2018年6月14日木曜日

集落消長の理由

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 3 集落消長の理由

大膳野南貝塚学習中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「3 集落消長の理由」の説明素材を集めて、まとめペーパーの材料を作りましたので掲載します。
なおここでは後期集落だけを対象とします。
この材料は次の補足検討に基づいて、想像力を駆使してまとめたものですから想像的記述といえるものです。

2018.06.13記事「貝塚集落がたち行かなくなった時の身の振り方
2018.06.12記事「「中期後半の衰退」期における集落立地
2018.06.11記事「漁場消失による貝塚集落終焉のデータ
2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ
2018.06.09記事「大膳野南貝塚集落消長と千葉県貝塚変遷の対応

1 大膳野南貝塚後期集落が最初に立地した頃の縄文社会情勢
大膳野南貝塚後期集落が最初に立地した頃は「中期後半の衰退」(「千葉県の歴史 通史編原始・古代1)」(千葉県発行)の概念)と言われる時代で中期中葉の貝塚集落が全て廃絶して、新たな貝塚集落がその近隣に立地した時期です。
大膳野南貝塚後期集落はこの時代に新たに立地した貝塚集落です。
旧貝塚集落が全て廃絶し、新貝塚集落が立地した様子を「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では次のように記述しています。
Ⅳ期に多数存在した通年定住型の集落は、加曽利EⅡ期の終わりから加曽利EⅢ期の始まりにかけて、すべて消滅したものとみられている。Ⅴ期には、わざわざ集落の故地を避けて、分散的に居住するようになる。

大膳野南貝塚後期集落の時期別竪穴住居軒数グラフと千葉県時期別貝塚分布図を略対応させると次のようになります。

集落立地の背景検討
大膳野南貝塚後期集落の立地は「中期後半の衰退」期における集落置き換わりで生まれた新集落であることが確認できます。
そして、集落置き換わりは集団入れ替わりを意味しますから、大膳野南貝塚後期集落は新集落であるとともに新集団による集落です。

大膳野南貝塚付近の新旧貝塚集落を示すと次のようになります。

新旧貝塚集落の分布
旧集落(有吉北貝塚・有吉南貝塚、草刈遺跡)は海の近くに分布していますが、新集落(上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、六通貝塚、大膳野南貝塚)は台地主部縁に分布し、大膳野南貝塚などは海から離れてもお構いなしに立地しています。旧集落と新集落の集落立地原理が異なることは、新旧集落が新旧集団の違いに対応していることを表現しています。
旧集落廃絶→新集落創始のプロセスは新集団が旧集団の猟場・漁場・堅果類採集場を奪い(つまり新集団が旧集団を征服して)、旧集落を廃絶に追い込んだと解釈することができます。旧集団の人々は新集団の下層に組み込まれたと考えられます。大膳野南貝塚ではその下層の人々(旧集団の人々)が漆喰貝層無竪穴住居住人であり、支配上層の人々(新集団の人々)が漆喰貝層有竪穴住居住人であると考えられます。

2 大膳野南貝塚集落が立地できた条件の一つ
大膳野南貝塚集落が立地できた条件の一つに占有漁場確保があげられます。より具体的には「地形で分節された小入り江」を占有できて、そこを漁場として漁業を行うことができました。この条件の喪失が集落衰滅の主因になったと考えます。

仮説 地形で分節された小入り江の存在が多数貝塚集落が立地できる必須条件

3 集落衰滅の主因は漁場喪失
大膳野南貝塚集落衰滅の時期は「後期中葉の衰退」(「千葉県の歴史 通史編原始・古代1)」(千葉県発行)の概念)と言われる時代で、他の多くの貝塚集落消滅と同じ時期に当たります。
大膳野南貝塚の漁場であった「地形で分節された小入り江」の様子を推察すると次の図のようになります。

4000年前の海面の推定
大膳野南貝塚の貝塚形成が4000年前頃から3750年前頃までであると仮定する(放射性炭素年代測定結果に基づく)と、貝塚形成が終わる頃と漁場が干陸化して物理的に消失する時期が略一致します。
大膳野南貝塚後期集落は占有漁場が物理的に消失したことに対応して、貝塚集落として衰滅したと捉えることができます。

4 移住先
大膳野南貝塚後期集落では堀之内1式期に急増した竪穴住居軒数が堀之内2式期には急減していますから、この間に集落集団の多数が集落外に移住していると考えることができます。移住先を直接知ることはできませんが、下総地方レベルで観察すると東京湾岸から印旛沼湾岸に移住した人々が多かったと考えられます。

Ⅵ期(後期前葉~中葉)→Ⅶ期(後期中葉~晩期前半)における貝塚集落の増減

5 狩猟民として生きる
縄文後期には海岸線の後退により「地形で分節された小入り江」がほとんどなくなり、東京湾では直線状の砂浜海岸が広がりました。
縄文人は新たに生まれたこの海岸環境を漁場として開発することはありませんでした。

次の図は大膳野南貝塚の地形上の位置を示したものです。

大膳野南貝塚の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
大膳野南貝塚は海から谷津を伝わって4㎞はなれ、標高差は50mあります。このような場所に集落を立地させたのは狩猟を第一に考えたからであり、漁業は第二条件にすぎません。この様子から縄文人のアイデンティティは狩猟にあると考えます。

「地形で分節された小入り江」が無くなったら、その後の直線状砂浜海岸を漁場として開発すること、つまり漁民になりきることを縄文人は拒否しました。
縄文人は狩猟民であるという自分のアイデンティティを放棄してでも環境変化に対応して生き残る道はとらなかったということです。
縄文人は崩壊した漁業の代わりは自らのアイデンティティである狩猟を強化することで穴埋めしようとしました。この時期の貝塚集落の様子を「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)では「獣骨の増加が顕著」と記述しています。
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次の資料を公開しました。(2018.06.14)

pdf資料「集落消長の理由 要旨

pdf資料「集落消長の理由

上記資料を含めて私の作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。



2018年6月13日水曜日

貝塚集落がたち行かなくなった時の身の振り方

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の集落衰退期の様子(シナリオ)を次のように書きました。
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●集落衰退期
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・漁労系住人は新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)などへ移住した。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・堅果類採集系住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。
……………………………………………………………………
シナリオ(半ば想像)とは言え、この記述に大きな間違いを見つけましたので訂正します。縄文人の本質を見誤っていました。
以下は想像的検討(!)です。

1 大膳野南貝塚が立ちいかなくなった時の対応策
海岸線が後退して、大膳野南貝塚からみると自分の漁場そのものが物理的に消失してしまったのですから、急増人口を養えるはずものなく、また絶海の孤島ではありませんから移住が対応策として執られたと考えます。
その際、漆喰貝層有竪穴住居住人(狩猟、漁労、採集)と漆喰貝層無竪穴住居住人(主に採集)がバラバラに移住したとしたのは間違いであると考えます。
漆喰貝層有竪穴住居住人と漆喰貝層無竪穴住居住人は上下関係があるのですから、その関係を保持したまま移住したと考えます。

2 移住先
2-1 移住先 海岸部
移住先として、「新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)」を考えましたが、これは2つの理由から間違いであると気が付きました。
2-1-1 論理矛盾
海岸部移住仮説は自分自身の論理矛盾としての間違いでした。
海岸線が後退して漁場が消失したのですから、その場所に移住することはあり得ません。
残った漁場は周辺の有力な貝塚集落(具体的には六通貝塚)が独占しました。その周辺に移住して利用できるような漁場はありません。

●参考
縄文時代に貝塚集落が立地するためには、近くに地形で分節された小入り江の存在が必須であると考えました。

仮説 地形で分節された小入り江の存在が多数貝塚集落が立地できる必須条件

2-1-2 漁業執着に対する誤解
海岸部移住が仮にあったとすれば、それは台地から低地に降りて、生業をほとんど漁業専業にすることを意味します。そのような選択肢は縄文人には無かったと考えます。
次の図は大膳野南貝塚が立地している地形上の位置です。

大膳野南貝塚の位置

大膳野南貝塚の地形断面図上の位置
大膳野南貝塚住人は海から4㎞以上離れた標高50mの台地面に集落を建設しています。この立地は漁業活動に有利だから選んだ場所ではなく、狩猟に便利であることが第1であり、その次に海にも出られる谷津のそばであることを理由にしています。つまり大膳野南貝塚住人が最もこだわっている生業は狩猟です。縄文人のアイデンティティは狩猟民であることです。
したがって大膳野南貝塚住民は仮に漁場が遠くなったからといって、海岸線付近の低地に移住することはあり得なかったと考えます。もしそのような移住があり得るならば、最初から遠い台地面ではなく、海岸線近くの低地に集落を建設していたはずです。

2-1 移住先 印旛沼周辺
次の図に示すとおりⅥ期(後期前葉~中葉)からⅦ期(後期中葉~晩期前半)にかけて東京湾岸の貝塚集落が減少し、印旛沼周辺で増加します。

Ⅵ期→Ⅶ期の貝塚集落増減
大膳野南貝塚が利用していた漁場が消失して、移住した先は印旛沼近くであったと想定することは次の理由から合理的です。
1 先住者が少なく開拓できる空間が広がっています。
2 前居住地と一連の台地に位置していることから、動物の移動ルート情報など既往知識を活用でき、狩猟環境に激変がありません。
3 汽水とはいえ漁場(地形で分節された小入り江)を占有できます。
4 母集落や東京湾岸貝塚集落との社会関係を維持できる空間に位置します。

なお、九十九里方面は東京湾と同じく海岸線が後退して単調な砂浜海岸となり、縄文人が漁労を営むことができる好適な漁場は急減していたと推定します。そのため九十九里方面への転進は無かったと考えます。


シナリオは次のように修正します。
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●集落衰退期
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・ほとんどの住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。
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2018年6月12日火曜日

「中期後半の衰退」期における集落立地

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の貝塚集落としての最初期の様子(シナリオ)を次のように書きました。
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●集落形成以前
・Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。
(・Ⅳ期集落経営の破たん要因は未検討。)

●集落形成期
・このサイト(大膳野南貝塚のサイト)が漁労をメインとする集落立地に好適であることが新たに発見され、人々が入植した。
・村田川河口湾内漁場の漁業権を最初漁業者として入手できた。
・近隣に集落が少なく主食の堅果類入手も問題なく可能な土地であった。
・狩猟場(村田川源流域)へのアクセスも良好であった。
・漁労と狩猟をメインとする集落上層住人と堅果類採集等をメインとする下層住人の協働社会が最初からスタートした。
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このシナリオを想像を交えつつデータで補強します。

1 「中期後半の衰退」期頃の貝塚集落数の趨勢
「Ⅳ期には集落経営が破たんして人々は新天地に出るしか選択肢がなく、その結果Ⅴ期に多数の新規貝塚集落ができた。その一つが大膳野南貝塚である。」というのが私が考えたシナリオでした。
その実態を貝塚分布図変遷で見ると次のようになります。

集落立地の背景検討
分布図にプロットされた貝塚集落数はⅣ期75→Ⅴ期77と増大しますから、縄文社会全体が「中期後半の衰退」期にあって、数の衰退はありません。この時期には既存の貝塚集落が一斉に衰滅し、新開発貝塚集落が広域に立地します。集落の入れ替わりが行われ、従って人集団の入れ替わりが想定されます。(参考図参照)
貝塚集落だけを対象にすれば、「中期後半の衰退」とは旧集団の集落が衰退し、新集団の集落が勃興した現象のようです。
従って「Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。」というより「Ⅳ期集落社会が破たんしてその集団は没落し、新たに流入した集団により新たなⅤ期社会が勃興した。」と言い換えた方がよいかもしれません。

集団が入れ替わった時、旧集団の人々が新集団の下層に組み入れられた可能性があります。

2 新旧貝塚集落の空間関係
新旧貝塚集落の空間関係を大膳野南貝塚付近でみると次のようになります。

Ⅳ期とⅤ期の貝塚集落の分布
Ⅳ期集落分布のあり方(原理)とⅤ期集落分布のあり方(原理)は明らかに異なります。
Ⅳ期集落はそれぞれ海に近い台地に立地しています。相互の関係性は特段見られません。
それだけ集落密度が低かったということです。
ところがⅤ期集落は台地面主部(台地が広くて連続しているところ)近くに立地していて、海から離れてもお構いなしです。大膳野南貝塚などは海からかなり離れてしまい、草刈遺跡と比べて集落立地原理が明らかに異なります。また狩猟場(九十九里との分水界付近)との関係を意識して集落が立地しています。同時に集落間の関係も想定できます。それだけ集落密度が高いということでもあります。
Ⅳ期集落社会とⅤ期集落社会の空間分布原理が異なることから、社会を構成する集団が異なるとの示唆を受けることができます。

なおⅣ期の有吉北貝塚、有吉南貝塚よりⅤ期の上赤塚遺跡、木戸作貝塚、小金沢貝塚、六通貝塚の方が海側に立地しています。これは地象プロセスとしての海岸線後退現象に対応した事象です。
Ⅳ期の有吉北貝塚や有吉南貝塚は時間が経過するとともに海までの距離が長くなり集落経営上多少の不利が生れたと考えることはできます。しかし「海」は無くなっていないので、その多少の不利が集落衰退の主因ではないと考えます。Ⅴ期に多数の貝塚集落新立地が見られることから考えて、海岸線の後退(=海面低下)や海況の変化(=生物相の変化)など広い意味での気候変動を「中期後半の衰退」の主因とする考えには共鳴できません。

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参考図

貝塚分布図 Ⅳ期

貝塚分布図 Ⅴ期

貝塚分布図 Ⅵ期

貝塚分布図 Ⅶ期

2018年6月11日月曜日

漁場消失による貝塚集落終焉のデータ

2018.06.10記事「大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ」で大膳野南貝塚後期集落の貝塚集落としての終焉は海岸線後退による漁場の消失が主因であると書きましたが、そのデータを示します。
海面分布(海岸線)の資料は「辻誠一郎他(1983):縄文時代以降の植生変化と農耕-村田川流域を例として-、第四紀研究22(3)251-266」を使わさせていただきました。

1 大膳野南貝塚後期集落の漁場

大膳野南貝塚及び近隣貝塚の漁場とルート
大膳野南貝塚の漁場は1付近と推定できます。また漁場までのメインルートは集落の南側谷津を通るルートです。

なお、竪穴住居張出部を分析すると西貝層付近の漆喰貝層有竪穴住居住人の漁場へ向かうルートは西側谷津を通るルートになります。

竪穴住居張出部方向
西側谷津を通るルートは六通貝塚等の漁場に向かうルートであり、南側ルートから向かう大膳野南貝塚本来の漁場が半ば消失した時に近隣集落とのトラブル覚悟で使ったルートであると考えられ、自らの漁場がほとんど無くなった時の末期症状であると想定します。

2 4000年前頃の海面分布
大膳野南貝塚後期集落の年代は次の資料に見られる通り4000年前頃から3750年前頃です。

参考 年代測定結果 

4000年前頃から3750年前頃をはさむ前後の海面分布を地図にプロットしました。

5000年前の海面
この頃は漁場1には海面があります。

3500年前の海面
この頃は漁場1に海はなく陸地になっています。
つまり5000年前から3500年前の間に大膳野南貝塚の漁場が消失したことが判ります。
次に海岸線の後退が一定速度であったと仮定して、案分比例で4000年前と3750年前の海面(海岸線)の位置を推定してみました。

4000年前の海面推定
4000年前の海面は使っている谷津出口付近に丁度存在していますから漁業に利用されていたことを確認できます。
3750年前が後期集落の衰退期頃(堀之内2式期頃)と仮定すると、その頃はこれまでの漁場が陸化して使えなくなっている様子が観察できます。

このように既往資料から大膳野南貝塚後期集落で貝塚形成が終わった頃と占用漁場が消失した時期が略一致しするこを確認できます。

次の集落消長のシナリオ要点をデータで確認することができました。
●ステップ1
ある時期村田川河口湾内に好適な漁場が出現し、それに対応して立地した漁労集落(大膳野南貝塚)が栄えます。
●ステップ2
その後村田川河口湾内の漁場が消滅したため(干潟の位置が沖に移動したため)、固定されている大膳野南貝塚の位置では漁労集落を営む意義が消滅しました。

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参考

6500年前の海面


古墳時代の海面




2018年6月10日日曜日

大膳野南貝塚後期集落 消長シナリオ

現在、大膳野南貝塚学習の中間とりまとめを行っていて「3 集落消長の理由」まとめを行うために若干の追加作業をしています。
この記事では後期集落消長シナリオを掲載します。

大膳野南貝塚後期集落 消長の理由 想定シナリオ
●集落形成以前
・Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。
(・Ⅳ期集落経営の破たん要因は未検討。)

●集落形成期
・このサイト(大膳野南貝塚のサイト)が漁労をメインとする集落立地に好適であることが新たに発見され、人々が入植した。
・村田川河口湾内漁場の漁業権を最初漁業者として入手できた。
・近隣に集落が少なく主食の堅果類入手も問題なく可能な土地であった。
・狩猟場(村田川源流域)へのアクセスも良好であった。
・漁労と狩猟をメインとする集落上層住人と堅果類採集等をメインとする下層住人の協働社会が最初からスタートした。

●集落発展期
・漁場から収穫できる貝・魚等が豊富で人口急増の要因となった。
・集落周辺から収穫できる堅果類等は豊富で人口急増を支えることができた。
・狩猟場の確保も引き続きできた。
・漁労系住人と堅果類採集系住人の協働社会システムが有効に機能した。

●集落衰退期
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・漁労系住人は新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)などへ移住した。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・堅果類採集系住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。

●集落消滅期
・漁業を行える要件はなくなったので漁労系住人の居住は途絶え、堅果類採集系住人の末裔だけが細々と暮らした。
・縄文時代では自分の先祖ではない人の集落跡に、新たに別系統の人が入植することは無かった(意識して避けた)と考えられるので、最後は集落自体が終焉した。

このシナリオは次の対応図に対応するものです。

竪穴住居軒数変遷と千葉県貝塚変遷との略対応

シナリオの基本は村田川河口の奥深くまで浸入した海岸線が後退(※)していく地象プロセスと、固定されている漁労集落位置との関係によるもので、要点は次の2ステップです。
●ステップ1
ある時期村田川河口湾内に好適な漁場が出現し、それに対応して立地した漁労集落(大膳野南貝塚)が栄えます。
●ステップ2
その後村田川河口湾内の漁場が消滅したため(干潟の位置が沖に移動したため)、固定されている大膳野南貝塚の位置では漁労集落を営む意義が消滅しました。

このシナリオは大膳野南貝塚だけでなくこの時期の東京湾岸各地の貝塚集落に適応可能であると考えます。
東京湾に流入する河川の河口湾前面に形成された砂洲に漁労集団が移動した可能性と、別の新天地(印旛沼方面)に非漁労集団が移動した可能性が新たな検討対象になると考えます。

※海岸線の後退…海面低下現象だけでなく河川による沖積作用も加わり海岸線は後退しました。海岸線が後退すると海岸線の複雑な屈曲がなくなり延長が短くなります。その分全ての貝塚集落の占用漁場が狭まったと考えられます。

このシナリオに沿った情報(データ)を提示することでまとめを行うこととします。次記事で情報(データ)を提示します。


2018年6月9日土曜日

大膳野南貝塚集落消長と千葉県貝塚変遷の対応

1 「3 集落消長の理由」まとめと追加学習作業
現在、大膳野南貝塚学習の中間とりまとめを行っていて「3 集落消長の理由」まとめに取り組みはじめました。このとりまとめは後期集落を対象にしています。
過去学習の記事をふりかえって学習内容を要約するだけですから、すぐにまとめはできるとタカをくくっていました。
しかし過去記事を読み返すと一般的学習記事がつづき、消長の理由に鋭く切り込む視点が少ししかありません。過去記事をまとめてもあまり面白いまとめにはなりません。
そこで、過去記事読みは止めて、「本当のところ、大膳野南貝塚後期集落はなぜ出現し、なぜ発展し、なぜ衰退したのか」じっくりと考えてみました。昨日丸1日時間を空費しました。すこし焦ります。しかし今朝の散歩中に「このようなストーリーで説明できる。」というアイディアが「向こうから」浮かび上がってきました。自宅に戻って、早速いくつかの情報を調べるとまさにそのストーリー通りになります。
このような事情があり、「3 集落消長の理由」のまとめは単純な過去記事まとめにするのは止めて、多少の追加学習作業を行い、その結果でまとめることにします。

2 「3 集落消長の理由」のまとめ方
大膳野南貝塚が置かれた社会状況からの集落消長理由検討と大膳野南貝塚自身の内部情報の両面から検討しまとめることとします。

3 大膳野南貝塚と千葉県貝塚変遷との略対応
大膳野南貝塚後期集落の消長とは竪穴住居軒数変遷にほかなりません。これと千葉県貝塚変遷との対応関係を検討してみました。

大膳野南貝塚後期集落 竪穴住居軒数変遷と千葉県貝塚変遷との略対応

竪穴住居軒数と貝塚変遷との略対応から、集落消長と縄文社会変動の連動性をみることができます。
大膳野南貝塚後期集落は自分勝手に消長しているのではなく、縄文社会全体の変動の中で自分の役割を演じていることが判りました。
つまり大膳野南貝塚後期集落の消長は地域全体に及ぶ影響要因と関連しているといえます。
その地域全体に及ぶ影響要因を絞り込み、それとの関連で大膳野南貝塚の具体データを分析することにします。

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参考 縄文時代の時期区分
「千葉県の歴史 資料編 考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用


2018年6月7日木曜日

諸磯・浮島2集団の関係

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 2 諸磯・浮島2集団の関係

大膳野南貝塚中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「2 諸磯・浮島2集団の関係」の説明素材を集めて、まとめペーパーの材料をつくりました。

なお、「2 諸磯・浮島2集団の関係」の検討は2017年4月頃ですが、その後2017年12月~2018年2月頃に「1 漆喰貝層有無2集団の関係」に興味を持ち集落内異集団共存について検討を深めました。このような経緯があるので、今ブログ記事を読み返すと「2 諸磯・浮島2集団の関係」の検討は材料が豊富なのにあまり深まっていません。認識レベルが浅→深へと一方向にしか進まないので、それはしかたがないことです。現時点からふりかえると前期後葉社会に未分析の材料が沢山あるので、今後補足分析を行うこととします。

1 出土土器の優勢形式による竪穴住居分類
大膳野南貝塚発掘調査報告書の「前期後葉の遺構と遺物」の項に収録されている竪穴住居祉を出土土器の優勢形式により分類すると次のような分布図と統計を得ることができます。(「前期後葉の遺構と遺物」に対応する集落を「前期集落」と略称します。)

優勢土器により分類した竪穴住居分布

優勢土器形式別竪穴住居軒数
利用している土器形式が異なるということは文化と出自が異なることを示しています。つまり2つの異集団が1つの集落を形成して共存していることが推測できます。そこで、以下その状況を検証してみました。

2 優勢土器と発掘情報特性
2-1 優勢土器と竪穴住居特性
2-1-1 分布特性

優勢土器による竪穴住居分布の概要
優勢土器により竪穴住居を分類し、その分布を俯瞰すると2種竪穴住居は集落を東西に2分して棲み分けしているように観察することができます。

2-1-2 竪穴住居面積、深さ

優勢土器別竪穴住居平均面積

優勢土器別竪穴住居平均深さ
竪穴住居面積及び深さともに浮島式土器優勢竪穴住居の方が諸磯式土器優勢竪穴住居よりその値が大きくなっています。つまり浮島式土器優勢竪穴住居の方が諸磯式土器優勢竪穴住居より広く深いのであり、それだけ立派な竪穴住居であったということがわかります。

2-2 優勢土器と出土物特性
2-2-1 出土物総量(中テン箱数)
発掘調査報告書に竪穴住居別に出土物を収納した中テン箱数が記述されています。中テン箱数は出土物総量の指標になるとともに、出土物容量の中に占める土器の割合が多いので土器出量の概算指標にもなると考えます。
なお、竪穴住居から出土する遺物のほとんどは覆土層からの出土であることから、遺物の多くは竪穴住居が廃絶した後廃絶祭祀が行われたりその場所が送り場となり、その時に投げ込まれた(置かれた)ものであると考えます。

優勢土器別中テン箱数
優勢土器別に中テン箱数(総数)を集計したものです。このグラフだけからでも浮島式土器優勢竪穴住居からの遺物出土が多いことが判りますが、正確に比較するために平均中テン箱数を算出すると浮島式土器優勢竪穴住居3.75、諸磯式土器優勢竪穴住居1.18となり3倍以上の開きとなります。
浮島式土器優勢竪穴住居からの遺物出土量が多いということはそれだけ竪穴住居廃絶祭祀等に際して多量の土器・石器・獣骨等を投げ込んだ(お供えした)ということであり、諸磯式土器優勢竪穴住居より祭祀が盛んであるとともに生活が豊かだったことを表現していると想定します。

2-2-2 石器出土数

石器出土数
優勢土器形式別に石器製品と石器原料・剥片の出土数(総数)をみたところ、いずれも浮島式土器優勢竪穴住居の値が大きく、石器原料・剥片は10倍以上の差があります。平均値で比較すると、石器製品は浮島式土器優勢竪穴住居21、諸磯式土器優勢竪穴住居6.7となり3倍の開きとなります。石器原料・剥片類は浮島式土器優勢竪穴住居88、諸磯式土器優勢竪穴住居4.6で20倍近くに開きになります。
石器は生活の質に関わる基本道具ですから浮島式土器優勢竪穴住居住人が豊かで、諸磯式土器優勢竪穴住居住人が貧しかったことが推測できます。また石器原料の入手は浮島式土器優勢竪穴住居住人が独占していたと考えられます。諸磯式土器優勢竪穴住居住人は貧しいだけでなく、浮島式土器優勢竪穴住居住人から石器原料を譲り受けることで生活していたことになり、対等の関係ではなく主導-追従(上流階層-下流階層)の上下関係の存在が浮かび上がります。

2-2-3 石器分類別出土数

石器分類別出土数
石器種類を狩猟、動物加工、漁労、植物採集、植物調理加工の5つに分けてみたところ、狩猟、動物加工の石器数が浮島式土器優勢竪穴住居で多く、諸磯式土器優勢竪穴住居ですくないことが確認できました。平均値でみると狩猟系石器は浮島式土器優勢竪穴住居9.8、諸磯式土器優勢竪穴住居2で約5倍の開き、動物加工系石器は浮島式土器優勢竪穴住居10、諸磯式土器優勢竪穴住居2.4で約4倍の開きとなります。狩猟活動に関していえば浮島式土器優勢竪穴住居住人の方が圧倒的に活発であったことが判ります。
逆にみると諸磯式土器優勢竪穴住居住人も全く狩猟に関わっていなかったのではないことが判り、その情報は浮島と諸磯の関係を考える時に価値ある情報となります。

2-2-4 獣骨出土数

獣骨出土量
中テン箱数で計った獣骨量は浮島式土器優勢竪穴住居4箱、諸磯式土器優勢竪穴住居7箱となります。平均獣骨量は浮島式土器優勢竪穴住居、諸磯式土器優勢竪穴住居ともに1箱となります。
狩猟系石器の出土量から狩猟活動は浮島式土器優勢竪穴住居住民で活発で、諸磯式土器優勢竪穴住居住人はそれより活発ではないことが明らかなのに、獣骨出土量が同じであることは次の状況を表現しているものと想定します。
「浮島式土器優勢竪穴住居住人は日常の食糧調達手段として狩猟を行い、そのために必要な石器原料の入手なども行っていた。諸磯式土器優勢竪穴住居住人は日常の食糧調達ではなく祭祀で使う獣の調達でのみ狩猟を許されていた。その限定した狩猟のための石器原料だけを浮島式土器優勢竪穴住居住人から譲り受けることができた。」
主導-追従(上流階層-下流階層)の関係性がこのような狩猟活動の違いに表現されていると考えます。

3 優勢土器と異なる生業2集団
3-1 異なる生業2集団の存在
2の検討から浮島式土器優勢竪穴住居住人は狩猟を得意とし、狩猟と植物採集をメイン生業とし、諸磯式土器優勢竪穴住居住人は狩猟活動は限定されていて植物採集をメインとし、漁労も生業に加えていたとイメージしました。

3-2 2集団の関係性
狩猟活動は浮島式土器優勢竪穴住居住人が主導していることや遺物出土量の多寡から集落内の秩序は浮島式土器優勢竪穴住居住人が主導、諸磯式土器優勢竪穴住居住人が追従していて、上流階層-下流階層という関係が存在していたと想定します。
但し獣骨出土量が同じことからわかるように祭祀面での上下関係は観察できず逆に対等性が観察できます。
空間的に棲み分けしていて、また土器形式が異なることから、2つの集団は1つの集落社会を形成して協働しつつ、精神面・祭祀面・文化面では違うアイデンティティを保持していたように観察できます。

4 検討課題
●2集団の特性をより多様な指標で把握する
2集団の特性についてより多様な指標で把握することが可能です。
●2集団の協働活動について
浮島式土器優勢竪穴住居住人は狩猟活動にたけています。一方諸磯式土器優勢竪穴住居の分布域と貯蔵土坑の分布域が重なり、諸磯式土器優勢竪穴住居住人が主食調達にたけていたことが暗示されています。このような情報から2集団が食糧調達で相互に補完しあう関係にあったかどうか興味が湧きます。2集団の相互補完関係の存在を検証する価値があります。
●2集団の存在は双分制といえるものであるか
2集団の存在は集落が双分制であったと定義づけることができるかどうか、今後検討します。

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次の資料を公開しました。(2018.06.08)

pdf資料「諸磯・浮島2集団の関係 要旨

pdf資料「諸磯・浮島2集団の関係

上記資料を含めて私の作成した主な資料・パワポはサイト「考古と風景を楽しむ」にも掲載しています。

2018年6月6日水曜日

pdf資料「漆喰貝層有無2集団の関係」公開

2018.06.05記事「漆喰貝層有無2集団の関係」の内容をpdf資料にしましたので公開します。

pdf資料「漆喰貝層有無2集団の関係 要旨

pdf資料「漆喰貝層有無2集団の関係

趣味の縄文時代学習や趣味の「発掘調査報告書解読活動」に関心のある方からのコメントをお待ちしています。

花見川風景

2018年6月5日火曜日

漆喰貝層有無2集団の関係

大膳野南貝塚学習中間とりまとめ 1 漆喰貝層有無2集団の関係

大膳野南貝塚中間とりまとめを次の10項目に分けて行っています。
1 漆喰貝層有無2集団の関係
2 諸磯・浮島2集団の関係
3 集落消長の理由
4 貝塚・集落の構造
5 貝殻・獣骨・土器片出土の意義
6 埋葬の様相
7 竪穴住居祭壇の様相
8 狩猟方法イメージ
9 個別テーマ
10 背景学習

この記事では「1 漆喰貝層有無2集団の関係」の目次とその説明素材を集めて、まとめペーパーの材料をつくりました。

●目次

漆喰貝層有無2集団の関係 目次

1 漆喰貝層有無による竪穴住居分類
大膳野南貝塚発掘調査報告書の「中期末葉~後期中葉の遺構と遺物」の項に収録されている竪穴住居祉を漆喰貝層出土の有無で分類すると次のような分布図と統計を得ることができます。(以下、「中期末葉~後期中葉の遺構と遺物」に対応する集落を「後期集落」と略称します。)

漆喰貝層有無による竪穴住居分布

漆喰貝層有無による竪穴住居数
漆喰貝層有無別に竪穴住居を観察するとその分布状況から、2分類が集落内2集団に対応する可能性を感得することができます。
そこで、果たして本当に竪穴住居漆喰貝層有無別に対応した2集団が後期集落を構成していたのかどうか、以下竪穴住居、出土物、廃屋墓、環状焼土の情報をもとに検証します。

2 漆喰貝層有無と発掘情報特性
2-1 漆喰貝層有無と竪穴住居特性
2-1-1 分布特性

漆喰貝層有無別竪穴住居分布特性
漆喰貝層有竪穴住居の分布は貝層の分布と略一致する環状構造を示し、漆喰貝層無竪穴住居はその内側と外側に分布します。内側の分布は小環状を形成します。
また、漆喰貝層有竪穴住居は台地面に分布しますが漆喰貝層無竪穴住居は設置条件・居住条件の劣悪な谷津斜面にも分布します。
このように漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の分布特性は全く異なり、かつ大局的に棲み分けしているように観察できます。
後期集落は3重環状構造として把握することができます。

2-1-2 時期別特性

竪穴住居時期別特性
漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居は集落最初期から堀之内2式期まで共存していますが、堀之内2~加曽利B1式期以降は漆喰貝層無竪穴住居だけになります。
貝塚形成時期は堀之内2式期までです。

2-1-3 竪穴住居面積

竪穴住居平均面積
竪穴住居平均面積を集計すると集落創始期と急成長ピーク期では漆喰貝層有竪穴住居の方が漆喰貝層無竪穴住居より値が大きくなっています。
ところが、急減退期になると漆喰貝層無竪穴住居の方が値が大きくなります。次の衰退期では漆喰貝層無竪穴住居だけになりますが平均面積の値は大きくなっています。つまり急減退期頃に漆喰貝層無竪穴住居では大型の住居が建てられたのです。
このように漆喰貝層有竪穴住居が無くなるころ漆喰貝層無竪穴住居が大形化するという現象があり、漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の変化挙動が別であることが判ります。

2-1-4 重複関係

漆喰貝層有無別の竪穴住居重複の様子

漆喰貝層有無別の竪穴住居重複の様子
漆喰貝層有無別に竪穴住居の重複を観察すると、漆喰貝層有竪穴住居同士、漆喰貝層無竪穴住居同士の重複は合わせて31ありますが、漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居がからむ重複は17と半減します。
竪穴住居の重複は建物の老朽化や家族の代替わりなどで行われた建て替えであると考えると漆喰貝層有竪穴住居に居住する家族とその子孫は漆喰貝層有竪穴住居に継続して居住し、漆喰貝層無竪穴住居に居住する家族とその子孫は漆喰貝層無竪穴住居に継続して居住することが多かったことが判ります。つまり、漆喰貝層有竪穴住居、漆喰貝層無竪穴住居という特性が「世襲」されている場合が多いことになります。
また漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居がからむ重複が重複全体の35%ありますが、それは漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居が空間的に近接して立地している事情を表現していて、双方住民の関係が密であることを物語っていると捉えます。

2-2 漆喰貝層有無と出土物特性
2-2-1 出土物総量(中テン箱数)
発掘調査報告書に竪穴住居別に出土物を収納した中テン箱数が記述されています。中テン箱数は出土物総量の指標になるとともに、出土物容量の中に占める土器の割合が多いので土器出量の概算指標にもなると考えます。
なお、竪穴住居から出土する遺物のほとんどは覆土層からの出土であることから、遺物の多くは竪穴住居が廃絶した後廃絶祭祀が行われたりその場所が送り場となり、その時に投げ込まれた(置かれた)ものであると考えます。

竪穴住居平均遺物出土量(平均中テン箱数)
漆喰貝層有竪穴住居の遺物出土量が漆喰貝層無竪穴住居の10倍近くになっています。極端な差異が見られます。

但し、後世の削平の影響で覆土層が失われている竪穴住居が多くあり、その割合が漆喰貝層無竪穴住居で大きくなっています。
そこで、後世の削平の影響を取り除くため、覆土層が存在する竪穴住居だけを対象に上記と同じ集計をしてみました。

漆喰貝層有無別中テン箱数(覆土層有竪穴住居対象)
漆喰貝層有竪穴住居の遺物出土量が漆喰貝層無竪穴住居の倍近くの値となり、差は大幅に縮まりましたが、漆喰貝層有竪穴住居の方が遺物出土量が多いことが確認できます。
漆喰貝層有竪穴住居の住人の方が漆喰貝層無竪穴住居の住人より竪穴住居の廃絶祭祀や送り場としての利用が活発であったことが判ります。

参考

覆土層の残存状況


覆土層が残存する竪穴住居

2-2-2 石器出土数
石器出土数(総数)を漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居別に集計してみました。

石器出土数
竪穴住居数は漆喰貝層無竪穴住居の方が多いにも関わらず石器出土数は漆喰貝層有竪穴住居の方が5倍近くなっています。
平均中テン箱数と同じように後世の削平の影響を除去してみました。


漆喰貝層有無別石器数(覆土層有竪穴住居対象)
後世の削平の影響を除去しても漆喰貝層有竪穴住居からの平均石器出土数の方が漆喰貝層無竪穴住居の3倍以上あります。
漆喰貝層有竪穴住居の住人の方が漆喰貝層無竪穴住居の住人より竪穴住居の廃絶祭祀や送り場としての利用する際に石器の投げ込み(お供え)がはるかに多かったことが判ります。
この観察から漆喰貝層有竪穴住居住人の方が漆喰貝層無竪穴住居住人より普段から石器を多量に所持していた可能性が浮かびあがります。
石器は生活を営む上での基本的道具ですから、石器所持量の多寡が実在するとすればそれは生活レベルの差、貧富の差を表現していることになります。

なお、石器種類組成をみると漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居が共存する期間ではどの時期も漆喰貝層有竪穴住居の方が漆喰貝層無竪穴住居より狩猟系石器の割合が大きく、狩猟面においても漆喰貝層有竪穴住居が優位であったことがうかがわれます。

利用系統別石器出土割合

2-2-3 獣骨出土数
獣骨(片)出土数を漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居別に集計してみました。

獣骨平均出土数
獣骨出土は漆喰貝層無竪穴住居では極めてわずかです。
なお後世の削平の影響を除去すると次のようになります。

漆喰貝層有無別獣骨数(覆土層有竪穴住居対象)
後世の削平の影響を除去すると獣骨出土の差はさらにひろがります。
獣骨は貝層や漆喰があれば保護されて残存する可能性が高くなりますが、貝層や漆喰が無ければ残存する可能性はほとんど無くなります。そのためこのような結果になったと考えられます。
中テン箱数や石器数のデータから類推すると、もともと投げ込まれた獣骨数は漆喰貝層有竪穴住居で多く、漆喰貝層無竪穴住居で少なかったと考えて間違いありません。
逆の面から見ると竪穴住居廃絶祭祀で投げ込む土器や石器が少ない(つまり貧しい)漆喰貝層無竪穴住居住民も、わずかかもしれいないけれども獣肉を食していたことがわかります。

2-2-4 貝製品
貝製品数(総数)を漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居別に集計してみました。
貝製品には貝刃や装身具が含まれます。

貝製品出土数
貝製品は漆喰貝層有竪穴住居からのみ出土していて漆喰貝層無竪穴住居からの出土は全くありません。
漆喰貝層無竪穴住居住民は道具としての貝刃と貝製装身具を使っていなかったことが判ります。
つまり、漆喰貝層無竪穴住居住民は漁労には関わっていないことが判明します。

2-2-5 装身具
竪穴住居からの装身具出土状況を抜き書きしてみました。

竪穴住居からの装身具出土状況(J30号住のみ漆喰貝層無竪穴住居、他は全て漆喰貝層有竪穴住居)
11軒の竪穴住居から装身具が出土し10軒が漆喰貝層有竪穴住居、1軒が漆喰貝層無竪穴住居です。1軒の漆喰貝層無竪穴住居はすでに漆喰貝層有竪穴住居が存在しなくなった(貝塚形成が終わった)時期のものです。
この情報から堀之内2式期までは、装身具を身に着けていたのは漆喰貝層有竪穴住居住人だけであり漆喰貝層無竪穴住居住人は装身具を身に着けていなかったことがわかります。
漆喰貝層有竪穴住居住人と漆喰貝層無竪穴住居住人の間に強い階層差があると考えざるを得ない情報です。
漆喰貝層有竪穴住居でも装身具が出土しない竪穴住居があるのですからつぎのような想定ができる可能性が浮上します。
1 装身具を身に着けることができる上層住人(装身具出土漆喰貝層有竪穴住居住人)
2 装身具を身に着けない中層住人(一般住人)(装身具非出土漆喰貝層有竪穴住居住人)
3 装身具を身に着けない下層住人(漆喰貝層無竪穴住居住人)

2-3 漆喰貝層有無と廃屋墓・ヒト骨出土
廃屋墓・ヒト骨出土竪穴住居は全部で14軒あり内漆喰貝層有竪穴住居13軒、漆喰貝層無竪穴住居1軒の割合になる。

廃屋墓・ヒト骨出土竪穴住居
漆喰貝層無竪穴住居で廃屋墓として出土したのはJ88竪穴住居(加曽利E4~称名寺古式期)です。この遺構は廃屋墓形成後その場が北貝層で覆われたという特殊条件のため「運よく」廃屋墓として残存した貴重な漆喰貝層無竪穴住居の遺構です。
それ以外の漆喰貝層有竪穴住居の廃屋墓・ヒト骨出土竪穴住居はすべて覆土層に貝層が含まれ、また多くは覆土層の上が北あるいは南貝層に覆われています。
埋葬形式をみると漆喰貝層無竪穴住居廃屋墓(J88竪穴住居)だけが集骨葬です。一方、漆喰貝層有竪穴住居で廃屋墓として調査されたものは全て伸展葬です。ですから漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居で埋葬形式が全く異なります。
集骨葬は肉や皮を腐らせ除去した後、骨だけを綺麗に積み上げて埋葬する形式です。
一方漆喰貝層有竪穴住居では伸展等で人体を置いた状態の人骨が出土していて、なおかつ多くに齧痕(ネズミが齧った跡)があります。このことから殯行為で人体を一度ミイラ化し(その時ネズミに齧られる)、それを埋葬したものと考えられます。なお、多数の性別年齢が異なる人骨が並んで出土するのは死亡時期の異なる遺体が長期(1年以上)にわたってミイラ化され、ある時期にそれらのミイラを一斉に埋葬したことによると考えます。
このように同じ廃屋墓でも漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居で埋葬形式に違いがあることは大変興味深い事実です。漆喰貝層有竪穴住居住人と漆喰貝層無竪穴住居住人では埋葬に関わる文化が異なることになり、集団としてのルーツ・出自が異なると想定できます。

2-4 漆喰貝層有無と環状焼土
大膳野南貝塚後期集落では4軒の竪穴住居から、住居壁内側に沿って環状に分布する焼土堆積が検出されています。
焼土堆積内には多量の炭化物が含まれていて、さらに焼土堆積下の住居床面の一部は被熱により赤化しています。
4軒の竪穴住居は北貝層の称名寺式期竪穴住居(J34)と堀之内1式期竪穴住居(J63)、南貝層の称名寺式期竪穴住居(J104)と堀之内1式期竪穴住居(J105)であり、空間的(北貝層と南貝層)かつ時期的(集落最初期と集落発展ピーク期)に対応していることが着目されます。
また4軒ともに漆喰貝層有竪穴住居です。

環状焼土堆積のある竪穴住居
これらの遺構からは特殊遺物としてJ34の大型石棒、J63の鹿骨製垂飾、J105の鯨骨製骨刀、J104の注口土器が出土しています。
焼土および特殊遺物は、何らかの重要な廃屋儀礼(住居廃絶後の火入れ行為等)にともなうものと考えられ、その住居の主が集落のなかで祭祀に関わる枢要な役割を果たしていたことを暗示しています。
祭祀に関わる重要な役割は漆喰貝層有竪穴住居住人が果たしていて、漆喰貝層無竪穴住居住人が登場しないことが判ります。
祭祀面において、つまり精神生活面において漆喰貝層有竪穴住居住人が集落を主導し、漆喰貝層無竪穴住居住人は受け身であった、あるいは除外されていたことが想定できます。

2-5 まとめ
以上の分析を次に一覧表でまとめました。

漆喰貝層有無と発掘情報特性 まとめ

3 漆喰貝層有無と異なる生業2集団
3-1 異なる生業2集団の存在
2の検討から漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の住人は一方が漁労に従事し、一方が漁労に従事しない異なる集団に属していて、かつそのルーツ・出自が異なる集団であると考えます。
漆喰貝層有竪穴住居住人は貝塚形成の主体であり、漆喰貝層無竪穴住居住人と貝塚形成の関わりは見つかっていません。

3-2 2集団の関係性
漆喰貝層有竪穴住居住人は豊かで、装身具を身に着けることが許されていて、祭祀を司っています。一方漆喰貝層無竪穴住居住人は貧しく、装身具を身に着けることを許されず、祭祀に能動的に関われない状況が読み取れます。
この状況から漆喰貝層有竪穴住居住人は集落社会の上流・中流階層に位置し、漆喰貝層無竪穴住居住人は下流階層に位置していたと考えられます。
2集団は大局的には空間的に棲み分けし、集落全体で3つの環状を構成していました。集落構造の主要骨格は漆喰貝層有竪穴住居が形作る環状構造でそれが貝層分布(貝塚分布)に対応します。
土坑詳細検討の中で、2集団の関係は次の空間3分割の中で上下の関係を持っていたと推定しました。

大膳野南貝塚後期集落の構成(推定)

なお、北貝層と南貝層の間に漆喰貝層無竪穴住居が存在していて貝層連続を分断しているように観察できるところがあります。このことから、漆喰貝層有竪穴住居集団が漆喰貝層無竪穴住居をかってに移動させるなどの専制的権力の存在は弱かったと考えます。つまり支配集団と奴隷層という関係ではなくもう少しソフトな上下関係、階層関係が存在していたと考えます。

4 検討課題
4-1 分析課題
●漆喰貝層有無と土器に関わる特徴(形式等)との関連がみつかるか
漆喰貝層有竪穴住居住人と漆喰貝層無竪穴住居住人のルーツ・出自が異なるならば、双方から出土する土器の特徴を子細に分析すればなにかの差異が見つかるかもしれません。
●竪穴住居の漆喰貝層有無と土坑の漆喰貝層有無は対応するか
土坑の分類で送り場土坑を動物食関連送り場土坑(貝や獣骨が出土する送り場土坑)と植物食関連送り場土坑(貝や獣骨が出土しない送り場土坑)に分けていますが、これが漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居に対応するかどうか検証する価値があると思います。

4-2 理論的検討課題
●漆喰貝層有無は双分制か
漆喰貝層有竪穴住居と漆喰貝層無竪穴住居の共存は集落が双分制であったと定義づけることができるかどうか検討する必要があります。

4-3 学習の発展
●近隣遺跡にも漆喰貝層有無2集団が見られるか
大膳野南貝塚で見つかった漆喰貝層有無2集団は大膳野南貝塚だけの特殊例であるとは考えづらく、近隣遺跡にも同じ2集団の存在が観察できる可能性が濃いと考えます。