陸奥国と中央を結ぶ東海道駅路網のメインルートをまとめてみます。
次の図は検討に使っている2図書の時代区分です。
2図書の時代区分
この時代区分に対応させてそれぞれの図書掲載駅路網情報を対比させてみました。
2図書駅路網情報対比図
(この図の構成図はこのブログで既に紹介していますので、構成図の精細を見たい方は過去記事を見てください。)
詳細細部を別にすると、2図書の駅路網変遷の大枠は同じと考えてよいと思います。
この駅路網変遷の大枠から、陸奥国と中央を結ぶ東海道駅路網のメインルートの変遷をまとめてみると次のようになります。
陸奥国と中央を結ぶ東海道駅路網のメインルートの変遷
表現の下敷きに「千葉県の歴史」(千葉県)を使いました。
最初は東京湾を横断するという大回りのルートから出発して、最後は関東平野を南西-北東方向に延びる直線状のルートに収斂していきます。
当初の駅路網は諸国の国府をできるだけ一筆書きで巡れるようなネットワーク形状のものでしたが、最後は単線形状のメインルートが成立し、メインルートから外れて支路でつながる国府も増えます。
こうした駅路網変遷の特徴から、駅路網は陸奥国と国家中央の間の高速通信移動手段としての機能を最優先して改革してきたことがわかります。
この事実は、駅路網とは別に物流網としての水運網が独自にしっかりと機能していたことと一緒に理解すべきであると考えます。
駅路網がなりふり構わず通信移動の高速性を追求できたのは、駅路網を支える強固な水運網(津〔直轄港湾、地域支配拠点〕のネットワーク)が存在していたからにほかなりません。
駅路網の変遷から、次の駅路網と水運網の関係が浮かび上がります。
・物流は水運網に任せる。(駅路網は高速通信移動機能に特化する。)
・駅路網の拠点(駅家)は津(直轄港湾、地域支配拠点)ネットワークを活用する。
駅路網が高速通信移動機能に特化した理由は、蝦夷戦争における現場諸情報を1日でも早く国家中央が入手し、また国家中央の戦争関連指示を1日でも早く現場に伝えることが、国家の命運を左右することに関わるような緊迫した情勢があったからだと思います。
なお、駅路網の駅家推定位置から当時の津(直轄港湾、地域支配拠点)の場所を推定することができるという考え、及び船越(水運網をつなぐ短区間陸路)という考えの2つの考えによって、当時の水運網を復元できることがわかりました。これは、古代の交通情報を復元するうえで貴重な視点だと考えます。このブログで初めて提示された有用性のある視点だと、手前味噌ですが、考えます。
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