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2021年10月6日水曜日

縄文後晩期の鳥人間土偶

 縄文時代における人と鳥との関係に興味を持っています。

ブログ「世界の風景を楽しむ」2021.10.06記事「ホルス神像の考古学切手」でエジプトの天空神で最も偉大な神であるホルス神像はハヤブサの姿で表現されるとともに、半獣半人像でも表現されることを学習しました。この記事を書く中で、縄文後晩期に頭が鳥、体が人(女性)である半獣半人土偶の例を学習したことを思い出したので、改めて学習し直します。

1 エジプトのホルス神像(再)


ハヤブサの姿で表現されるホルス神


半獣半人の姿で表現されるホルス神

中央がホルス神

2 頭はトリ、体は人(女性)の土偶


図8-3-1の半獣半人 ※脚注

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)収録「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」から引用

この図は次の図の1を拡大したものです。


図8-3 人間と動物の折衷的形態(ヒトと動物の共通の母)

山田康弘・国立歴史民俗博物館編「縄文時代 その枠組み・文化・社会をどう捉えるか?」(2017、吉川弘文館)収録「8 縄文社会の複雑化と民族誌 高橋龍三郎」から引用

エジプトホルス神と同じトリ形の半獣半人像が縄文後晩期の日本でつくられていたことは人類の神話歴史を考える上でとても興味深いことです。エジプトの例と縄文後晩期の例に共通する何かがあると想像したくなるのは自分だけではないと思います。

この図書では次のような説明を加えています。

「注目したいのは図8-3の1~4です。いままでこれらを土偶としてきたのですが、体を見ると確かに腕があり、手があり、足があり、女性らしくオッパイも大きく描かれている。人形です。だからいままで土偶として扱ってきました。ところが、この顔は、実は人の顔ではありません。トリの顔です。頭部がトリで、体部は人間の合体です。つまり、半獣半人です。同じように、立石遺跡出土の図8-3の4の土偶は、顔はどう見てもイノシシです。これは同じ立石遺跡のイノシシ形土製品の顔とそっくりです。つまり体は人間で、顔だけ動物の半獣半人です。逆に図8-3の3は秋田県の漆下遺跡から出たクマなのですが、ひっくり返して胸を見ると、人間のように立派なオッパイが二つついています。これは要するに、人間と同じ扱いなのです。クマを人間と同一視して人間側の秩序の中に組み入れているんですね。図8-3の1、2はトリ形です。このトリ形にもオッパイが二つあるんです。これも人間と動物を合体させているのです。おそらく自分たちの先祖はかつてトリだったという出自観念と絡んでいるんですね。有名な古野清人という宗教学の先生は、トーテミズムの大きな特徴の一つに半獣半人、つまり共通の先祖を造形するということを言っています(古野1964)。」

トーテミズムに関する宗教学者の成果を踏まえて、半獣半人像は先祖の姿を造形していると論じています。

ふりかえってみると、エジプトホルス神もファラオの先祖であると伝わっているのですから同じです。

なお、同書には次のトリ形土製品が紹介されていて、トリが自分たち集団のアイデンティティーにかかわる旗印として使われる例が多かったとしています。


各地遺跡のトリ形土製品

3 メキシコトゥルム遺跡で見かけた鳥人間レリーフ

メキシコ国マヤ遺跡であるトゥルム遺跡で翼・尾羽を持っていて空から地上に降臨する漆喰の半獣半人神像レリーフを見たことがあります。


トゥルム遺跡の降臨する神像


降臨する神の模式図

この像は頭、手足は人ですが、体に翼と尾羽がある半獣半人像です。

4 感想

・鳥人間ともいえるトリ形半獣半人像が縄文後晩期日本とエジプト文明にあり、ともに先祖の姿として考えられていることは興味深いことです。

・トリ形土製品の出土例は多く、縄文人の鳥信仰について考察を深める価値は大きなものがありそうです。

・鳥は天を飛翔することから天の世界から地上にやってきた神の化身として古代東西世界で信仰されたのだと考えます。


……………………………………………………………………

※脚注 図8-3-1の半獣半人は図書から引用したものですが、図書には出土遺跡の情報が掲載されていません。関連すると考えられる参考文献の入手や閲覧も当面暗礁に乗り上げています。いつか出土遺跡が判れば発掘調査報告書等にアクセスしてより詳しい情報を得て学習を進めたいと思います。できることならば、現物の3Dモデルを作成して詳しく観察したいと思います。どなたか出土遺跡が判る方がいらっしゃれば教えていただければありがたいです。


2020年10月25日日曜日

メモ 麻ヒモの意義

 昨日NHKTV番組「こころの時代」再放送で正眼寺住職正眼僧堂師家の山川宗玄さんが、袈裟を結ぶヒモの縛った様子を見せて、その形が水引に似ていることを紹介しました。水引とは冠婚葬祭において謹んで相手に差し上げる品をつつむ際に使われるヒモの名称で、独特の結び方をします。そのことから、水引と同じヒモの縛り方で袈裟をまとっている禅僧とは、つまり自分をお釈迦様に捧げた様子を表現していると解釈していました。(番組ではお釈迦様にささげた身であるから、自分の努力だけでは決して通過できない修行上の困難も大きな命と一体になることができるから、通過できることを具体的に話していました。)

以上のTV番組視聴から触発されて次のような想像が浮かびましたので、忘れないうちにメモしておきます。

縄文社会理解の学習として、自分にとっては重要な思考分野になりそうです。

1 文明の香りがする人工物としてのヒモ

縄文土器の縄文とは人工製品としてのヒモ(縄)でつけた跡です。これは、ヒモが縄文人生活の重要アイテムであり、重要アイテムであるからこそ土器文様つくりに使われたと考えます。

ヒモが生活実務での必要品であるだけでなく、精神生活においても重要であったからこそ、縄文人は土器にヒモ跡を残したのだと思います。

ヒモが精神生活で重要であった理由として次のよう事柄を想像します。

1-1 ヒモ製品は貴重で高級

ヒモ製品(糸を撚ったヒモ)を作るためには繊維のとれる植物が多く採れるという好機の到来を待たなければならないし、植物からヒモ製品を作るまでは多大な労力と時間がかかります。このことからヒモ製品は貴重品であり、高級品であったと考えます。

ヒモ製品を使うということは弦をそのまま使うこととは意味が異なり、文明や技術の香りがする活動であったと考えます。

1-2 ヒモ製品は人工の象徴

ヒモ製品の形状とそれを粘土に転がしてつくる縄文模様は規則的な撚り模様です。この模様は自然界にはない縄文人自身がつくった人工模様です。「自分が作った規則的人工模様」は縄文人にとって自然が得意とする規則的模様の類似模様を人工的に作ったという点で、自分自身を意識できる素材であり、人が文明を感じる瞬間であったと想像します。

1-3 ヒモ製品は実務のみならず祭祀で使われた

ヒモ製品は釣り糸とか網とか石器を木の柄に縛り装着するためなど、生業実務の重要な部分で使われました。しかし、それだけでなく祭祀活動やコミュニケーションにおける必須用品として使われたのではないかと想像します。次のような場面で使われたと考えます。

ア 神様に捧げる奉納物を台や包装布(皮)にヒモ製品で結んでいた。奉納物そのものだけだなく、ヒモ製品を使うことも神様に対する尊崇の表現であった。

イ 吊手土器や小型土器などをヒモ製品で吊り下げたり、土器の蓋をヒモで結び固定したりするなどして、重要な道具を特段に丁寧に使っていた。ヒモ製品を使うことにより道具利用による価値増大を演出した。

ウ 交易品をヒモ製品で結び、交易相手に丁寧な気持ちを表現していた。

2 縄文後晩期の麻ヒモ文化

縄文後晩期の祭祀活動が盛んであった時代では大麻栽培がおこなわれ、大麻繊維から糸が撚られ、糸を撚って麻ヒモがつくられ、麻ヒモの文化があったと想像します。

麻ヒモは生活実務以上に祭祀生活で使われたと推測します。

2-1 麻ヒモで祭具を結び保管する

例えば祭祀道具の石棒は普段どのようにしまわれていたのか考えてみました(想像しました)。

・縄文時代、出土してきたそのままのように土間に石棒がそのまま置かれて保管されていたとはとても考えられません。

・石棒は麻布あるいはなめされたシカ皮などに包まれ、その上から麻ヒモで結ばれていたと想像します。

・麻ヒモによる結び方はそれが袈裟結び(水引の結び方)であったかどうかはわかりませんが、特別な結び方がされていたと考えることが合理的であると思います。現代禅僧が麻ヒモで袈裟を結ぶ時の心理原点と、縄文人が麻ヒモで石棒を結ぶ時の心理原点は同じだと想像します。

祭祀が盛んで祭祀が生活の大半を占めるような社会では祭祀道具に対して丁寧な扱いがあり、麻ヒモが祭祀道具の保管に必須なアイテムであったと考えます。

2-2 麻ヒモで神聖なものを結ぶ

現代神社や社会一般におけるしめ縄(神域や依り代の表現)設置活動と同じような機能をもつ麻ヒモ結び活動が縄文後晩期に盛んであり、太い麻ヒモ(麻縄)や細い麻ヒモが盛んに作られていたと想像します。(現代しめ縄が縄文時代起源であると考えます。)

縄文後晩期における麻ヒモ(麻縄)を撚る道具(紡錘車)が有孔円盤形土製品であり、その素材となる糸を撚る道具が円盤形土器片であると考えます。

有孔円盤形土製品は重たいものが多く、太い麻縄を撚っていて、しめ縄などに使われたのではないかと想像します。(強度のある漁網や釣り糸も作っていたでしょうけれども、メインは祭祀アイテムとしての麻ヒモ(麻縄)を作っていたと妄想します。)

2020.10.16記事「円盤形土器片の使い方


紡錘車(紡輪)

千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書から引用


円盤状土器片

千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書から引用

2020年6月11日木曜日

縄文後晩期人口減少理由に関する学習メモ

縄文社会消長分析学習 27

縄文時代人口推計(小山1984による)
北海道と沖縄を除く

縄文人口のうち、縄文後期・晩期の人口減少について学習すべき項目(論点)についてメモを作成しました。
一般に縄文後晩期人口減少は「気候の寒冷化で、堅果類が少なくなって、それによる人口許容量低下にしたがって、人口も減少した」と考えられています。
この考えに強い違和感をもっていますので、その違和感解消のための学習項目です。

このメモは関東地方具体的には房総を念頭においています。

論点 1 寒冷化について
縄文海進ピーク後寒冷化があった。
詳しく時期別データとして知りたい。特に関東地方。

論点 2 寒冷化の堅果類生産量に対する影響
気候寒冷化による樹種の変化により、堅果類生産量(植物学的な意味での生産量)が少なくなったという定量的考察(植物学的データ)を見つけて知りたい。
→利用できる堅果類の生産量(植物学的生産量)がどのくらい減ったのか?

論点 3 気候寒冷化に伴う堅果類生産量減少が食糧確保に与えた影響
気候寒冷化に伴う堅果類生産量減少が食糧確保全体に与えた影響の評価を知りたい。

ア 気候寒冷化前の堅果類資源と人口との関係
・単位面積あたり堅果類生産量(植物学的生産量)Aは?
・単位面積あたり堅果類の採集可能率(利用率)Bは?
・一人あたり必要堅果類量Cは?

A×B>C×単位面積あたり人口 であるか?

イ 気候寒冷化後の堅果類資源と人口との関係

A×B<C×単位面積あたり人口 であるか? 本当か???

ウ 堅果類資源量人口制約説
「気温低下に伴い堅果類採集量がどんどん減って、それが制限因子となり人口がどんどん減った」という堅果類資源量人口制約説に疑問を持っています。その疑問解消を目指します。

論点 4 後期・晩期に人口減少した理由
論点3以外に次のような人口減少理由について学習することにします。
ア 中期中葉加曽利EⅡ式期の人口爆発の破綻(堅果類採集社会システム改善やアク抜き技術改善等による食糧確保増→人口急増→社会破綻※)
(※…社会破綻・崩壊のきっかけはわからないが、社会システム全てが崩壊した様子がうかがえる。)
→社会崩壊により人口が一挙に減少した。
イ 海面低下と河口域堆積による漁場の急減
縄文海進期にできた岩礁を含む複雑な入り江(リアス式海岸)が失われ、干潟がひろがる。漁獲量の多い漁場をことごとく失う。
→漁獲量の急減→摂取栄養が少なくなる?
ウ 縄文社会の生業選択
干潟化した海岸に進出して漁民になる選択を縄文人はしなかった。(海岸から離れてしまい漁業に適さなくなった台地貝塚が放棄され、居住が内陸に分散する傾向がみられる。また狩猟の比重が増える。(干潟の陸地化による獣増に対応?))
→漁業という生業を失った→摂取栄養が少なくなった?(一方獣肉は増える)
エ 疫病の流行
証拠はないが、後期以降大陸から断続的に疫病が来襲し、縄文社会に影響を与えた可能性があるかもしれない。
縄文晩期には結核が水田稲作技術とともにもたらされ、文化技術伝来よりはやく列島を席捲した可能性が高い。
オ 縄文社会が成熟して出生率が減少した可能性
食糧難のために(飢餓線上にあるために)人口が減少したのではなく、縄文社会が前期中葉(加曽利EⅡ式)までに成熟し、社会のステージが増殖から減少に転じたと考えることもできます。生存許容量の低下に支配されたのではなく、縄文社会自らに内在する出生率低下現象により人口減少した。(社会劣化あるいは社会寿命からの人口減少へのアプローチ)
→食糧があればどんな社会でも人口が増加するという単純思考から離れることが大切です。社会が成熟すれば人口減少が始まるとする社会ダイナミックスを想定する方が、縄文後期・晩期の人口減少は「食糧難」で人口減少したと考えるより、より合理的な仮説であような気がします。
→社会が成熟して人口減少するということは、社会が所持する完成した制度システム・技術などが機能しているのであり、一人一人の生活は「ゆたか」であり、生業に費やす時間・エネルギーよりも祭祀やイベントに費やす時間・エネルギーの方が重視されていたと想像します。


感想
縄文時代人口増減を1つの因子で説明することはあり得ませんが、世の中では、後晩期の減少理由多数因子を代表して「気温低下」のためといわれています。
私は「気温低下」説に大いに違和感をもっていますので、その説が本当かどうか納得できるまで学習を深めたいと思います。
まず論点3でどのような結論がえられるかで、その後の学習方向が決まります。

縄文後晩期が、ドンドン減少する堅果類のために人々が飢餓線上をさまよっていて「暗澹たる状況」(小山修三、1984)になっていて、その暗い状況の裏返しが祭祀活発化であったのか?
それとも人々の生活は意外と豊かで、食糧獲得以外の活動(文化的活動)に多くの時間とエネルギーを費やす余裕があり、それが祭祀活動活発化の正体であったのか?

現時点では縄文後晩期人口減少を一つの因子で代表させるとすると「縄文社会成熟による出生率低下」(縄文社会の賞味期限切れ)であると想像します。

参考
2020.06.09記事「縄文晩期と疫病(結核)
2020.06.07記事「縄文時代人口データ原典の考察
2020.06.04記事「縄文時代人口について問題意識をもつ
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.03記事「縄文海進と人口急増