竪穴住居分布は明瞭な構造を呈しています。

・この検討結果は、有吉北貝塚に中峠式期に外部から中峠式土器を使う集団の移住があったと想定する思考と整合します。


2019年9月4日水曜日

炉のない住居跡

縄文土器学習 254

鎌ヶ谷市郷土資料館展示阿玉台Ⅳ式深鉢形土器(根郷貝塚)の3Dモデルを作成しましたが、この土器をキッカケにして寄り道学習をしています。
この記事では根郷貝塚寄り道学習でうまれた興味(学習課題)のうち炉の無い住居跡に関するものをメモします。

1 根郷貝塚の各期の住居跡

根郷貝塚の各期の住居跡
「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

根郷貝塚ではこれまで32軒の竪穴住居跡が検出され、これらはおおむね5時期に変遷するとされています。(上図)
Ⅰ期は阿玉台式前半期で、平面形は長円形を呈し、掘り込みは浅く、炉を持ちません。
Ⅱ期は阿玉台式後半期で、隅丸方形で掘り込みは深く、有段となり、やはり炉を持ちません。
Ⅲ期は阿玉台末~中峠式期で、円形が基本で、掘り込みは深く、土器を埋設した炉があらわれます。
Ⅳ期は加曽利EⅠ式期で、本遺跡の盛期と思われます。平面形は円形が基本となり、掘り込みは深く、炉は深鉢の口縁部を再利用した埋甕炉となります。
Ⅴ期は加曽利EⅡ式期で、 長円形を呈し、掘り込みは浅く、炉には土器片や礫を利用したものがあります。(「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」からまとめ)

2 炉のない住居跡
「鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)」では阿玉台式期特有の現象として炉跡がない住居跡の存在を指摘しています。
貝塚の形成が始まるⅢ期の中峠式期からは炉があらわれますが、阿玉台式前半期と後半期には住居内に炉がありません。
「根郷貝塚では二次調査において7000平方メートルを調査したが、屋内炉に代わる遺構は検出されなかった。このようなあり方は、本市域だけでなく県内広く認められるのである。いかなる理由によるものか、今もって究明の糸口すら見いだせていないのが現状である。」「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 考察
中峠式期からは貝塚形成が始まり、定住もしっかりしたものになったため住居跡に炉が存在することはよくわかります。
それ以前の阿玉台式期の炉がない状況は、他の遺跡事例を「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」でざっと読むと、たしかにそのような記述が散見され、専門家の間で共通認識になっているようです。
しかし、いくら定住が不安定であり、放浪的生活がその当時の状況だとしても、住居を利用した時の調理に火を使わなかったことはあり得ません。屋外炉はどこかにあるはずです。
その屋外炉の場所が住居近くではない、専門家が調査していない(調査できない)別の場所にあるのだと思います。

その屋外炉の場所が谷津斜面や谷底にあった可能性をメモしておきます。
状況は大いに異なりますが、大膳野南貝塚学習で後期集落屋外炉(廃屋屋外炉)を谷底近くの谷津斜面で「発見」しました。(素人の自分が勝手にその住居跡が屋外炉として使われたと分析的に考えただけです。)
2018.07.21記事「個別テーマ」参照
谷津斜面や谷底付近に屋外炉を設ければ、川の水を利用して解体した動物や採集した植物及び水を台地上に運び上げる必要がないので、そこで調理と飲食する合理性がある程度あります。放浪的生活が主流ならば住居に愛着はあまりありません。水場近くでの野外飲食が生活の楽しみになります。
阿玉台式期の屋外炉の場所が谷津斜面や谷底にある可能性について、今後学習を深めることにします。