2018年7月21日土曜日

個別テーマ

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 9 個別テーマ

大膳野南貝塚学習中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「9 個別テーマ」の説明素材を集めて、まとめペーパーの材料を作りましたので掲載します。
個別テーマは次の3項目で構成します。
1 屋内炉と屋外炉
2 竪穴住居の床面傾斜と住居壁
3 後期集落最初期の時期区分

1 屋内炉と屋外炉
後期集落の屋内炉と屋外炉の分類と利用法を検討しました。

1-1 漆喰炉
1-1-1 屋内漆喰炉
屋内漆喰炉は炉体をローム、焼土粒、漆喰の混合物で作り、その中に破砕貝パウダーを敷いてそれで小型土器を安定設置して、土器の回りで火を燃やしていたと推定できます。

漆喰炉の理解 大膳野南貝塚発掘調査報告書掲載情報から作成
加熱と土器からの煮こぼれ水分で破砕貝パウダーが漆喰に変容して炉内に時間が経つに従って漆喰が堆積していったと考えられます。

漆喰炉に漆喰が堆積している理由
屋内漆喰炉は漆喰貝層有竪穴住居住人だけが使っていた炉です。

漆喰炉と地床炉・土器囲炉の分布

1-1-2 屋外漆喰炉
屋外漆喰炉は炉体を土、漆喰、貝殻の混合物で作り、炉内縁辺部では破砕貝パウダーを敷いて小型土器を固定させてその回りで火を燃やして調理し、中央部では埋甕を設置して大型土器固定具として用い、その際埋甕内に破砕貝パウダーを敷いて大型土器の安定を図り、土器の回りで火を燃やして調理していたと推定できます。

屋外漆喰炉の理解

屋外漆喰炉埋甕に漆喰が堆積している理由
大型土器からの煮こぼれ水分と加熱により埋甕内の破砕貝パウダーは漆喰に変容していったと考えられます。
屋外漆喰炉は漆喰貝層有竪穴住居住人だけが使っていた炉です。

屋外漆喰炉の分布

1-2 地床炉・土坑炉
1-2-1 屋内地床炉・土器囲炉・漏斗型断面炉
屋内地床炉では煮炊き用土器を固定する器具や固定材(破砕貝パウダー)がないので土器を使った調理は容易ではなかったと推察できます。

屋内地床炉の例 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

土器囲炉では土器囲を小型土器固定具として使って調理をしていたと推察します。

土器囲炉の例 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

地床炉、土器囲炉の他に漏斗型断面炉と呼べる構造の炉が存在しています。

漏斗型断面炉の例 大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

漏斗型断面炉では漏斗のすぼまった部分を土器固定具として利用して土器による調理を行っていたと考えることができます。

漏斗型屋内炉の利用方法 大膳野南貝塚発掘調査報告書により作成

屋内地床炉、土器囲炉、漏斗型断面炉は漆喰貝層無竪穴住居住民が使っていたものです。

1-2-2 屋外土坑炉
屋外土坑炉としてピット付土坑炉と廃屋土坑炉を認識(発見)することができます。

ア ピット付土坑炉

ピット付土坑炉 大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成・塗色
ピットを大型土器固定装置として利用した屋外炉であると考えられます。

ピット付土坑炉の利用イメージ 大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

ピット付土坑炉(416号土坑)の場所

ピット付土坑炉は漆喰貝層無竪穴住居住人が利用していたものと推定します。

イ 廃屋土坑炉

廃屋土坑炉 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・追記
廃絶竪穴住居に土器設置穴を掘りその周辺で火を燃やして大型土器を使った調理を行っていたと考えます。土器設置穴が全部で4カ所あり継続して長期にわたって使われたと考えます。竪穴住居床面から略完形土器が出土しています。

廃屋土坑炉 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・追記

廃屋土坑炉の利用イメージ(土器写真はJ92竪穴住居から出土したもの)

廃屋土坑炉(J92竪穴住居)の位置

廃屋土坑炉は漆喰貝層無竪穴住居住人が利用していたと想定します。

1-3 まとめ
後期集落の屋内炉と屋外炉をまとめました。

屋内炉と屋外炉に関する仮まとめ

2 竪穴住居の床面傾斜と住居壁
2-1 意図してつくられた床面傾斜
2-1-1 床面傾斜の状況
J95竪穴住居の床面は北北西から南南東の方向に傾いていますが、それ対応して柱穴の本数が建物下側に位置する部分で多くなっています。
家が傾いているのでその傾斜に耐えられるように傾斜下側の柱を増やしている様子が観察できます。

J95竪穴住居の柱穴分布 大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成

J95竪穴住居 模式断面
床面が傾きそれに対応して建物を補強しているということは、建物が傾いてしまい構造上弱くなることの不利よりも、床面を傾けることによる有利の方が大きかったことを物語っています。

他の竪穴住居でも多くのもので床面に傾斜があります。

J81竪穴住居床面の傾斜 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・追記

竪穴住居床面に傾斜のある竪穴住居の分布を調べると次のようになり、台地縁辺部から斜面にかけて分布しています。

竪穴住居床面が傾斜している範囲

2-1-2 床面傾斜の意味
床面が傾斜している竪穴住居は台地側に住居壁を有し、谷底側に住居壁がありません。この構造から床面傾斜の重要な意味は排水にあると考えます。床面に傾斜をつけておけば住居内に雨水が流れ込んできても貯まることはなく、全部流れ出てしまい、災害をやり過ごすことができます。
また床面傾斜の意味として良好な睡眠環境確保があったのではないかと考えます。
現代の睡眠研究では、ベッドの傾きを10°にすると0°や20°以上と比べて仰臥位での寝心地が最も良くなり、同時に入眠と睡眠維持でも最も良いことが判っています。縄文人も良好な睡眠環境確保のために床面傾斜を好んだのではないかと想像します。

2-2 住居壁のない竪穴住居
2-2-1 発掘調査報告書の「後世の削平」について
大膳野南貝塚発掘調査報告書では住居壁が検出されない竪穴住居は遺構重複等によるもの以外は全て例外なく「後世の削平」により失われたと説明されています。
しかし南貝層や北貝層を剥いでその下から出土する竪穴住居についても住居壁がない説明として「後世の削平」が記述されていて発掘状況と齟齬があることが明白であり、「後世の削平」が現場で生まれた情報でないことが判ります。また住居壁未検出を全て「後世の削平」により失われたと説明することは、「全て当初は住居壁が存在していた」ことを前提としますが、その前提に根拠はありません。
つまり住居壁が未検出の竪穴住居は「住居壁未検出」という事実だけを汲み取るべきであり、「後世の削平により住居壁が失われた」という説明は全て利用しないことが肝要であると考えます。
なお「後世の削平により住居壁が失われた」という現象があり得ることは当然ですが、その情報を発掘調査報告書記述からは残念ながら得ることが出来ないということです。

2-2-2 「後世の削平」で住居壁が失われた可能性はどの程度あるか?
発掘調査報告書で、「後世の削平により住居壁が失われた」と説明されている事例について、本当に「後世の削平」の可能性があるかどうか事例で検証してみました。
次の地図は覆土層有竪穴住居と覆土層無竪穴住居の分布を示していますが、覆土層無竪穴住居とは即ち住居壁の無い竪穴住居のなります。

竪穴住居 覆土層の有無
この地図でJ71竪穴住居、J57竪穴住居、J100竪穴住居はそれぞれの柱穴の間の距離が4m、3mと隣接していて、かつJ57竪穴住居だけ住居壁があります。その断面図を並べると次のようになります。

J57竪穴住居の住居壁だけ偶然後世の削平を免れたのか? 大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成
至近距離にあるJ71、J57、J100に当初は全て住居壁があり、後世の削平でJ57だけ住居壁が残存したという状況は、後世の削平が地下の竪穴住居の住居壁の位置を知り、それを意識して精密な削平作業をしない限り不可能なことです。つまり後世の削平でJ57の住居壁は残ったけれどもJ71とJ100の住居壁は失われ、しかし柱穴や炉はきれいに残ったという状況の可能性は限りなくゼロと考えてよいことになります。
J71とJ100は最初から住居壁が無かった竪穴住居つまり竪穴を掘らない住居であったと断面図からは考えることができます。台地平面上の住居壁のない竪穴住居はほとんどが最初から住居壁のない住居であった可能性が濃厚であると考えます。
一般論として考えると、平らな台地面で本当に竪穴を掘り下げてしまったら、雨天時の排水が不能となり居住できません。竪穴住居とは必ず土地傾斜を利用してつくられるものと考えます。土地傾斜が確保できない場所では住居壁をつくることができません。

2-2-3 住居壁のある竪穴住居と無い竪穴住居の事例検討
J57竪穴住居(住居壁の有る竪穴住居)とJ100竪穴住居(住居壁の無い竪穴住居)の条件の違いを事例として検討しました。

J57竪穴住居とJ100他の位置 素地図は大膳野南貝塚発掘調査報告書による

ア J57竪穴住居

J57竪穴住居 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・加筆
建物敷地(幅約6m)に比高30㎝の土地高低差があり、その高低差を全部利用して竪穴住居を建設しています。土地傾斜(東北東-西南西)の方向と張出部方向が一致しているように考えられます。張出部付近では高さが確保できないので住居壁は消失します。
住居壁を設けることによって家内温度変化が緩和され夏涼しく冬暖かくなると考えられます。また屋根の高さを低めることができますから風に強い、つまり災害に強い家にすることができます。
この竪穴住居は土地高低差を全部住居壁に使ってしまったため、床面傾斜を確保できていません。従って雨天の際の水はけは悪かったことが考えられます。

イ J100竪穴住居

J100竪穴住居 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・加筆
建物敷地(幅約5.5m)に比高20㎝の土地高低差があり、その高低差を住居壁には全く使わず全て床面傾斜に使った住居であると考えます。雨天時の水はけ機能は確保できますが、住居壁がないので家内温度変化が激しく、また屋根が地面から全部立ち上がるので風に弱い家だったと考えられます。張出部方向は土地傾斜方向と略一致するように等高線との関係から想定できます。

ウ 考察
ウ-1 住居壁有無の条件
J57竪穴住居では家敷地にある30㎝の高低差を利用して竪穴(住居壁)を掘っています。一方J100竪穴住居では家敷地にある20㎝の高低差を床面傾斜に使い竪穴(住居壁)を掘っていません。家敷地における土地高低差が少なくとも30㎝はないと竪穴(住居壁)を掘る意味はないと縄文人は考えていたのかもしれません。
土地の高低差を住居壁高さと床面傾斜にどのように配分したか、発掘調査報告書のデータを詳しく分析することが可能ですから、住居壁有無と土地傾斜の関係や縄文人が最も好んだ土地傾斜と住居壁高さ・床面傾斜の関係などを今後知ることができそうです。

ウ-2 張出部方向の意味
J57竪穴住居、J100竪穴住居ともに張出部方向は土地傾斜の方向であり、かつ床面傾斜の方向であると考えられます。張出部方向が祭祀信仰・社会関係との関係ではなく、住居立地条件としての土地傾斜(=床面傾斜=排水方向)として捉えるべき指標である可能性が強まりました。発掘調査報告書のデータを詳しく分析すれば、張出部方向の意味が詳しく分る可能性が濃厚です。また逆に張出部方向から縄文時代微地形復元ができる可能性も浮上します。

2-2-4 住居壁がない竪穴住居が存在していた可能性
次のような条件から台地平面上の住居は住居壁が無かったものが多いと考えられます。
1 発掘調査報告書の「後世の削平により住居壁が失われた」という記述は利用できないこと
2 事例検討から「後世の削平により住居壁が失われた」状況が浮かび上がらないだけでなく、最初から住居壁が無かったと考えられること
3 一般論として平らな台地面では排水不能となることから竪穴を掘り下げる住居の建設はあり得ないこと

なお、大膳野南貝塚で住居壁の無い竪穴住居が有るならば、それは大膳野南貝塚だけの特殊事例とは考えづらいですから、必ずや近隣遺跡の台地面にあるはずであると考え、今後調査する価値のある課題になります。

3 後期集落最初期の時期区分
3-1 発掘調査報告書の時期区分
大膳野南貝塚発掘調査報告書における後期集落(中期末葉~後期)最初期の時期区分は●加曽利E4~称名寺古式期→●称名寺~堀之内1古式期の2段階となっています。その説明では、加曽利E4~称名寺古式期が集落成立期であり、積極的な採貝活動の痕跡は確認できないとしています。称名寺~堀之内1古式期になると「漆喰」の使用が行われ始める時期であり、本格的な採貝活動と貝殻利用が開始された時期であるとしています。

3-2 発掘調査報告書時期区分に従うと生まれる非連続性
発掘調査報告書時期区分に従って学習を進めると加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期の間に次のような非連続性が生れてしまい、集団が入れ替わったと考えざるをえなくなります。

後期集落最初期に集団が入れ替わった可能性
特に加曽利E4~称名寺古式期の葬送形式が集骨葬(再葬)であり、称名寺~堀之内1古式期は伸展葬ですから全く異なり、集団のルーツが異なると考えざるをえません。

しかし、称名寺~堀之内1古式期の次の集落急発展期の堀之内1式期になると漆喰貝層無の竪穴住居が再び出現します。一度途絶した集団が再び戻ってきて漆喰貝層有竪穴住居の人々と同化したようなイメージになり、大変不自然です。

漆喰貝層有無別にみた竪穴住居軒数
漆喰貝層有無という視点からみると加曽利E4~称名寺古式期、称名寺~堀之内1古式期という時期区分が情報のスムーズな理解の妨げになっているように感じられます。このような時期区分は学習者からみると合理性がないように直観できます。

次のように上記竪穴住居件数表をまとめると情報理解がスムーズになります。

漆喰貝層有無別にみた竪穴住居軒数(集計時期調整)
後期集落学習では加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を最初期として一括して扱ってきました。

3-3 最初期を一括して扱うことの合理性
最初期の実際の土器出土状況を詳しく調べてみると次のようになります。

大膳野南貝塚後期集落最初期の時期区分
発掘調査報告書で称名寺~堀之内1古式期としている竪穴住居のうちJ34とJ44は実は加曽利E4~称名寺式期の土器が出ていて称名寺~堀之内1古式期に分類するのは無理筋であることがわかります。恐らく「漆喰貝層無=加曽利E4~称名寺古式期」、「漆喰貝層有=称名寺~堀之内1古式期」という図式が出来て、それに当てはめるためにJ34とJ44で無理をしたのだと思います。J34とJ44の無理を正して再度時期区分しようとして、加曽利E4~称名寺(古)式期というくくりでは5軒の竪穴住居が入ることになります。加曽利E4でくくれば7軒になります。称名寺式でくくれば8軒になります。つまり集落の最初から漆喰貝層有と漆喰貝層無の竪穴住居が一緒に存在していたことが土器出土状況を指標にして明らかになると考えます。
加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を一括して扱うという私が行った学習上の便宜的操作は、大膳野南貝塚後期集落消長の大局観を得る上で合理的であると考えます。
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次の資料を公開しました。(2018.07.22)

pdf資料「個別テーマ 要旨

pdf資料「個別テーマ

上記資料を含めて私の作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。

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