村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 2
2018.08.25記事「村田川河口低地付近縄文集落の消長分析」で作成した遺跡分布図と地形との関係をより直観的に知るために、背景図を1960年代空中写真にして考察しました。
1 1960年代空中写真
村田川河口低地付近 1960年代空中写真
1960年代空中写真と旧版地形図1/25000蘇我を乗算結合して緑色にした画像です。開発前の地形を直観できます。赤点線は過去の海岸線、ベージュ実線は主要な台地分水界(尾根線)、白点線は開発区域(千葉東南部地区)です。
2 遺跡の分布
遺跡の分布
南北に通る主要尾根線の西側(海側)の細尾根地帯に遺跡が集中します。東西方向に延びる細尾根が歴史の主要舞台であったことが判ります。
3 旧石器時代遺跡の分布
旧石器時代遺跡の分布
細尾根西端の低い段丘面を除いて全域に旧石器時代遺跡が分布するように捉えることができます。
季節移動する動物(シカなど)は南北の尾根線を通ってやってきて、東西の尾根線伝いに展開したとするならば、そのルートに沿って旧石器時代人は狩をしたと考えます。尾根の西端まで移動する動物は少なく、従って狩も西端付近では少なかったと想像します。
旧石器時代遺跡とは即ち旧石器時代石器が出土した場所(ブロックが出土した場所)であり、そこでキャンプしたり動物の解体を行った場所であり、すなわちそのすぐ近くで狩が行われたと考えます。
図書(有吉南貝塚発掘調査報告書)にはこれらの旧石器時代遺跡の情報がさらに時代別に記述(ナイフ初、前、後、末~草創期)されていますので、向学のためにその分布図も作成して検討することにします。
4 縄文時代早期遺跡の分布
縄文時代早期遺跡の分布
旧石器時代遺跡分布より東側に移動しているように感じられます。狩猟圧により旧石器時代よりも狩場が南北移動路に近い部分に限られるようになったのかもしれません。あるいは縄文海進の影響により真水取得が尾根西端付近では困難であり、そのために炉穴(=キャンプ地)分布が尾根西端付近で少ないのかもしれません。
炉穴と陥し穴が一緒に出土する遺跡が多いので、ある季節(ある年)はキャンプ地として使い、別の季節(別の年)は陥し穴による狩猟の場として使っていた場所を炉穴が示していると考えます。
縄文早期までは旧石器時代と同様にこの場所が狩場であったのです。
5 縄文時代前期遺跡の分布
縄文時代前期遺跡の分布
南北に通じる尾根線から東西尾根線が判れる部分に前期拠点集落が立地します。従ってこのころは大膳野南貝塚が立地する東西尾根線に移動性動物は少なく、狩場としての意義は少なかったと考えます。おそらくメインの狩場は大膳野南貝塚の東の台地方面であったと考えます。東西尾根線のある一体は堅果類採集など、植物を利用する場であったと考えます。
6 縄文時代中期遺跡の分布
縄文時代中期遺跡の分布
中期の拠点集落である有吉北貝塚と有吉南貝塚が幹線路である南北尾根線ではなく、そこから派生する支尾根である東西尾根線に立地しています。このことから、中期拠点集落は近隣集落との緊密な交流は希薄であったと考えられます。
7 縄文時代後晩期遺跡の分布
縄文時代後晩期遺跡の分布
六通貝塚は幹線交通路である南北尾根線が屈曲する部分でかつ東西尾根線との分岐部という要衝に立地していて、拠点集落として計画的に建設されたと推察できます。この図を遥かにはみ出した広域的な土地における後期縄文社会の関係性のなかでこの場所が1つの拠点として選定されたと考えます。縄文後期社会には広域を視野にいれた意思や計画性が存在していたと考えられます。それは中期社会には見られない組織性であると考えます。
六通貝塚が親拠点となり、さらに大膳野南貝塚、小金沢貝塚、木戸作貝塚、上赤塚遺跡という子拠点を建設して、南北尾根線より西側の細尾根地域を植物性食料や木材等入手テリトリーとして占有していたと考えます。
狩猟のメインフィールドは南北尾根線より東側に存在していたと考えます。
8 弥生~奈良・平安時代遺跡の分布
弥生~奈良・平安時代遺跡の分布
弥生~奈良・平安時代でくくると、全ての遺跡が該当しました。今後、向学のために弥生時代遺跡や古墳について分布図を作成して地形の利用方法を知ることにします。
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記事シリーズ名で「村田川河口低地付近縄文集落」という言い方をしていますが、村田川河口低地に存在した海や干潟を生業の場として活用した縄文集落という意味であり、縄文集落そのものは標高50m程度の台地に立地しています。
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