2022年12月27日火曜日

河川名「花見川」(はなみがわ)が明治以前資料で確認できないことに気が付く

 Noticed that the river name "Hanamigawa" cannot be confirmed in pre-Meiji documents.


I noticed that the river name "Hanamigawa", which is a familiar river to me, could not be confirmed in materials before the Meiji era. "Hanamigawa" seems to have been changed from "Kemigawa" as a lucky river name around the early Meiji era.


自分にとって身近な河川である花見川(はなみがわ)という名称が明治以前資料では確認出来ないことに気が付きました。「花見川」(はなみがわ)は明治初期前後頃に吉祥河川名としてケミガワ(華見川とか花見川)から変化して生まれたようです。

1 河川名「花見川」が確認できる最古地図は「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」

私は10年以上にわたって、趣味レベルですが、花見川について興味を持ち、調べてきています。そうした中で、河川名「花見川」が記載された最古地図は「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図 千葉県下総国千葉郡馬加村」が最初のものであると気が付きました。


「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図 千葉県下総国千葉郡馬加村」に登場する花見川

河川名「花見川」が地図に登場するのは、私が確認した範囲では最古です。ただし、読みが「はなみがわ」であるかどうかの確認はとれません。地図作成兵士が「花見川」と書いて「けみがわ」と読んでいた可能性は残されていると考えます。

千葉市発行歴史資料に掲載されている明治以前の古文書・古地図では「花見川」という語句が記載されているものは確認できません。

資料

・絵にみる図でよむ千葉市図誌(千葉市発行)

・千葉市史

・千葉市史資料編1、2、8、9 など

明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」では花見川は次のように説明されています。

「花見(ハナミ)川

元は犢橋村柏井の邊に発する野水の末なるが、近世印旛沼堀割の土功を起こしし時、印旛郡平戸川の低谷より、此川筋へ達する水路を疎開したり。故に其水路は成就せざりしも、横戸に於て一堰を造りて、之に水を貯へ、夏時には之を花見川へも灌くこととなりぬ、横戸堰より検見川村の海濱まで凡二里。」

「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)では花見川(はなみがわ)の記述は「正式名称は印旛沼放水路という。印旛沼周辺の洪水防止を目的として整備された人工河川。」で始まり、工事の歴史が書いてあります。

「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」に花見川が使われ、明治40年発行吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」で花見川の説明があるので、明治時代から花見川(はなみがわ)が使われていたことは確認できます。江戸時代までの資料では花見川(はなみがわ)使用例は確認できません。

2 河川名「花見川」(はなみがわ)の語源・由来説明記述は見つからない

「花見川」(はなみがわ)の語源・由来を説明した記述を既存図書で見つけることはできませんでした。

3 印旛沼堀割普請関連古文書では河川名として「検見川」(けみがわ)が使われている

天保期の印旛沼堀割普請関連の古文書・古地図では工事対象名として「利根川分水路印旛沼堀割筋」「利根川分水路」「印旛沼堀割」「印旛沼古堀筋」「堀割筋」などが使われています。河川を意識した古文書では「検見川古川筋」「検見川堀割」「検見川筋」などが使われ、現在の花見川を特定しています。つまり、河川名としては「検見川」が使われています。印旛沼堀割普請関連古文書・古地図では花見川という言葉は一切使われていません。


河川名「検見川」が使われている古文書の例

出典 天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)

資料

・天保期の印旛沼堀割普請(千葉市発行)

4 地名「検見川」(けみがわ)について

「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)では検見川について次のように記述しています。

「けみがわ 検見川 <千葉市>

花見川河口南岸の袖ヶ浦沿いの海岸低地。地名の由来は源頼朝が兵を検せしことが起源という説もある(検見川小学校百年誌)。「千葉実録」に治承4年頼朝通過の折り、東六郎大夫が在名にちなんだ「花見川」の和歌をよみ、川上の桜は吉野の勝るとし、「花見川村」とも書いている。また、「千葉郡誌」には「花見川に因て華見川なりといふこともあり」と見える。

[中世]けみ川

戦国期に見える地名。下総国のうち。宗長の「東路の津登」によれば、宗長は永正6年10月、小弓城主原胤隆の許に滞在したが、その帰途のこととして「はまの村をたちて、けみ川といふ所の浦風あまり烈しかりしかば、一宿して、いまだ日もたかかりしに、人々物語の序に一折などのことにて、玉がしは藻にうづもれぬあられ哉」と記している(群書18)。また、「国府台戦記」には、天文7年の第1次国府台合戦の後、小弓御所足利義明の息男の乳母れんせいが若君の墓参に赴く途次を「心ぼそくもけみ河の、川瀬の千鳥友よぶも、君に逢ふかとおどろきて……」と描写している(続群21)。

[近世]検見川村

江戸期~明治22年の村名。……略

[近代]検見川村

明治22~24の千葉郡の自治体名。……略

[近代]検見川町

明治24年~昭和12年の千葉郡の自治体名。……略

[近代]検見川

明治22年~昭和13年の大字名。……略

[近代]検見川町

昭和13年~現在の千葉市の町名。……略

「角川日本地名大辞典 12千葉県」(昭和59年発行)の検見川説明記述に登場する「花見川」は「はなみがわ」ではなく、「けみがわ」と読むと当時の実在地名と符号して理解することができます。漢字「花」は「け」とも読みます。次のように読むことが適切です。

「千葉実録」に治承4年頼朝通過の折り、東六郎大夫が在名にちなんだ「花見川」(けみがわ)の和歌をよみ、川上の桜は吉野の勝るとし、「花見川村」(けみがわむら)とも書いている。また、「千葉郡誌」には「花見川(けみがわ)に因て華見川(けみがわ)なりといふこともあり」と見える。

5 河川名「花見川」(はなみがわ)の語源について

河川名「花見川」(はなみがわ)は天保期印旛沼堀割普請では使われておらず、工事名として「印旛沼堀割」が使われ、河川名としては検見川が使われていました。河川名「花見川」(はなみがわ)が登場するのは明治に入ってからです。

つまり河川名「花見川」(はなみがわ)は明治に入ってから河川名「検見川」(けみがわ)にとってかわるように生まれた新名称であることが資料から確認できます。

新河川名「花見川」(はなみがわ)が明治初期前後頃生まれた理由は今後検討することにしますが、「千葉郡誌」(大正15年発行)の記述「花見川(けみがわ)に因て華見川(けみがわ)なりといふこともあり」をヒントにすれば、次のような想像も意義があるような気がします。

●新名称「花見川」(はなみがわ)が生まれた経緯に関する想像

検見川の検見は行政が上から監視するようなイメージの言葉であり、地元からすると地域発展をイメージするにはあまり好ましい名称では無かった。天保期印旛沼堀割普請が失敗すると、河川名「検見川」(けみがわ)は一段とイメージが悪い名称となった。地元では検見川(けみがわ)の当て字として故事になぞらえた吉祥語として「花見川」(けみがわ)や「華見川」(けみがわ)を使うものも現れた。「花見川」や「華見川」がいったん文字になるとそのよみをわざと「はなみがわ」と読む人が増えた。徐々に河川名が「けみがわ」から「はなみがわ」に変化し始めた。

こうした中で「明治前期測量2万分の1フランス式彩色地図」の測量が行われ、測量兵士は地元から「花見川」名称をききとり地図に記載した。公的な資料に掲載されたので、河川名称は社会一般では「検見川」(けみがわ)から「花見川」(はなみがわ)により一層変化した。

6 明治時代の印旛沼開発計画で使われた河川名

明治時代に印旛沼開発計画が取組まれ、渋沢栄一やお雇い外人技術者デレーケなどが登場しますが、この土木地域開発分野では花見川の言葉は一切見られず、河川名としては検見川が使われています。

資料

織田寛之著「印旛沼経緯記」(明治26年)

7 現在の河川法上の名称

現在、花見川は社会一般における通称であり、河川法上の名称は印旛放水路(下流部)となっています。


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