2016年6月2日木曜日

千葉県のアイヌ語地名「メナ」

鏡味完二の諸作の中に千葉県に飛地的に分布するアイヌ語地名が記述されています。サクやヤツ地名との関連で気になりますので、学習します。

1 鏡味完二のメナに関する記述

鏡味完二(1981)「日本地名学(上)科学編」(東洋書林)(初版1957)ではメナについて次のように記述しています。

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Menaの地名

Menaは金田一博士によるとAinu語で「支流」を意味する。

バチラーの辞書には"池"とある。

Ainu語以外の他の民族語では解けないが,ただ内地の方言に,「牝牛」(熊本・鹿児島),「女の罵称」(鹿児島),「雌鮭」(茨城)などがある。

その分布はFig.16のように,津軽海峡を挾んだ南北の地域に限られ,ただ一つ九十九里浜の砂丘の間に"目那"の集落がある。

これらの地名は地形的に「池沼」に関係しているものは少く(2例あり)大部分が"支流"を意味している。

上記の内地方言は,その意味上地名になり難いものであり,また分布上からも関係がなさそうである。

これらの事情は,MenaがEzo語であることを立証している。

Menaの地名の1つの不連続線も大体仙台の北方にある。

以上の外にAinu語の地名には,Bet,Usi,Takko,Tai,Saruなどがあるが,その多くは同時に解釈される日本語との区別が困難であるから,今後の問題としておく。

メナの分布
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2 メナの千葉県小字データベース検索結果

小字メナは関連小字を含めて6件抽出されました。

アイヌ語地名 小字「メナ」の分布

小字「メナ」は全て九十九里浜の低地帯に分布します。

このアイヌ語地名がここに存在する理由を、次の瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)の記述を参考に検討します。

3 参考 瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)のアイヌ語地名に関する記述

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ところで、東北北部にアイヌ語地名がみられる事実はよく知られています。

その多くはアイヌ語で「川」を意味する「ナイ」「ペツ」に由来するものです。岩手県遠野市の佐比内(サヒナイ)、同花巻市の似内(ニタナイ)、山形県尾花沢市の紅内(クレナイ)、青森県南部町の苫米地(トマベチ)などがその例です。

このアイヌ語地名の残存にも、南下した続縄文人がかかわっていました。

東北北部にアイヌ語地名が分布している事実は、アイヌ語を話す人びとが東北北部にいたことを示しています。

さらに、東北北部は最終的に日本語集団によって占められたのですから、アイヌ語地名は、ある時期に生じた両者の入れかわりのなかで残されてきたことになります。

北海道には多くのアイヌ語地名が残されていますが、これは明治時代になって、アイヌ人口をはるかに上回る圧倒的多数の和人が一気に入植するなかで残されてきたものです。

つまり東北北部のアイヌ語地名についても、日本語集団とアイヌ語集団の急速な入れかわりのなかで残されたと考えられます。

東北北部においてそのような事態が想定できるのは、続縄文人と古墳社会の人びとの入れかわりのとき以外ありえません。

実際、東北北部のアイヌ語地名の分布は、続縄文人が南下していた範囲とほぼ一致しているのです。

東北北部には、弥生時代後期に狩猟採集に逆戻りしてしまった人びとの末裔も少数いました。

その動向はよくわかっていませんが、最北の水田を残した青森県砂沢遺跡の住人が縄文語=アイヌ語を話していたとみられることからすれば、かれらの言葉も縄文語=アイヌ語だった可能性があります。

古墳社会の人びとにアイヌ語地名を伝えたのは、続縄文人だけでなく、東北北部の在地の人びともかかわっていたかもしれません。

東北地方のナイ、ペツ地名の分布

瀬川拓郎(2016):「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史-」(ちくま新書)から引用
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4 千葉県のアイヌ語地名「メナ」の検討

瀬川拓郎の図書では東北地方のアイヌ語地名について、4世紀頃北海道から東北地方に南下した続縄文人と5世紀後半頃から北上した古墳社会の人々の入れ替わりの時に残された可能性を一つとしています。

もう一つの可能性として、北海道から南下してきた続縄文人とは別に、もともと東北で弥生文化の生活をしていた在地の住民が狩猟採取の生活に逆戻りして生活していて、その人々がアイヌ語地名を古墳社会の人々に伝えたことをあげています。

この二つの可能性を含めて、千葉県のアイヌ語地名「メナ」が残された可能性を列挙してみます。

●「メナ」地名が残された可能性列挙

1 縄文時代・弥生時代の文化を伝える在地集団が居住していたことにより、「メナ」地名が残存した

縄文時代にメナ地名が使われていて、その社会に弥生文化が伝わり、文化は変化したが、メナ地名はそのまま使われて残ったと考えます。

西方から多数の入植者が房総に入り込んだが、九十九里浜の平野は開発対象外の僻地であり、古墳社会の人々が地名を付けて開発することはなかったと考えます。

そのため、結果として縄文時代・弥生時代の文化を伝える在地集団が使う地名が新たな文化の地名に置き換わることなく、残存したと考えます。

(瀬川拓郎の在地逆戻り集団から伝わったとする説と類似の説)

古墳社会の地域開発対象地、大和政権の直轄開発地などでは生の縄文語=アイヌ語地名の残存は困難であったと想定します。

2 弥生時代中頃に海人集団が「メナ」地名をもたらした

弥生時代中頃に九州北部の海人集団が全国に展開しました。

海人集団は縄文人的特徴をもっていたと考えられ、縄文語の「メナ」地名を九十九里浜にもたらしたと考えます。

(メナの分布が西方にはほとんどないので、苦しい説ですが、海人集団との関係は検討しておく価値があると考えます。)

3 4世紀ごろ北海道から東北地方に南下した続縄文人集団が房総にも飛地的に到達し、「メナ」地名をもたらした

4世紀頃の東北地方に交易拠点をもとめて南下した続縄文人の一派が、さらに房総まで飛地的に到達して、「メナ」地名を残したと考えます。

(九十九里浜の平野は、古代では地域開発の価値のない場所で、人の寄り付かない場所であったため、北海道の続縄文人が到達して居住できる条件はあったかもしれないと考えます。)


●検討
2の海人集団が地名をもたらしたとする説は、海人集団と平野利用が結びつかないので、また地名が西方に分布しないので、説得力がありません。

3の続縄文人説は、南下飛地が離れすぎていて、また関連する他の情報もないので、説得力がありません。

1の説が最ももっともらしいと考えます。

縄文語=アイヌ語の地名が残るということは、その地名が縄文人(あるいは続縄文人)から古墳時代人まで途切れることなく、継続して使われたということを意味します。

従って、縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて、その付近に継続して人の生活があり、縄文人が使った「メナ」地名が残ったと考えます。


なお、房総で多数残っている「サク」地名も縄文語起源だと考えています。

その「サク」と希少地名である「メナ」と残り方が同じであるとは考えにくく感じます。

「サク」は強く日本語化しています。

「サク」の検討では、「サ」がサチ(幸)の語源まで思考がつながりました。

「メナ」は外来語そのままのように感じます。

同じ縄文語起源の地名でも、日本語社会に対する溶け込み方が全く違うように感じます。

日本語社会が縄文語起源地名を生のまま残したか(たまたま生のまま残ってしまったか)、それとも咀嚼して自分の言語体系に取り込んだか、その程度が問題になると考えます。

そのあたりを今後意識して学習することにします。
 



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