古墳時代の水田開発の検討(2015.02.16記事「上ノ台遺跡 米・雑穀栽培」)と奈良時代の水田開発の検討(2015.03.30記事「奈良の都への供米のための水田開発」)が揃いましたので、比較しておきます。
1 古墳時代の水田開発
次の図に古墳時代の遺跡分布(古墳を除く)・水田開発地(想定)例・開発主導地を示しました。
古墳時代の遺跡分布(古墳を除く)・水田開発地(想定)例・開発主導地
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)
この図に示すように古墳時代の水田開発地は谷津の最源頭部で行われたようです。
次の図は近世の資料です。
屋敷村絵図 1687(貞享4)年11月作成の写 (国立国会図書館所蔵)
「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)から引用 追記
この図に書いたように、古代水田は近世の「古田」の範囲以上の拡がりを持っていたと考えることができませんから、古墳時代水田は大変狭小であったと考えられます。
屋敷村絵図に出てくる付近の古代水田開発を主導したのは古墳時代上ノ台遺跡であると考えられますが、上ノ台遺跡からは米を食ったという証拠の検出がきわめて少ないです。これは、当時の水田面積がきわめて狭小であったことと対応しているものと考えます。
古墳時代水田が谷津源頭部の縁にへばりつくようにしか存在していないとすると、それは源頭部から染み出る地下水のみを安定水源として、日照り、水害から無縁の場所を選んでいるということであり、灌漑施設や治水施設は全く存在しなかったと考えられます。
上ノ台遺跡は東鉄砲塚古墳群に前方後円墳をつくっているので、土木技術力や人員動員力はあったのですが、生産施設インフラ建設にはそれらを投入しなかったことになります。そうした上ノ台遺跡集落リーダーの執った路線の結末が、上ノ台遺跡の古墳時代末の集落終焉につながるのだと思います。
2 奈良時代の水田開発
次の図に奈良・平安時代の遺跡分布・水田開発地・開発主導地を示しました。
奈良・平安時代の遺跡分布・水田開発地・開発主導地
基図は旧版1万分の1地形図(大正6年測量)
この図に示す水田開発地(奈良熊・実籾田の水田開発)は奈良熊の地名から判る様に奈良時代に行われたものと考えられます。
奈良熊(=奈良供米)の名称から中央直轄の開発であり、直道遺跡や居寒台遺跡が含まれる花見川河口拠点集落が現場主導して開発したものであると考えられます。
この水田開発地は浜田川の源頭部ではなく、谷津の中下流部です。
谷津の源頭部ではありませんから、何らかの灌漑施設、治水施設が必要になります。
律令国家はこの水田開発のために灌漑施設や治水施設という社会インフラを建設したことになります。
社会インフラを建設しなかった古墳時代上ノ台遺跡集落ときわめて対照的です。
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