竪穴住居について重要なことに気が付きましたのでメモしておきます。
これまでの検討で、地形の検討から泉の存在に気が付き、水管理用竪穴住居の存在を突き止めました。
また、付着土器や土坑の検討から漆工房(竪穴住居)の存在を突き止めました。
さて、これらの特定機能を有する竪穴住居から墨書土器が出土していないことに気が付きました。
上谷遺跡 墨書土器が出土する竪穴住居と出土しない竪穴住居
墨書土器が出土しない竪穴住居の例
浸水する心配があるので周りに堤防を張り巡らして、そこを拠点に馬の水飲み場の管理を行っている1軒屋の竪穴住居からは墨書土器が出土していません。
また、漆工房である竪穴住居からも墨書土器は出土していません。
なぜ墨書土器が出土しないのか?
その理由として次の2つを仮説していみました。
仮説1 竪穴住居が住居ではなく、短時間利用する作業空間であったため墨書土器が出土しないと考える仮説。
水管理施設あるいは漆工房は業務が必要な短時間だけ利用している作業空間であり、食事や睡眠を伴う生活空間ではなかったと考えます。
いわば職場であり、自宅ではないので、そこからは墨書土器が出土しないと考えます。
墨書土器とは祈願ツールとしての食器ですから、主に食事や睡眠を伴う自宅に置いていたという考えです。
仮説2 竪穴住居の住民が俘囚や奴婢であるため墨書土器が出土しないと考える仮説
水管理施設あるいは漆工房で働いていた人が俘囚や奴婢であり、社会の下層に位置していて墨書土器風習を持つことができなかったと考えます。
土の堤防で浸水を防ぐような劣悪環境や、斜面の貧弱住居で漆工芸を行っていたのは俘囚や奴婢であったと考えます。
俘囚や奴婢は劣悪環境に耐えることができるとともに、陸奥国から連れてこられた俘囚の中には漆工芸技術にすぐれた工人が含まれていて、それらの技術を持った俘囚が働かさせられていた可能性があります。
当初仮説1を念頭においていたのですが、子細な情報を積み重ねると、仮説2の方が有力であると考えるようになりました。
俘囚や奴婢(特に蝦夷戦争で連れてこられた俘囚)の存在を証明できる直接証拠がどこかにないか探しています。
統計的な意味で、墨書土器が出土する竪穴住居と出土しない竪穴住居はその機能が異なることがいえると考えます。
さらに住んでいた住民の社会階層が異なっていた可能性があります。
竪穴住居の大小などの検討作業(統計的比較作業など)を行う価値がありそうです。
また墨書土器の出る竪穴住居と出ない竪穴住居がまるでペアのように分布していことが多くみられますので、主人と従者の関係を想像してしまいます。
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