2019年9月4日水曜日

炉のない住居跡

縄文土器学習 254

鎌ヶ谷市郷土資料館展示阿玉台Ⅳ式深鉢形土器(根郷貝塚)の3Dモデルを作成しましたが、この土器をキッカケにして寄り道学習をしています。
この記事では根郷貝塚寄り道学習でうまれた興味(学習課題)のうち炉の無い住居跡に関するものをメモします。

1 根郷貝塚の各期の住居跡

根郷貝塚の各期の住居跡
「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

根郷貝塚ではこれまで32軒の竪穴住居跡が検出され、これらはおおむね5時期に変遷するとされています。(上図)
Ⅰ期は阿玉台式前半期で、平面形は長円形を呈し、掘り込みは浅く、炉を持ちません。
Ⅱ期は阿玉台式後半期で、隅丸方形で掘り込みは深く、有段となり、やはり炉を持ちません。
Ⅲ期は阿玉台末~中峠式期で、円形が基本で、掘り込みは深く、土器を埋設した炉があらわれます。
Ⅳ期は加曽利EⅠ式期で、本遺跡の盛期と思われます。平面形は円形が基本となり、掘り込みは深く、炉は深鉢の口縁部を再利用した埋甕炉となります。
Ⅴ期は加曽利EⅡ式期で、 長円形を呈し、掘り込みは浅く、炉には土器片や礫を利用したものがあります。(「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」からまとめ)

2 炉のない住居跡
「鎌ヶ谷市史上巻(改訂版)」では阿玉台式期特有の現象として炉跡がない住居跡の存在を指摘しています。
貝塚の形成が始まるⅢ期の中峠式期からは炉があらわれますが、阿玉台式前半期と後半期には住居内に炉がありません。
「根郷貝塚では二次調査において7000平方メートルを調査したが、屋内炉に代わる遺構は検出されなかった。このようなあり方は、本市域だけでなく県内広く認められるのである。いかなる理由によるものか、今もって究明の糸口すら見いだせていないのが現状である。」「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 考察
中峠式期からは貝塚形成が始まり、定住もしっかりしたものになったため住居跡に炉が存在することはよくわかります。
それ以前の阿玉台式期の炉がない状況は、他の遺跡事例を「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」でざっと読むと、たしかにそのような記述が散見され、専門家の間で共通認識になっているようです。
しかし、いくら定住が不安定であり、放浪的生活がその当時の状況だとしても、住居を利用した時の調理に火を使わなかったことはあり得ません。屋外炉はどこかにあるはずです。
その屋外炉の場所が住居近くではない、専門家が調査していない(調査できない)別の場所にあるのだと思います。

その屋外炉の場所が谷津斜面や谷底にあった可能性をメモしておきます。
状況は大いに異なりますが、大膳野南貝塚学習で後期集落屋外炉(廃屋屋外炉)を谷底近くの谷津斜面で「発見」しました。(素人の自分が勝手にその住居跡が屋外炉として使われたと分析的に考えただけです。)
2018.07.21記事「個別テーマ」参照
谷津斜面や谷底付近に屋外炉を設ければ、川の水を利用して解体した動物や採集した植物及び水を台地上に運び上げる必要がないので、そこで調理と飲食する合理性がある程度あります。放浪的生活が主流ならば住居に愛着はあまりありません。水場近くでの野外飲食が生活の楽しみになります。
阿玉台式期の屋外炉の場所が谷津斜面や谷底にある可能性について、今後学習を深めることにします。

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