この記事では後期集落消長シナリオを掲載します。
大膳野南貝塚後期集落 消長の理由 想定シナリオ
●集落形成以前
・Ⅳ期集落経営が破たんして人々は新天地へ出る選択肢しかなかった。
(・Ⅳ期集落経営の破たん要因は未検討。)
・このサイト(大膳野南貝塚のサイト)が漁労をメインとする集落立地に好適であることが新たに発見され、人々が入植した。
・村田川河口湾内漁場の漁業権を最初漁業者として入手できた。
・近隣に集落が少なく主食の堅果類入手も問題なく可能な土地であった。
・狩猟場(村田川源流域)へのアクセスも良好であった。
・漁労と狩猟をメインとする集落上層住人と堅果類採集等をメインとする下層住人の協働社会が最初からスタートした。
・漁場から収穫できる貝・魚等が豊富で人口急増の要因となった。
・集落周辺から収穫できる堅果類等は豊富で人口急増を支えることができた。
・狩猟場の確保も引き続きできた。
・漁労系住人と堅果類採集系住人の協働社会システムが有効に機能した。
・海岸線が後退して村田川河口湾内干潟の減少が著しくなった。
・集落が確保している漁場からの漁獲物は急減し、急増人口を養えなくなった。
・漁労系住人は新しい漁場(村田川河口沖の干潟)方面の新天地(村田川河口砂洲)などへ移住した。
・集落立地の重要条件である占用漁場が海岸線後退により事実上失われたことにより集落が解体した。
・堅果類採集系住人は新天地である印旛沼方面へ移住した。
・漁業を行える要件はなくなったので漁労系住人の居住は途絶え、堅果類採集系住人の末裔だけが細々と暮らした。
・縄文時代では自分の先祖ではない人の集落跡に、新たに別系統の人が入植することは無かった(意識して避けた)と考えられるので、最後は集落自体が終焉した。
シナリオの基本は村田川河口の奥深くまで浸入した海岸線が後退(※)していく地象プロセスと、固定されている漁労集落位置との関係によるもので、要点は次の2ステップです。
●ステップ1
ある時期村田川河口湾内に好適な漁場が出現し、それに対応して立地した漁労集落(大膳野南貝塚)が栄えます。
●ステップ2
その後村田川河口湾内の漁場が消滅したため(干潟の位置が沖に移動したため)、固定されている大膳野南貝塚の位置では漁労集落を営む意義が消滅しました。
このシナリオは大膳野南貝塚だけでなくこの時期の東京湾岸各地の貝塚集落に適応可能であると考えます。
東京湾に流入する河川の河口湾前面に形成された砂洲に漁労集団が移動した可能性と、別の新天地(印旛沼方面)に非漁労集団が移動した可能性が新たな検討対象になると考えます。
※海岸線の後退…海面低下現象だけでなく河川による沖積作用も加わり海岸線は後退しました。海岸線が後退すると海岸線の複雑な屈曲がなくなり延長が短くなります。その分全ての貝塚集落の占用漁場が狭まったと考えられます。
このシナリオに沿った情報(データ)を提示することでまとめを行うこととします。次記事で情報(データ)を提示します。
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