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2023年2月21日火曜日

花見川(ハナミガワ)は検見川(ケミガワ)

 花見川よもやま話 第12話

この記事は2022.12.27記事「河川名「花見川」(はなみがわ)が明治以前資料で確認できないことに気が付く」の全面改訂記事です。


Hanami River is Kemi River


Based on the materials, I hypothesized that the name Hanami River was a lucky name for Kemi River.


花見川(ハナミガワ)という名称が検見川(ケミガワ)の吉祥名称であることを資料から仮説しました。

1 河川名称「花見川」に関する資料の時系列整理

自分の手持ち資料で河川名称「花見川」が出ている資料を時系列的に整理してみました。

1-1 「花見川」の初出

「「千葉実録」に治承4年頼朝通過の折り、東六郎大夫が在名にちなんだ「花見川」の和歌をよみ、川上の桜は吉野の勝るとし、「花見川村」とも書いている。」(「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)から引用)

→千葉実録は鎌倉期書籍「千葉盛衰記」を元に江戸時代中期頃編集された書籍とされています。従って鎌倉期頃には「花見川」という言葉が書かれてた事実を把握できます。ただし、この「花見川」は在名にちなんでいますから、ケミガワと読み、その表現したいところは桜のきれいな土地であるという趣旨で理解すべきものと考えます。

検見川(ケミガワ)を漢字では「花見川」と書き、読みはあくまでケミガワであるのですが、その場所が風流な場所であることを知的遊戯として表現したのだと考えます。

→漢字「花」は「け」とも読みます。

→この「千葉実録」の「花見川」という言葉以外に、江戸時代までの古文書、古地図で「花見川」という言葉を見つけることはできませんでした。

●「花見川」を検索した資料

・絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)

・千葉市史

・千葉市史資料編1、2、8、9

・千葉県地名変遷総覧(千葉県立中央図書館)

・天保期の印旛沼堀割普請(千葉市)

1-2 江戸時代後期に使われる河川名

江戸期古文書、古地図では現花見川に関する河川名は次のような名称で表記されています。

「利根川分水路印旛沼堀割筋」

「利根川分水路」

「印旛沼堀割」

「印旛沼堀割筋」

「印旛沼古堀筋」

「堀割筋」

「検見川古川筋」

「検見川堀割」

「検見川筋」

●現「花見川」の河川名称を検索した資料

・絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)

・千葉市史

・千葉市史資料編1、2、8、9 など

・天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)


「印旛沼堀割筋」が使われている古地図

絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)から引用


「検見川筋」が使われている古文書

天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)から引用

1-3 明治期に初出となる地図記載「花見川」

地図に「花見川」が記載される初出資料は「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」であると考えられます。


「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図 千葉県下総国千葉郡馬加村」に登場する花見川

ただし、地図記載「花見川」の読みは「ハナミガワ」である可能性が高いと考えますが、その確認はとれません。地図作成兵士が「花見川」と書いて「ケミガワ」と読んでいた可能性は残されていると考えます。

この地図以降に発行される国の地図には全て「花見川」が記載されます。


大正6年測図地図「1/1万三角原」


大正10年測図地図「1/2.5万千葉西部」

1-4 花見(ハナミ)川確認初出資料

花見川の読みが(ハナミガワ)であることが確認できる初出資料は明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」であると考えられます。


吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」の花見(ハナミ)川の項

1-5 明治期印旛沼開発や利根川治水で使われる河川名称

明治期印旛沼開発資料の総集編とも言える織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年)では「花見川」は一切つかわれていません。現花見川のことを検見川筋あるいは古堀筋などと表現しています。吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)では検見川が地図に書き込まれています。


吉田東伍著「利根治水論考」(明治43年)の地図に表記される検見川

2 河川名称「花見川」に関する資料の時系列整理のまとめ

ア ケミガワ(検見川)の漢字表記を「花見川」とする語法の発生

鎌倉期頃から江戸期にかけて、河川名称「検見川」の読みであるケミガワだけを取り出し、漢字表記は「花見川」とする風流な語法が存在しました。

イ 江戸期までの公式文書や地図には「花見川」表記は存在しない

江戸期までの古文書、古地図には「花見川」表記はありません。

ウ 明治期以降地図表記に「花見川」が採用される

「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」を最初として、国が発行する地図にはすべて「花見川」が表記されています。

エ 明治期に「花見川」がハナミガワと発音されたことが確認できる

明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」で「花見川」がハナミガワと発音していたことが確認できます。

オ 明治期印旛沼開発や利根治水で使われる河川名称は主に検見川だった

明治期印旛沼開発や利根川治水で使われる河川名称は主に検見川であり、花見川は全く使われていません。

3 河川名称「花見川(ハナミガワ)」の発生仮説

2の事実から河川名称「花見川(ハナミガワ)」の発生を次のように仮説します。

・江戸期まで現「花見川」の河川名称は「検見川」あるいは「印旛沼堀割」等であり、「ハナミガワ」という呼称は公的には一切使われていません。

・風流の世界でケミガワの漢字表記を「花見川」とする流行があり、さらに、その漢字表記をハナミガワと読み替える住民レベルの流行が存在しました。

・「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」作成に際して、測量兵士は河川名称を行政文書から収集するのではなく、現場で住民から聞き取り収集しました。そのため現「花見川」の名称は公的な「検見川」あるいは「印旛沼堀割」ではなく、地元で流行していた「書き換え、読み替え」名称である「花見川」(ハナミガワ)が採用されました。以後、公的地図表記は「花見川」(ハナミガワ)が踏襲されました。

・一方、地域開発や河川行政における河川呼称は正式名称である「検見川」や「印旛沼堀割」が使われました。

・令和の現在でも現「花見川」の河川法上の名称は「印旛放水路(下流部)」であり「印旛沼堀割」を引き継いだ名称となっています。

4 河川名称「花見川(ハナミガワ)」の発生意義

風流の世界でケミガワの漢字表記を「花見川」とする流行があり、さらに、その漢字表記をハナミガワと読み替える住民レベルの流行が存在したと仮説しました。

この流行の背後に、河川名称や地名を吉祥語にしたいという一般社会心理が働いていたと考えます。

検見川という河川名称は「俘囚の検見(尋問)に由来する」という重く苦しい名称です。ですから、住民はできればその名称を払拭して明るく楽しい名称(吉祥名称)に変更したいという社会心理の下にあったことが推察できます。

参考 2021.07.13記事「編集再掲 地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する



2021年7月13日火曜日

編集再掲 地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する

 1 過去記事再掲について

このブログの2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」に最近複数のコメントをいただきました。7年前の記事であり、どれくらい閲覧されているのか念のため管理画面を見てみました。そうしたところ、驚くべきことに、過去1年間閲覧数最高記事がなんとこの7年前記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する」であることに気が付きました。

参考 ブログ花見川流域を歩く 過去1年間 閲覧数ベスト5

第1位 2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する

第2位 2016.06.02記事「千葉県のアイヌ語地名「メナ」

第3位 2015.02.27記事「地名「犢橋(コテハシ)」の語源

第4位 2014.04.08記事「縄文海進クライマックス期の海陸分布

第5位 2013.12.06記事「印旛沼からの洪水排水と「非対称性」

古い記事ほど閲覧数が累積しますから、一般に順位を付けるならば古い記事ほど有利です。しかし、この順位は2020.07~2021.07の1年間の順位です。自分では大いに意外です。最近の考古学習とか3Dモデルとかの記事は7年前と較べるならばはるかに沢山の方に閲覧していただいています。しかし、その何十倍もの閲覧がこの1年の間に地名記事にあります。おそらく、何かの弾みでこれらの記事が特段に検索されやすくなっているのだと思います。

閲覧数増加の理由はさておき、現実に多くの方に閲覧していただき、コメントもいただいています。そこでこの記事をもう一度2021年記事として再掲し、もしコメントをいただけるならば、2021年時点でさせていただきたくお願いする次第です。

検見川地名由来について、ご教示あるいはご意見ご感想があればコメントの程なにとぞよろしくお願いします。(なお、このブログのコメント(匿名含む)は管理者が確認後掲載されます。)

3つ記事を連続して再掲します。

2 2014.12.24記事「地名「検見川」は俘囚の検見(尋問)に由来する

2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名」で、花見川河口津に古代律令国家の治部省玄蕃寮の出先機関があった可能性がきわめて濃厚であることを述べました。

玄蕃寮は国内の夷狄(蝦夷・隼人等)の管掌を行っていたことから、花見川河口津に陸奥国から送られた蝦夷戦争俘囚の移送中継施設があり、それが小字名「玄蕃所」として現代にまで伝承してきていると考えました。

さて、小字名「玄蕃所」は近世「検見川村」に位置します。昭和初期検見川町の大字検見川にふくまれます。検見川は少なくとも中世から地名として存在しています(角川日本地名大辞典)。


近世検見川村の領域

この地名「検見川」の意味説明は、私はこれまで納得のいくものがありませんでした。

ところが、この検見川の地に玄蕃所という特殊施設(俘囚一時収容施設)があることに気がつくと、私は、一気に検見川の意味が脳裏に浮かびあがりました。

自分の感情レベルでは「検見川」語源を探り当てたと思うようになりました。

陸奥国から送られてきた俘囚は、玄蕃所で検見(「よく見て調べること」精選国語大辞典、小学館)されたのです。

俘囚は花見川河口津まで水運で運ばれてきて、玄蕃所で尋問され(検見され)、その思想性や健康状態などを検査され、隼人などのように精強な軍事組織に組み入れるグループ、貴族の使役奴隷に回すグループ、各地の地域開発の労働力奴隷として回すグループ、…などに分類されたのだと思います。

つまり、花見川河口津の「玄蕃所」における検見(けみ)で俘囚の運命が決まったのだと思います。

俘囚とはいえ、同じ人間の運命が、それも多人数の運命が「玄蕃所」で決まることは、恐らく近隣の人々に一種の心理的影響を与えたと考えます。

その心理的影響から、玄蕃所のある地域一帯の地名が「検見川」となったと考えます。

俘囚は遠く陸奥国から水運で運ばれ、印旛浦、花見川-平戸川船越、花見川を経由して花見川河口津に到着し、そこで検見され、運命が決まったのです。

運命が決った俘囚は花見川河口津から東京湾に船出し、西方各地に送られて新しい境遇人生が始まったのです。

花見川河口津付近の人々は、俘囚が水運で運ばれてくる花見川を、俘囚の運命が決ることに思いを深めて、検見川と呼んだのだとの思います。

検見川とは自然現象の川、風景としての川ではなく、俘囚が運ばれてきて、この地でその運命が決ってしまうという、その俘囚の運命に移動経路の川を重ねた一種の比喩語です。

アフリカ大陸を暗黒大陸などと比喩するのと同じ言葉使いです。

その比喩語検見川が地名となったのです。

その後玄蕃所がなくなって検見川の意味は全く忘れられてしまったのだと思います。

ただ地名は、恐ろしく愚直に現代まで伝承してきているのです。

3 2014.12.24記事「花見川河口津付近の遺跡と地名

1 花見川河口津付近の遺跡

花見川河口津付近の埋蔵文化財分布と主な遺跡の古代検出物を示します。


花見川河口津付近の埋蔵文化財分布

居寒台遺跡と直道遺跡だけで古代住居跡69軒、掘立柱建物40棟が検出されています。

単なる居住地域ではなく花見川河口津(直轄港湾)に関わる施設がここにあったと考えることが順当です。

2 花見川河口津付近の地名

次の図は昭和初期の大字検見川の小字分布図を示していて、私が注目する小字地名を抜書きしています。


昭和初期大字検見川の小字名

ア 玄蕃所(げんばしょ)

古代遺跡がある場所に玄蕃所という地名が残っているのですから、この玄蕃所は玄蕃寮の東国出先施設がここに在ったと考えることが順当です。

玄蕃寮は次のように説明されています。

げんばりょう 〔玄蕃寮〕

律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の〈ほうしまらひと(法師客人)のつかさ〉の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国使節の接待、鴻臚館〘こうろかん〙の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。玄は中国では道教を意味し、隋・唐では崇玄署という道士を監督する役所が設けられ、僧尼も合せて管轄した。日本には道士が存在しないので、玄で僧侶のみをさすことになったとみられる。僧尼・仏寺の管轄範囲は、令制では京内に限られていたが、延喜式制では畿内・諸国にまで及んでいる。

「岩波日本史辞典」(岩波書店)

地名「玄蕃所」の伝承は、玄蕃寮の東国出先で、陸奥国から送られてくる俘囚を国内各地に移送する中継施設としての玄蕃所が存在していた可能性を濃厚に物語ります。

同時に、花見川河口津に俘囚移送中継施設があったと考えると、花見川-平戸川船越が俘囚移送路であったことは確実であり、花見川-平戸川船越ルートが軍事的に重要な水運路であったことを物語ります。

イ 居寒台(いさむだい)

「いさむ(勇)」という言葉には「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)という意味があります。

この場所が軍事的な場所であったことを示す地名です。

玄蕃寮が管理する外国使節の接待施設である鴻臚館は同時に軍事的な側面も持っていました。(「世界大百科事典」(平凡社)による)

ですから陸奥国から送られてきた俘囚を西方の各地に送り出す中継施設である玄蕃所も当然軍事的備えをしていたと考えられます。

地名「玄蕃所」と地名「居寒台」はセットの地名であり、居寒台遺跡、直道遺跡等の古代住居69軒、掘立柱建物40棟などは俘囚収容施設やその管理施設等であった可能性が濃厚です。

ウ 木戸尻(きどじり)

軍港があり、俘囚収容施設があれば当然それらの施設は柵で囲まれます。出入り口は柵に設置された特定の出入り口である「木戸」になります。

地名「木戸尻」は軍港・俘囚収容施設などの施設群の背後(陸側)にあった出入口の場所を指す地名であったと考えます。

下総台地の各地に「木戸」地名がありますが、ほとんどが官施設のあった場所の近くであり、古代拠点の存在を示唆する強力な指標地名です。

4 2017.01.05記事「花見川河口津付近の地名「直道」(ナオミチ)の解釈

(2記事と3記事重複部分は略)


昭和初期大字検見川の小字名

2 小字「直道」(ナオミチ)の解釈

道の意味は人が歩む道という意味であり、直道は「人が歩む道に直る」「人が歩む道に直す」という意味に解釈します。

つまり俘囚が蝦夷の考え方を捨て、中央政府社会に服属を誓うことを直道(ナオミチ)と称したのだと思います。

より具体的には、俘囚教化施設があった場所の地名であると考えます。

直道(ナオミチ)と同じような用語法の言葉に直会(ナオライ)があります。

3 小字「大道」(オオミチ)の解釈

直道に隣接して小字「大道」(オオミチ)があります。

検見川台地上に幅広の大路が存在していたという情報は知りません。

小字「大道」(オオミチ)も「人が歩むべき正しい道」という比喩的な意味であると考えます。

直道(なおみち)(=俘囚教化施設)で中央政府に服属することを誓った俘囚が各地に移配される前に収容された施設が存在していた場所だと考えます。

小字「大道」(オオミチ)は服属した俘囚が中央政府社会に旅立つ(移配される)、開かれた場所を意味すると考えます。

4 花見川河口津における俘囚検見プロセス

花見川河口津における俘囚の検見プロセスを次のように想像することができます。

ア 居寒到着

陸奥国から平戸川-船越-花見川経由で居寒(花見川河口津(軍港))に俘囚が到着します。

イ 玄蕃所における検見

玄蕃所で俘囚は検見(尋問)を受けます。

ウ 直道での教化

俘囚は教化施設で中央政府に力づくで服属させられます。

エ 大道からの移配

服属した俘囚は外に開かれた施設に移り、そこから全国各地に移配されます。