2015年9月21日月曜日

参考 文字「六万」分布からの連想

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.209 参考 文字「六万」分布からの連想

鳴神山遺跡の検討を中断して寄り道で墨書土器の学習をしています。

この記事では墨書土器文字「六万」の分布から連想したことがらをメモしておきます。

2015.09.20記事「ヘラ書き土器の意味」でヘラ書き土器の文字(釈文欄記載内容)という表を掲載しました。千葉県出土ヘラ書き土器文字の出現数の50位までの順位表です。

この表で漢字2文字の例は六万だけで、目立っています。

この文字「六万」を千葉県データベースで検索すると次のような結果となりました。

「六万」の検索結果
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)による

2つの遺跡から「六万」が出土していて、高岡大山遺跡からは墨書・線刻土器16、ヘラ書き土器6が出土しています。ヘラ書き土器のうち1つは須恵器です。

文字「六万」の出土遺構
画像は千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)による

高岡大山遺跡には「六万」という文字を共有する集団が存在したことがわかります。

なお、高岡大山遺跡は粘土採取坑が存在していることから土師器生産の可能性があるとのことですが、須恵器生産は無かった遺跡です。

従って、「六万」をヘラ書きした須恵器は高岡大山遺跡の文字「六万」共有集団が近隣の須恵器生産地に発注し、その納品物に文字「六万」がヘラ書きされていたと考えることができます。

文字「六万」を共有していた集団は利用土器を生産地に特注できるだけの力(政治的・財政的力)を持っていた集団であると考えることができます。

「六万」が出土するもう一つの遺跡は村上込の内遺跡です。墨書土器2点、線刻土器1点が出土しています。

千葉県内で出土する「六万」は2つの遺跡だけです。その2つの遺跡は直線距離で11㎞しか離れていません。

また文字「六万」は千葉県で出土した墨書・刻書土器22496点のうち19点(0.08%)だけです。

このような状況から、高岡大山遺跡と村上込の内遺跡の「六万」はたまたま偶然に、無関係に出土したのではなく、相互に関連して出土したと考える方がはるかに合理的です。

高岡大山遺跡に存在した「六万」共有集団の一部が村上込の内遺跡に移動したと考えることが自然な連想です。

政治的には高岡大山遺跡は印旛郡の郡衙「別院」に該当する遺跡である可能性が残るとされています。(「佐倉市史 考古編(本編)」(佐倉市発行)

もし高岡大山遺跡が郡衙別院であるとすれば、村上込の内遺跡はそれよりランクの低い村神郷の政治拠点ですから、高岡大山遺跡から村上込の内遺跡に政治行政的な支配・指導のために人材が派遣されて当然です。現代行政で地方局から現場事務所に事務所長が派遣されるようなものです。

「六万」文字の2遺跡からの出土は以上のように、一種の転勤による文字拡散だと想像します。

次に、2遺跡からの「六万」出土は、奈良時代における交通との関係もあるのではないかと考えましたので、記録しておきます。

つまり、高岡大山遺跡は東海道(陸路)の拠点であり、一方村上込の内遺跡は東海道水運支路(仮説)の要衝に位置しています。

文字「六万」の出土遺構と交通との関係

高岡大山遺跡は東海道(陸路)を押さえていて、その権力の一翼を担う「六万」共有集団の一部が東海道水運支路(仮説)を押さえている村上込の内遺跡に派遣され、その場の権力の一翼を担うということが連想できます。

文字「六万」が2つの遺跡から出土した背景には、東海道陸路と東海道水運支路(仮説)が連携して活用されていたという古代交通事情があるものと考えます。

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