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2023年4月17日月曜日

大賀ハスと丸木舟 その4

 花見川よもやま話 第19話


Ohga lotus and dugout canoe Part 4


I read an old paper on the stratum from which Ohga lotus seeds were unearthed. A dugout canoe was unearthed on the marine gray clay deposited by the Jomon Transgression, and lotus seeds were unearthed from the freshwater peat layer deposited on top of it. I dreamed that it would be very meaningful if the excavation and experiments conducted by Dr. Ohga were retested as part of a public participation project.


大賀ハスの実が出土した地層に関する古い論文を読みました。縄文海進による海成灰色粘土の上から丸木舟が、その上の海退で堆積した泥炭層下部からハス実が出土したようです。大賀博士の発掘・実験の追試を市民参加プロジェクトで行えば意義が大きいと夢想しました。


大賀ハス(平成23年7月4日千葉公園)


大賀ハス(平成23年7月4日千葉公園)


大賀ハス(平成23年7月4日千葉公園)

5 大賀ハスの発見

5-1 大賀ハスに関する主な経緯

 千葉市立郷土博物館編集発行の冊子「大賀ハス」(昭和63年3月)に大賀ハスに関する経緯や取組が詳しく書かれています。丸木舟発掘と大賀ハス取り組みが親和的関係にあることが理解できます。この冊子から私が理解した内容をメモしました。

ア 大賀博士と古代ハス

・大賀博士は昭和7年に千葉県滑川で出土した須恵器(1200年前)に入っていたハスの実を発芽実験し、発芽に成功させた。古ハスはまもなく枯死した。

・検見川出土丸木舟とともにハスの果托が出土したという記事を見た大賀博士は関係者に協力を求め古ハスの実の発掘が実現することになった。

イ 大賀ハス実発掘

・昭和26年3月3日に発掘調査が開始された。場所は丸木舟発掘場所であった。

・表土、草炭層、青泥層と掘り進んだ。湧き水に作業が難渋し、3月7日に丸木舟発掘層位に到達する予定が27日になり、30日の夕方「発掘に携わった人夫、生徒や関係者達が、一切の手がつくされて、これ以上はもう不可能であるといいだした午後5時10分頃、花園中生徒、西野真理子さんがふるっていた青泥底層の土の中から一粒のハスの実が発見された。」

・4月6日にさらに二粒の実がふるい出された。

ウ 古ハス実の発芽成長

・古ハスの発芽実験は、昭和26年5月6日に府中市の大賀博士宅で行われ、9日に発芽した。3粒のうち1粒は発芽後まもなく枯死し、2粒が生育した。

・1つの実生苗が千葉県農業試験場で生育され、別の場所に移され、昭和27年7月に開花した。

エ 天然記念物指定

・検見川出土の古ハスの実から成立した「検見川の大賀蓮」は、昭和29年に千葉県天然記念物に指定され、この時から「大賀ハス」と呼ばれるようになった。

オ 分根

・大賀ハスは国内各地に分根されるとともに、世界各国にも分根され友好の使者となっている。

【参考】大賀ハスに関するWEBページ

大賀ハス何でも情報館 このページには大賀ハスの開花情報をはじめ大賀ハスに関する各種情報が掲載されています。



坂口豊論文掲載の泥炭層基底地形図

出典:坂口豊「東京湾北部の泥炭地について」(資源科学研究所彙報34、1954)

後述引用する地層柱状図地点2箇所に赤丸を追記しました。

5-2  大賀ハス出土層位

 坂口豊「東京湾北部の泥炭地について」(資源科学研究所彙報34、1954)に大賀ハス発掘地点の地層柱状図が掲載され、詳しく説明されていますので、引用紹介します。

 柱状図につけたア~カの印は説明文の引用区分のために引用者が加えたものです。


大賀ハス発掘地点の地層柱状図

 右の柱状図が大賀ハス発掘地点(Excavation Point of Seeds of Lotus)、左の柱状図は花見川沖積地武石付近です。

ア black peaty Soil

「表面30cmは周辺の崖に露出する成田層の黄褐色の微砂の団塊を含んだ黒色の泥炭土で、人工的にかくらんされている。」

イ H-3 dark brown Peat

「その下250cm迄は暗褐色の泥炭層で分解はあまり進まず、L. von PostのSkalaでいうとH-3(極僅か分解、或いは僅かdyを含む。濁った水であるが、泥炭物質を含まず、残渣は粥状を呈せず)にあたる。」

ウ drifting timbers

「100-140cmと200-260cmには多数の木の小枝が含まれている。発掘中にはスコップで簡単に切れる位に分解した径20cm位の樹幹部も多数見られた。」

エ chocolate-colered compact Peat

「140-200cmの間はかなり緻密なチョコレート色の泥炭であった。」

オ H-5 gray black Peat

「270-370cmの間は灰黒色の分離のやや進んだ泥炭である。(PostのSkalaではH-5、即ち適度に腐植化し、Dyを含有sる。植物組織はまだ見られる。握ると泥炭物質と非常に濁った水が出る。残滓は著しく粥状を呈する。)」

カ gray Clay

「370cm以下は灰色の粘土である。丸木舟は灰色粘土上にあった。ハスの実は確実にその位置をきめる事は出来ないが、ハスはヨシ等と共存しないという事から粘土層中にあったものと考えられるが、他所から流れよったものであるとすれば泥炭層の中でもよいわけである。しかしいづれにも泥炭層の下部である事には誤りはない。1.5mの検土杖によってたしかめられた所によるとこの左側支谷の中は谷頭にいたるまで泥炭及び黒泥土でうめられている。」

 以上の記述から、丸木舟及びハス実は、谷津の奥深くまで入った縄文海進の海が海退に転じていく時代において、海水が淡水に替わったころで、泥炭形成が開始するまさにその時に埋積したことが判ります。あるいは、海水が淡水に替わり、谷津の上流側から泥炭形成(ヨシ原)が迫ってきた頃埋積したということだと思います。

 この論文で丸木舟・大賀ハスの出土層位と堆積環境がきれいに理解できました。

なお、この記事の本題とはすこしずれますが、3.11を体験した後ですから、泥炭層中2箇所のdrifting timbersが気になります。

 この論文の中では次のように検討しています。

「支谷では二回にわたって著しく流木の多い時期がみられ、この間にやや異質の泥炭を見るのは水面変化によるものと推定される。即ち流木を含む部分では他の部分より幾分水位が上がり、季節風等によってこの支谷の中にふきだめられたものとみられる。しかし、この水面変動が潮の干満によるもので、これが二回あるのはたまたま、発掘地点でのみ見られる局部的現象なのか、或いは干満による水面変動より高次の変動によっておこされたものであるか不明である。」

 3.11津波の巨大エネルギーを映像でまざまざと見せつけられると、2箇所のdrifting timbersが過去の津波痕跡かもしれないと気になります。



大賀ハス

5-3 シードバンク、古代木製品遺物バンクとしての沖積層

 縄文丸木舟と大賀ハスについて、出土物を閲覧し、発掘に関わった人々が書いた資料を読み、現場を歩くなどして、次のような感想を持ちました。

ア 花見川流域谷津の沖積層が、縄文時代以降の植物種子を休眠状態で保存しているシードバンクであるということ。

イ 谷津沖積層は、同時に古代人が使った舟などの木製品遺物バンクでもあるということ。

ウ どのような場所に休眠状態の植物種子や丸木舟がありそうか、昭和20年代の調査で肝心な情報が得られたこと。(海退時に形成された砂堆背後の「自然のミナト」環境+泥炭・地下水による種子や遺物の保存環境など)

エ しかし、縄文丸木舟と大賀ハスの全国や世界に伝えられた華々しい成果にも関わらず、花見川流域や近隣流域で、谷津沖積層を対象とした追加調査、追試が行われたという情報に接することが出来なかったこと。

オ 終戦直後の昭和20年代と現代を較べれば、地層の調査技術や試掘・発掘技術の進歩は格段のものがあると考えられること。

 以上のような感想は次のような夢想を発生させました。

カ 大賀博士の行った発掘・実験の追試を、専門家の指導・協力を得ながら、市民・行政・企業等が参加するイベント(プロジェクト)として実施できれば、いろいろな効果があるに違いない。

・まず地域の自然史や古代歴史を事前に十分に調査する必要があることから、地域の特色や魅力を深く知ることができる。

・発掘や発芽実験追試はそれ自体学術的意義が大きい。

・偶然の僥倖があれば木製品遺物を発見できるかもしれない。

・市民参加プロジェクトとして実施することにより、市民・行政・企業・専門家などのコミュニケーションを深めることができる。

・地域の学校教育の一環として取り組めるし、活動自体をさまざまな形で教材化できる。

・花見川流域や近傍流域の堆積環境の類似する場所でプロジェクトを実施する。(発掘検討地域、場所を選定すること自体が取り組みの重要な活動となる。)


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次のサイトでシリーズ記事「花見川よもやま話」を集成して掲載しています。

花見川よもやま話



2023年4月16日日曜日

大賀ハスと丸木舟 その3

 花見川よもやま話 第18話


Ohga lotus and dugout canoe Part 3


I observed a Jomon dugout canoe excavated in Kemigawa, Chiba City, in the storage room of the Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum. As a reference, I visited the restored Jomon dugout canoe excavated in Hoshina, Yachiyo City, at the Yachiyo Municipal Folk Museum. I deepened my learning of the dugout canoe by comparing the two.


千葉市検見川で出土した縄文丸木舟を江戸東京たてもの園の収蔵庫で観察させていただきました。また参考として八千代市保品で出土した縄文丸木舟復元品を八千代市立郷土博物館で観覧、現物写真を早稲田大学考古学研究室から提供していただきました。双方を比較して丸木舟学習を深めました。


検見川出土丸木舟(江戸東京たてもの園所蔵)

 正面からの撮影

4 出土した丸木舟の特徴

4-1 最初に出土した丸木舟現物の閲覧

 次の出土経緯のある出土丸木舟現物の閲覧機会を江戸東京たてもの園で得ました。

「昭和22年(1947)7月28日千葉市畑町1501、旧東京大学運動場予定地であり、当時東京都の所有に帰し、作業中であった東京都林産組合草炭採掘場に於いて長さ6m20、幅43cm、材カヤなる鰹節形丸木舟(第46号)が発見せられ、頗る学界の注目を惹いた。」「第46号の舟は、今日井の頭公園の武蔵野文化博物館に、…蔵せられてをる。」(「上代独木舟の考察」〔松本信広、1952、『加茂遺跡』《三田史学会》収録論文〕)

 現物を見せていただいて、次のような感想を持ちました。

1 思っていた以上に原形を保っているという第一印象を持ちました。原形を保っているので、専門知識のない私でも利用状況を想像でき、それが眼に浮かんでくるようなインパクトを受けました。花見川や縄文時代に対する興味が高まります。

2 材質や年輪、節などがよくわかります。手で触れることはしませんでしたが、叩けば今ある木製品と同じ音がするであろうと感じました。保存処理はされているとこのことでした。

丸太断面の2/3を使ってつくっているような印象です。

なお、船首、船尾部分を除いて、丸太を完全に刳りぬいて作成されています。

追って報告する八千代市立郷土博物館に収蔵されている印旛沼(香取の海)保品出土縄文丸木舟では、横梁部4箇所を刳り残し、舟に強度を増す工夫がされています。


検見川出土丸木舟(江戸東京たてもの園所蔵)

 船尾から撮影

3 舳先の外側(水押部)がとても滑らかに削ってあります。同時に削った刃の跡が一つ一つ残っています。この部分を滑らかにすることは、波を切るために必要であり、舟の航行能力向上に必要であったに違いありません。石器の道具でこのように滑らかに削る技術があったことに感心しました。石器といっても鋭利な刃物であることを実感しました。

 節のある部分では刳りを少なく調整して(舟側部の厚さを大きく瘤状に残して)、節部分から舟が壊れないように工夫してあります。

 船尾部分は刳り残しを作って、舟の強度を維持しようとしています。

 もっと詳細に観察すれば舟を作るときの様々な工夫(技術)を読み取ることができそうです。


検見川出土丸木舟(江戸東京たてもの園所蔵)

 舳先下部から撮影


検見川出土丸木舟(江戸東京たてもの園所蔵)

 船尾部分内側から撮影

4 アウトリガーや帆を立てるために使われたかもしれない凸部や凹部を探してみましたがありませんでした。

カヌーを利用したことが無いので、体で発言できないのですが、感覚的に想像すると、この6.2mの丸木舟は2人以上で利用したと考えました。現代人がだれでも自転車に乗れるように、縄文人はだれでも丸木舟操船が(高度に)できたに違いありません。転覆するようなことは少なかったと思います。同時に操船技術では対応できない状況に対処することが必ず必要ですから、構造上の仕掛けを必要としないアウトリガーや浮きを装備していたかもしれないと想像しました。他書によれば、帆は後代に登場したと書いてあります。

5 終戦直後の昭和22年に、これだけ大きい遺物をよくも壊さないで東京まで運んだという当時の熱意と運搬技術にも感心しました。

現物資料の閲覧を許可していただいた江戸東京たてもの園に感謝します。

また検見川出土丸木舟が江戸東京たてもの園に所蔵されている情報を教えていただいた千葉市立郷土博物館にお礼申しあげます。



八千代市保品出土縄文丸木舟(複製・復元品)

八千代市立郷土博物館所蔵

4-2 印旛沼(香取の海)出土丸木舟の閲覧

 八千代市立郷土博物館に八千代市保品(印旛沼流域)で出土した縄文丸木舟の複製・復元品が展示されており閲覧できました。出土の経緯や複製・復元作業についてまとめた資料もいただくことができました。また、ご好意により現物資料の写真を提供していただきました。

 これらの資料引用等により印旛沼出土丸木舟についてア~ウに紹介し、エで印旛沼出土丸木舟と検見川出土丸木舟を対照し、オで私の感想を述べてみます。

ア 出土経緯

 昭和25年(1950)11月に印旛沼干拓工事の排水路掘削現場で丸木舟が発見されました。千葉県教育委員会は早稲田大学考古学研究室に調査を依頼し発掘調査を実施しました。

 丸木舟は地表面から1.6m下の泥炭層から出土し、周辺の泥炭層から縄文土器が出土しました。土器の時期が縄文時代晩期(約3000年前)であったことから、丸木舟も同時代のものと判断されました。


八千代市保品出土丸木舟現物資料(早稲田大学考古学研究室提供)

船首から船尾方向の写真

イ 丸木舟の形状と構造

 丸木舟の材質はカヤで、残存する部分の長さは6.54mありました。船底4箇所に刳り残しの形で横梁があり、船体の強化を図っていることから、単純な刳り舟から技術的に一歩進んだ形態を示しています。


八千代市保品出土丸木舟現物資料(早稲田大学考古学研究室提供)

船首部分


八千代市保品出土丸木舟現物資料(早稲田大学考古学研究室提供)

船尾部分

ウ 複製・復元作業

 次の作業を資料上部側と下部側に分けて行います。

 表面の剥落を防ぐために樹脂の吹き付けを3回繰り返し、その上に厚さ3ミクロンの錫箔を貼り、その上からシリコンを塗ります。シリコンが乾燥した後に、それが変形しないように樹脂で厚く固め、資料からシリコンと樹脂をはがします。

 二つの型を組み合わせて、その隙間に合成樹脂を流し込み、複製をつくります。復元部分は丸木舟の正確な実測図から再現します。(平成14年度第1回企画展資料による)


八千代市保品出土縄文丸木舟(複製・復元品)

八千代市立郷土博物館所蔵

エ 八千代市保品出土丸木舟と検見川出土丸木舟の対照


出土場所

●出土層位

 両方の丸木舟はともに泥炭層の下部から出土していて、縄文海進の海が退いてその場所が海から低湿地に変化するその時に埋没遺物化したものと考えられます。

●出土場所の地形

 八千代市保品の出土地点は海の幅が800~1000mに狭まる場所で、そこに突き出た半島の背後の位置にあたります。舟の停泊場所としては格好の場所です。この場所に現在「須賀」という地名が残されていますが、これは「『州処(すか)か』川や海の水などで堆積した砂地。川海にのぞむ砂地や砂丘」(国語大辞典、小学館)であり、その背後に丸木舟が出土した入江的な環境があったことを現代にまで伝えています。

 検見川の出土地点は古検見川湾につながる小さな谷津が形成する入り江です。この入江の古検見川湾側には埋没した砂堆が確認されており(中野尊正著「日本の平野」)、舟の停泊場所として格好の場所です。

 丸木舟の出土地点の地形的特性は八千代市保品と検見川は砂洲(砂堆)の背後の「自然の港湾」に当たる部分であるという点で、瓜二つです。

●出土場所付近の遺跡

 舟を利用した縄文人の遺跡が双方の出土地点のすぐそばにあります。(将来、舟の出土と縄文遺跡における生活活動復元が、有機的に結合されて検討されれば面白いと思います。)

●年代

 八千代市保品出土の丸木舟は縄文晩期、検見川出土の丸木舟は縄文後期から晩期に比定されています。八千代市保品出土丸木舟の方が新しい時代です。

●舟の材質、形

 材質はともにカヤです。

 形をみると、造船技術上八千代市保品出土丸木舟が勝っており(横梁を刳り残して船体の強化を図っている)、年代の比定と合致しています。

 大きさは共に6m超で、八千代市保品出土丸木舟(複製・復元)の方が0.5mほど大きいようです。

 ただし、私個人の感覚では八千代市保品出土丸木舟の方がはるかに大きいように感じました。置かれている空間や照明等の状況で感覚は変化すると思いますが、そういう条件より、複製・復元した物と完形に近い形で出土したといっても物として激しく風化的損耗状況下にある物では、比較してしまえば存在感が全然違うということだと思います。複製・復元した物の存在感は強く、大きく感じると思います。


丸木舟の形

左は八千代市保品出土丸木舟(複製・復元)右は検見川出土丸木舟

オ 感想

・八千代市保品と検見川の丸木舟出土地点の間の直線距離は約13キロです。縄文時代には中間の5キロほどは陸路の回廊(河川争奪現象による谷津の連続)になりますが、香取の海と東京湾を結ぶ唯一の水上移動幹線ルートがここ花見川に存在していたと考えます。

・たった13キロですから八千代市保品の縄文人と検見川の縄文人は密な交流があったに違いありません。

・八千代市保品の縄文人は香取の海全域の縄文人と交流して、自然の幸(物)や情報を検見川縄文人に届けたに違いありません。

・検見川縄文人は東京湾全域の縄文人と交流して、自然の幸(物)や情報を八千代市保品の縄文人に届けたに違いありません。

・そうして香取の海全域の縄文人と東京湾全域の縄文人が自然の幸と人々の知恵を共有していたと思います。

・検見川と八千代市保品で縄文丸木舟が出土したことを、単なるバラバラの出来事として捉えるのではなく、「香取の海と東京湾交流」の双方の拠点港湾基地が見つかったと捉えたいと思います。

資料を提供していただき写真撮影や掲載に許可をいただいた八千代市立郷土博物館に感謝します。

現物資料写真を提供していただいた早稲田大学考古学研究室に感謝します。



丸木舟及び櫂出土地点と樹種

 山内文「発掘丸木舟及び櫂の用材について(続報)」(資源科学研究所彙報33、1954)

4-3 出土丸木舟の材質

 検見川出土丸木舟も八千代市保品出土丸木舟も材質はカヤ(榧)です。

 カヤ(榧)は次のように説明されています。

「暖地の森林中に散生するイチイ科の常緑針葉樹。社寺の境内などにしばしば高木を見る。高さ25mにもなる高木で、小枝は対生する。…材は黄白色で、辺・心材の区別が不明瞭であり、加工性・保存性が高く水湿にも耐えるので、建築・器具・土木用に供せられるが、とくに大径木の柾目材は碁盤として最高級品であり、…」(世界大百科事典、平凡社)

「木理(きめ)は細密(こまやか)で文采(もよう)があり、芬香(よいかおり)がする。これで碁盤をつくる。また土や水に埋めても朽ちないので浴室の材にすることができる。」(和漢三才図会、平凡社)

「…しばしば大木をみる。カヤは水湿に強く、現在でも小型の和船には良材として使用されている。」(山内文、「発掘丸木舟及び櫂の用材に就いて」、人類学雑誌昭和25年-Ⅰ)

 カヤは加工しやすく、水に浮かべても腐らない特性があるようです。

 また、1954年までの出土例の調査ですが、上図に示したように、関東地方の出土丸木舟は下総地方は殆んどがカヤになっています。

「関東平野中央低地、すなわち小貝川、鬼怒川および荒川下流冲積低地はアカマツ及びアカマツ又はクロマツ(恐らくアカマツ)がその主位を占め、下総台地に望む九十九里北部の海岸平野から検見川に至る間の下総台地間においてはカヤがその大部分を占めていることは注目すべきことであろう。」

(山内文「発掘丸木舟及び櫂の用材について(続報)」〔資源科学研究所彙報33、1954〕)


山内文の上記論文掲載リストの一部

 八千代市保品とその近隣、検見川に関連する丸木舟のリストを抽出しました。このリストで八千代市保品の隣字の神野でも丸木舟出土があったことが確認できます。


つづく

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ブログ「花見川流域を歩く」ではシリーズ記事「縄文丸木舟と大賀ハス」を2011年8月に12回にわたって掲載しました。花見川よもやま話ではこの過去連載記事をそのまま集成して4記事に分割して掲載します。なお、過去記事における不鮮明な画像は調整して判りやすく編集あるいは再作成しました。


2023年4月15日土曜日

大賀ハスと丸木舟 その2

 花見川よもやま話 第17話


Ohga lotus and dugout canoe Part 2


Although it was difficult, I was able to grasp the location information of the dugout canoe excavated at the Ochiai site in Chiba City, which was excavated immediately after the end of the war. On the other hand, I had the impression that the information on the excavated location of Ohga lotus that has been handed down to the present is inaccurate.


昭和20年代前半に発掘された千葉市落合遺跡の丸木舟出土位置情報は、苦労しましたが把握出来ました。一方現在に伝わる大賀ハス出土位置情報は不正確であるという感想を持ちました。

3 丸木舟の出土地点及び周辺の地形

3-1 丸木舟の出土地点

 丸木舟の正確な出土地点情報を見つけることが出来ていません。

 そこで既存資料情報をGIS上にプロットして正確な位置を絞り込めないか検討してみました。

 私がみつけた出土地点関連情報が掲載されている地図は次の4点です。

1 「千葉市史史料編1原始古代中世」(千葉市発行)98ページの「落合遺跡の周辺地形図」


「千葉市史史料編1原始古代中世」掲載地図

落合遺跡が直径100m程度の円で示されています。

2 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)738ページの「遺跡の位置(1/25000 千葉西部)


「千葉県の歴史資料編考古1」掲載地図

1の黒丸が落合遺跡です。この黒丸は次の千葉県埋蔵文化財分布地図の情報をポイント表示したものです。

3 「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)-千葉市・市原市・長生地区(改訂版)-」(千葉県教育委員会発行)の「NO.40千葉西部」図幅(落合遺跡〔102〕の括り線)


「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(改訂版)」

102番が落合遺跡です。

4 「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」(中野尊正、地理調査所時報第3集、1948年)収録の地形分類図


「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」

丸木舟出土地点と銘打った情報で入手できたのはこの資料だけです。(中野尊正著「日本の平野」〔古今書院〕にもこの情報を編集したものが掲載されています。)

 地形分類図に「独木舟出土地点」として×点が2箇所掲載されています。(丸木舟は昭和22年7月と昭和23年1月の2回にわたって出土しています。)×点の位置が浪花川の本川筋谷津の谷底ではなく、それに流入する谷津の尾根末端を結ぶ線上に位置しています。この資料の著者は丸木舟発掘調査に参加している地形学者ですから、出土地点の位置と地形との関係の特徴は、この地形分類図が小縮尺であるにも関わらず、正確に捉えて表現しているものといえます。

 なお、大賀ハスについて、「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)に大賀ハス発掘位置の精度の高い地図が掲載されています。この資料の文章中に「前年丸木舟の発掘されし場所を掘り始めたけれど作業困難のため、発掘場所を55m奥にうつす」との記述があります。この記述から逆に丸木舟出土場所の推定が可能かもしれませんから、検討材料にこの情報も加えます。

5 「大賀ハス」(千葉市立郷土資料館発行)の大賀ハス発掘位置


「大賀ハス」掲載地図

上記5つの情報をGISに落とすと次のようになります。


落合遺跡位置の資料比較(現代地図)

 この地域は丸木舟、大賀ハス発掘後大規模な地形改変が行われ、谷筋の概形は辛くも残っていますが、谷津地形の詳細は全て失われてしまいました。従って、現代の地図から資料比較することは困難です。そこで、この情報を旧版地形図をベースに見てみます。


落合遺跡位置の資料比較(旧版1万分の1地形図「検見川」)

 この資料比較分布図(旧版地形図ベース)から次のような感想を持ちました。

1 埋蔵文化財地図(「千葉県埋蔵文化財分布地図(3)(改訂版)」)と千葉県資料(「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」)に示される落合遺跡位置は浪花川本川筋の谷津谷底を指しており、正確性に欠けると考えられます。近くに「大賀ハスの碑」があるためそれに曳かれるなどして、「だいたいこの近く」という情報を提供したものと考えます。

2中野尊正資料(「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」)と千葉市資料(「千葉市史史料編1原始古代中世」)は真の出土地点の近くを示すものと考えます。

3大賀ハス発掘地点(「大賀ハス」掲載)は、「舟出土地点から55m離れた場所」が正しいなら、不正確だと思います。旧版地形図にプロットすると谷津の奥になりすぎるし、地形上、低地と尾根の境目附近になります。私の想像ですが、大規模地形改変が行われ、谷の幅が2倍以上になったときの現地や地図を参考にして、発掘当時の印象を後年にプロットした資料のように考えます。もちろんこの資料は大賀博士が作成したものではありません。

この資料を最初に見たとき、丸木舟出土地点特定の切り札になるのではないかと密かに期待に胸を膨らましたのですが、そうはなりませんでした。


3-2 丸木舟出土地点の現状


前報で推定した丸木舟出土地点の現状写真を掲載します。東京大学検見川総合運動場のホッケー場付近が丸木舟出土地点です。推定位置を写真に赤楕円で示しました。

この附近の谷津・台地地形は1953年(昭和28年)から東大ゴルフ場(24ホール)造成のために大規模に改変されました。1962年(昭和37年)から運動場として再整備されました。


3-3 丸木舟出土地点周辺の地形変遷

 中野尊正著「日本の平野」(古今書院発行、昭和30年)には丸木舟、大賀ハスの遺物出土点の位置を明らかにするために行ったボーリング、電探調査、井戸屋からの聴込調査等による結果が詳細に報告されています。以下主要点を紹介します。

ア 泥炭地の厚さ

電探調査等により作成した泥炭地の厚さの等高線が示されています。


検見川低地の泥炭層の厚さ(中野尊正著「日本の平野」)

 この調査から丸木舟と大賀ハスが出土した場所は支谷の出口付近の泥炭層が最も深い場所であり、その前面(花見川側)には埋没している砂州(砂堆)が見つかりました。

イ 地形の変遷

 3枚の地図を掲載して、調査結果を次のように説明しています。


検見川低地の地形発達A初期(中野尊正著「日本の平野」)


検見川低地の地形発達B中期(中野尊正著「日本の平野」)


検見川低地の地形発達C末期(中野尊正著「日本の平野」)

「この谷の地形発達史は次のように考えられよう。冲積世のある時期に海進があって、検見川の谷には広く入江が形成された。台地を刻む小谷の出口には、比高1~2mの砂堆の形成されたところもあったが、東京湾に面した谷の出口には、もっと大きな砂州が発達しはじめた。海の後退にともなって、出口を砂堆でふさがれた谷奥部にはいち早く泥炭の形成をみた。時代が下がるにしたがって、泥炭はその厚さを増大したが、その泥炭堆積の初期に丸木舟と蓮実とを埋積した。ついでもっとも大きい砂洲もそのすがたを海面上にあらわすようになった。」

 丸木舟や大賀ハスに関する地学的な考察はこの書(中野尊正著「日本の平野」)掲載情報が一番詳しいのではないかと思います。


つづく

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ブログ「花見川流域を歩く」ではシリーズ記事「縄文丸木舟と大賀ハス」を2011年8月に12回にわたって掲載しました。花見川よもやま話ではこの過去連載記事をそのまま集成して4記事に分割して掲載します。なお、過去記事における不鮮明な画像は調整して判りやすく編集あるいは再作成しました。


2023年4月14日金曜日

大賀ハスと丸木舟 その1

 花見川よもやま話 第16話


Ohga lotus and dugout canoe Part 1


Ohga lotus and Jomon dugout canoes were excavated from the valley bottom of the cove topography near the mouth of the Hanami River in the 1940s.

And the sprouting of Ohga lotus has provided people with a strong interest in ancient times.

In August 2011, the blog "Walking in the Hanami River Basin" published 12 articles on "Jomon dugout canoe and Ohga lotus". I have compiled and republished the past articles.


大賀ハスと縄文丸木舟は花見川河口付近入江地形の谷底から昭和20年代に出土して、大賀ハスの発芽により人々に古代に対する強い興味を提供してきています。ブログ「花見川流域を歩く」ではシリーズ記事「縄文丸木舟と大賀ハス」を2011年8月に12回にわたって掲載しました。花見川よもやま話ではこの過去連載記事をそのまま集成して4記事に分割して掲載します。なお、過去記事における不鮮明な画像は調整して判りやすく編集あるいは再作成しました。


花見川旧河口付近

 迅速図「千葉県下総国千葉郡畑村」図幅と「千葉県下総国千葉郡馬加村」図幅を機械的に集成したものです。いずれも明治15年測量。


丸木舟出土地点(×印2箇所)が掲載されている資料

 「千葉県検見川独木舟遺跡地附近の地形」(中野尊正、地理調査所時報第3集、1948年)収録の地形分類図。これより精度の高い丸木舟出土地点情報は見つけることは出来ませんでした。

1 はじめに

 現在東大総合運動場になっている花見川区朝日ヶ丘町の浪花川谷底から縄文丸木舟と大賀ハスが終戦直後の昭和20年代に出土しました。

 花見川流域散歩人としては大変興味のあることです。

 以前からその情報は知っていましたが、詳しく調べることが無かったので、このたび少し気張って調べてみました。

ア まず、江戸東京たてもの園にて検見川出土現物資料を閲覧させていただき、丸木舟を体感してみました。

イ その際教えていただいた論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)を参考とし、さらにその参考文献を手がかりにしてめぼしい資料を見てみました。

検見川の丸木舟については、出土が昭和20年代前半であるため、現在の遺跡調査のようなまとまり整理された調査報告書はないようです。

ウ しかし、以前から所持していた書籍(「日本の平野-沖積平野の研究-」(中野尊正、古今書院、昭和31年)に、著者が遺物出土に立ち会って堆積環境や地形について調査した結果が詳しく掲載されていることに気がつきました。

エ さらに、八千代市立郷土博物館にて印旛沼出土丸木舟(複製物)を閲覧させていただき、現物資料の写真を借用させていただきました。東京湾だけでなく、花見川(河川争奪地形)を利用した古代回廊でつながる印旛沼(香取の海)の情報も合わせて考えることにより、発想の幅が広がります。

オ 大賀ハスについては、7月4日に千葉公園で開花最盛期の姿を観察体験しました。

カ また、大賀ハス情報を体系的に整理取りまとめた書籍「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)を読みました。

このようにして得た情報を、私の興味に沿って順次紹介します。


2 丸木舟の出土経緯

 検見川出土丸木舟についてもっとも詳しいと感じた資料は「上代独木舟の考察」(松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文)(以下松本論文とします)です。

 この論文を引用・参考にしながら、丸木舟の出土と調査経緯をかいつまんでまとめてみます。

 なお、江戸東京たてもの園で検見川出土丸木舟現物を閲覧させていただいた際、論文「縄文丸木舟覚え書-房総の諸事例から-」(高橋統一、アジア文化研究所研究年報39、2004年)(以下高橋論文とします)の存在を教えていただきました。この論文には検見川出土丸木舟の出土調査経緯の外、その後の調査体制等について、関係者ヒアリングを加えて詳しく解説されています。

2-1 丸木舟の出土

「昭和22年(1947)7月28日千葉市畑町1501、旧東京大学運動場予定地であり、当時東京都の所有に帰し、作業中であった東京都林産組合草炭採掘場に於いて長さ6m20、幅43cm、材カヤなる鰹節形丸木舟(第46号)が発見せられ、頗る学界の注目を惹いた。

 また今一つの独木舟(第47号)の一部を附近の表土以下約3m20の地点に於いて発見したので越えて昭和23年(1948)1月25日慶大考古学教室、東洋大学考古学会、日本考古学研究所の共同調査、畑青年団の奉仕協力により、之を発掘し得た。此舟は長さ5m80、幅48cm、深さ44cmであり、舟の先端に小突起あり、此点に従来の刳舟に見えない特色を示してをる。

 またこの舟と相並んだ前二者よりやゝ大型の独木舟(第48号)の破片、長さ3m48、幅52cmを発見した。材は、三隻ともカヤで出来ている。」(松本論文)(引用に際して、読みやすくするために段落余白を加えました)

 高橋論文では日本考古学研究所の詳しい説明や慶大や東洋大学の調査体制についてヒアリングをもとにまとめています。昭和20年代の考古学分野のイキイキとした状況が専門外の私にも伝わってきて、引き込まれます。

2-2 丸木舟の収蔵先

「第46号の舟は、今日井の頭公園の武蔵野文化博物館に、第47号の舟は(図版第20.1)慶大考古学教室に、第48号の舟は東洋大学に蔵せられてをる。」(松本論文)

松本論文図版第20.1 (千葉市畑町 Hatamachi,Chiba City)


慶大考古学教室に収蔵された第47号の舟

 高橋論文では調査団の組織化や調査費の裏づけが明確でなかったことが出土物の収蔵先に反映していること、なぜ武蔵野文化博物館になったのかその理由・背景について資金や日本考古学研究所内の問題を含めて解説されています。

 普通知ることが出来ない生々しい情報が含まれていて、また私自身も疑問に思っていたことの答えの一つがそこにあり、興味津々に高橋論文を読みました。

 武蔵野文化博物館に収蔵された丸木舟(最初の出土した丸木舟)は、現在後継組織である江戸東京たてもの園(東京都小金井市)が所蔵しています。


2-3 丸木舟の年代

 松本論文(「上代独木舟の考察」〔松本信広、1952、「加茂遺跡」〔三田史学会〕収録論文〕)では出土した丸木舟について次のような議論を行っています。

「此三隻の刳舟以来問題となったのは、その年代鑑定である。舟の出土に伴出した考古学的遺物は、全然なく、たゞ3mも堆積する泥炭層の上部から完全な土師の壺を出してをる。附近の地表からは土師器の破片を拾ふことが出来、また舟を出土した谷の源頭に近く土師器時代の小貝塚が発見せられ、また所々に弥生式土器の破片を拾ふことが出来るが、縄文式土器の破片は、何処にも発見出来ず、結局遺蹟地より20町以上も離れた犢橋(コテハシ)の貝塚まで行かなければ縄文文化遺蹟に接し得ない。然しこの附近表面に見出される文化遺物を以って深層出土の文化遺物の年代を判定するのは頗る危険である。後述する加茂の遺蹟の如き地下に豊富な前期より中期にかけての石器時代泥炭遺物を包蔵しつゝも地表には何等その痕跡を示してゐなかったのである。

 また丸木舟及び櫂の刳り方に対しても両様の見解が対立した(図版第21.6・8、第15図)。その如何にも稚拙な凸凹ある、所々に焼痕ある削り方は、その製作の石器によることを推察せしむるが、他の論者はこのつくりをもって金属器によらざれば不可能なりと云ふ意見を表白されたのである。

 地質、地形上より本遺蹟を考察された地理調査所の中野尊正氏は、本泥炭層の生成した年代を今日の幕張附近の砂地が陸地となる以前であるとし、独木舟は泥炭層の下底に近い所から出土してをるので泥炭形成の中期までに年代を比定し得るとし、独木舟の年代は、砂地形成年代よりも遡り得るとて、検見川の谷が、犢橋の石器時代遺蹟の近くまで進入してゐる所から独木舟埋没の年代も或いはその辺の年代にもってゆくことが出来るのではないか、その頃台地の上では腐植層が生成してゐたが、その後海岸に接する崖の所から舞ひ上げられて来た砂が台地の上に砂丘を堆積する様になった。独木舟及び台地上の遺蹟とをこの腐植層、砂丘との前後関係に於て追求することによって更に時代関係が明瞭になるのではないかと論ぜられた。

 かく丸木舟の年代は、地理学的に見れば砂丘の生成した歴史時代にひきさげ得ぬものであるが、文化科学的には、之を石器時代と見るか、歴史時代初期と見るかの二説が対峙し、此問題は結局丸木舟と伴出する考古学的遺物によらなければ解決されぬ破目にあった。かくて検見川の谷から発見せられた刳舟の年代を比定する為に、他所に考古学的遺物を伴う丸木舟の発見に必要が感ぜられたのである。」(松本論文)(引用に際して読みやすくするために段落余白を加えました)


松本論文図版第21.6・8

 櫂の彫刻部分の写真です。実用的道具に美的意識を投影していた縄文人の気持ちが伝わってきます。


松本論文第15図

 櫂の実測図です。

 その後、加茂遺跡で「縄文前期の諸磯式土器」と同種の土器片が伴出する丸木舟が、八日市場で刳り残しの横梁が4箇所ある丸木舟と櫂が出で近くの同じ層位から「縄文末期(晩期)の安行式土器」の大きな破片がみつかりました。櫂の彫刻は検見川出土の櫂の彫刻と類似しているとのことです。八日市場の丸木舟は検見川出土の丸木舟と較べて構造上の複雑さ(横梁がある)と全体に華奢であることから検見川出土丸木舟より後のものと考えられました。

 結果として、検見川出土の丸木舟は縄文前期の加茂遺跡のものより後で、縄文末期(晩期)の八日市場出土のものよりも前ということになりました。

2-4 c14年代測定

 昭和28年に大賀博士が大賀ハスの年代を調べるために、大賀ハスと同層位から出土した丸木舟のうち東洋大学所蔵資料と武蔵野郷土博物館所蔵資料から木片を切り取り、c14年代測定しました。結果は平均すると1125年前後180年BCとなり、3075年前、前後180年(縄文後期から晩期)という結果になりました。(「大賀ハス」〔千葉市立郷土博物館発行〕による)


「大賀ハス」(千葉市立郷土博物館発行)17ページ掲載写真


つづく


2022年8月13日土曜日

サンダル状土製品の新解釈

 A new interpretation of earthenware like sandal


I saw a picture of a ship-shaped clay product posted by Moyoro-kun (unofficial) on Twitter. As a result, a new interpretation (dugout canoe) emerged of sandal-like earthenware whose meaning had been unclear for a long time. I'll make a note of it for reference. I would like to thank Moyoro-kun (unofficial) for allowing me to publish the photos of the ship-shaped clay product.


Twitterでモヨロくん(非公式)さんが掲載した船形土製品の写真をみて、長い間その意味が釈然としなかったサンダル状土製品の新解釈(丸木舟)が浮かび上がりました。参考までにメモします。船形土製品写真掲載を承諾していただいたモヨロくん(非公式)さんに感謝します。

1 サンダル状土製品の3Dモデル

サンダル状土製品(千葉市内野第1遺跡)正置 観察記録3Dモデル

縄文時代後期~晩期前半、長口径5.8㎝、短口径3.8㎝、端部に円孔1ヶ所 

撮影場所:千葉市埋蔵文化財調査センター 

撮影月日:2020.09.11 

許可:千葉市教育委員会の許可による撮影 

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v5.007 processing 93 images


サンダル状土製品撮影風景


サンダル状土製品実測図

千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書から引用


3Dモデルの動画

2 サンダル状土製品の私の解釈経緯

2-1 皮革製品としてのサンダルのミニチュア

縄文時代の皮なめしについて考えていた頃、サンダル状土製品は皮革製品(サンダル)のミニチュアだと考えました。

2020.08.14記事「サンダル状土製品の巨大意義に突然気がつく」など多数

土製品先端に開いている小孔は鼻緒を通す孔であると考えました。縄文時代の皮革製品は残っていませんが、その製品イメージが土製品として残っているならば、とても興味深いことです。

2-2 容器のミニチュア

その後、サンダル状土製品3Dモデルを許可を得て作成して、じっくり観察しました。その結果、この土製品はサンダルではなく、容器を表現していると考えを変更しました。注口付き片口であると考えました。

2020.09.26記事「サンダル状土製品を容器として見立てる」など多数

3 モヨロくん(非公式)さんがTwitterに公開した船形土製品

最近Twitterでモヨロくん(非公式)さんが船形土製品画像を公開しました。


網走市立郷土博物館分館「モヨロ貝塚館」に展示されている船形土製品

Twitterモヨロくん(非公式)さん提供

この画像を見て、2年前に熱中したサンダル状土製品がサンダルや容器のミニチュアではなく、丸木舟のミニチュアであると直観しました。この直観はいつもの毎日生まれる無数の妄想・空想・想像とは明らかに違うレベルの確信的雰囲気を伴うものでした。この直観が結果として正か非かは別として、自分として確かめる学習価値があることは動かしがたいものでした。

なお、Twitterモヨロくん(非公式)さんから次の実測図画像も提供していただきました。


船形土製品の実測図

Twitterモヨロくん(非公式)さん提供

モヨロ貝塚の人々と千葉縄文後晩期の人々は生活した空間、文化、時期が異なり、直接比較することは困難です。しかし、そうした直接比較ではなく、舟を土製品として残したという一致点があるかもしれないという直観を大事にして、この直観をキッカケにしてサンダル状土製品が丸木舟のミニチュアであるという新解釈を検討してみました。

4 サンダル状土製品の新解釈

4-1 縄文丸木舟に一般的に見られる刳り残し横梁

縄文丸木舟には一般的に刳り残し横張が存在しているようです。これまで観察して記録を探せたもののうち次の2点に刳り残し横張が存在します。

4-1-1 八千代市保品出土丸木舟

八千代市保品出土丸木舟には船首と船尾双方付近に刳り残し横張が各2つあります。


八千代市保品出土丸木舟

早稲田大学考古学研究室提供


八千代市保品出土丸木舟

早稲田大学考古学研究室提供


八千代市保品出土丸木舟

早稲田大学考古学研究室提供

復元物では次のように表現されています。


八千代市立郷土博物館 縄文丸木舟展示の様子


八千代市立郷土博物館縄文丸木舟展示の様子

4-1-3 匝瑳市米倉大境出土丸木舟

縄文晩期丸木舟(複製)展示状況3Dモデル 

匝瑳市米倉大境出土、長さ347㎝、幅42㎝ 

落合遺跡説明パネルとその補助物としての縄文晩期丸木舟(複製)展示 

撮影場所:加曽利貝塚博物館 

撮影月日:2020.06.02 

3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 144 images


3Dモデルの動画

匝瑳市米倉大境出土丸木舟にも刳り残し横梁が船首(展示右側?)と船尾(展示左側?)2個所にあります。

そしてそれだけでなく、船首の横梁の上にモノを差し込めるような方形の孔を観察できます。船尾横梁の上(内側)にも同様の方形の孔を3Dモデルで見ることができます。これらの孔は横梁の上に棒を設置して船頭が座って視線を一段高くして操船をしやすくしたのだと推察できます。


横梁上のモノを差し込めるような孔

4-2 サンダル状土製品の新解釈

縄文丸木舟には船首と船尾に刳り残し横梁が見られるものが多くあります。そして匝瑳市米倉大境出土丸木舟では刳り残し横梁の上に棒を設置して船頭が座った可能性が濃厚です。このような情報から、サンダル状土製品を縄文丸木舟のミニチュアであると想像的に新解釈します。


新解釈 サンダル状土製品を丸木舟ミニチュアと考える。

5 感想

もしこの土製品が丸木舟のミニチュアであるとしたら、この遺跡とどのように関わるのか、大いなる興味が湧きます。この遺跡は勝田川の沖積地から台地斜面にかけて分布し、丸木舟が使われていた可能性は濃厚です。そうした生活環境との関係だけではなく、この遺跡が土偶出土数395点で、全国的にみても有数なマジカル遺跡であるという、大きな視点からこの丸木舟ミニチュアを考えることも意義があるように考えます。この土製品が丸木舟ミニチュアであるとの感触がもっと強まれば、当時の広域交通手段としての丸木舟と広域祭祀・祈願圏との関係などの中でこの土製品についての思考を深めたいと思います。


2019年7月16日火曜日

荒海式等縄文晩期最後期の遺跡密集地

縄文土器学習 192

2019.07.16記事「姥山式土器、前浦式土器、千網式土器、荒海式土器の分布」で縄文晩期最後期の姥山式土器、前浦式土器、千網式土器、荒海式土器の分布について観察し、その遺跡密集地が多古町や横芝光町など台地と九十九里平野の境付近にあることがわかりました。この記事ではその場所を詳しく確認して、どのような意味を汲み取ることができるか予備的な検討をしてみました。

1 姥山式土器ヒートマップ 遺跡密集域

姥山式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は横芝光町・芝山町・山武市の境界付近です。

姥山式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は栗山川支流高谷川の入り組んだ小さな谷津が集合しているような場所に該当します。

2 前浦式土器ヒートマップ 遺跡密集域

前浦式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は多古的・匝瑳市・横芝光町の境界付近です。

前浦式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域の地形は栗山川と支流の借当川の合流付近で小さな谷津が多数存在している場所です。

3 千網式土器ヒートマップ 遺跡密集域

千網式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は横芝光町・芝山町・山武市の境界付近です。

千網式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は姥山式土器とほぼ同じで、栗山川支流高谷川の入り組んだ小さな谷津が集合しているような場所に該当します。

4 荒海式土器ヒートマップ 遺跡密集域

荒海式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は多古的・匝瑳市・横芝光町の境界付近と横芝光町・芝山町・山武市の境界付近の2箇所です。

荒海式土器ヒートマップ 遺跡密集域
遺跡密集域は姥山式土器、前浦式土器、千網式土器を合わせた2箇所で栗山川支流高谷川の小さな谷津集合と栗山川支流借当川付近の小さな谷津集合域です。

5 遺跡密集域の特性
5-1 丸木舟
栗山川が台地から平野にでる直前の細かい谷津集合域が遺跡密集域となっていますが、この地域に特有な縄文遺物出土があります。それが丸木舟です。
丸木舟の出土はこの縄文晩期最後期土器群の遺跡密集域と見事に重なります。

千葉県丸木舟出土分布
(雷下遺跡出土丸木舟はこのマップにプロットされていません。)

荒海式土器ヒートマップと重ねた丸木舟出土分布
この地域から出土した丸木舟の多くは縄文後晩期頃と推定されています。
晩期最後期土器群と丸木舟が共伴出土している様子を発掘調査報告書等で確認しているわけではありませんが、晩期最後期土器群の時代にこの地域が遺跡密集域であり、かつ丸木舟が生業で多用されていたことに間違いはあり得ません。

5-2 弥生前期遺跡の存在
縄文時代につづき、水稲栽培という食糧生産活動を行う弥生時代が到来します。千葉県ではデータベースに弥生前期遺跡が2件記載されています。その2件が晩期最後期土器群遺跡密集域のすぐそばに位置しています。

荒海土器ヒートマップと弥生時代前期遺跡分布

5-3 考察
晩期最後期土器群遺跡密集域の存在、その場所が千葉県下で特異な丸木舟出土密集域であること、その場所近くに千葉県弥生前期遺跡2件全部が存在すること。これらの3つの分布上の情報をヒントにして縄文晩期から弥生前期の間の状況想像は意義のあることであると考えます。今、有用な作業仮説が生れる素地のある情報に巡り会っていると直観します。予察的に次のメモをしておき、後日検討を深めたいと思います。
・姥山式土器、前浦式土器、千網式土器、荒海式土器を使った人々は細かく解析された谷津を生業の場にしていた可能性がある。
・細かく解析された谷津における生業は丸木舟を有効活用していたと考えられる。
・この場所が千葉県でも最初に水田耕作が行われ弥生文化が導入されている可能性が高い。
・姥山式土器、前浦式土器、千網式土器、荒海式土器を使った人々は水田耕作技術が到来した時、それにすぐ順応できるだけの類似した生業活動をすでに行っていた可能性が考えられる。
・場合によっては姥山式土器、前浦式土器、千網式土器、荒海式土器を使った人々が水田耕作技術をもたらした人々であるという可能性もあるのではないか?

・古い時代の水田開墾は小谷津奥の狭い沖積地で行われたと考えますから、その場所に移動するために丸木舟は必須であったと考えます。
2015.03.31記事「古墳時代と奈良時代の水田開発の違い」参照