2016年12月14日水曜日

メモ 古墳時代に終焉した集落の終焉理由

作業中の着想ですが、忘れないようにメモしておきます。

現在ブログ過去記事についてふりかえりを行っています。

その中で、古墳時代集落として上ノ台遺跡と内野第1遺跡の学習をふりかえりました。

上ノ台遺跡、内野第1遺跡ともに古墳時代に繁栄し、奈良時代以降には集落は継続していません。

そして奈良時代の幹線交通機能からふりかえると、結果的に外れた場所にある交通僻地です。

古墳時代までの地域開発では(集落立地では)幹線交通路の意義は小さく、奈良時代以降の地域開発では(集落立地では)幹線交通路の意義が極めて大きくなったという仮説を立てます。

奈良時代の計画的幹線交通路建設から外れた旧来の集落はその存在が不可能になり、反対に幹線交通路沿いの土地は新規開発地として大きな意義をもったと考えます。

奈良時代の計画的交通政策により規模の大きな地域再編成があったと理解します。

東海道水運支路機能により結果的に交通不便地に立地することになってしまった古墳時代集落

上ノ台遺跡は奈良時代に東海道水運支路の役割が重要になって、その場所から浮島牛牧を挟んで離れているために廃れ(捨てられ)たと考えます。

検見川台地上の集落(直道遺跡や居寒台遺跡)が東海道と東海道水運支路の結節機能を管理すべく新規開発されたため、上ノ台遺跡が有していた拠点機能の意義が完全に消滅したと考えます。

内野第1遺跡は古墳時代中期までの集落ですが、古墳時代後期には機能しだした東海道水運支路から外れていることにより衰亡したと想像します。

内野第1遺跡は典型的な交通僻地立地に起因する衰亡であると想像します。

古代下総における地域開発(集落消長)を考察するとき、東海道水運支路機能の意義検討が不可欠です。

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