2020年6月9日火曜日

縄文晩期と疫病(結核)

縄文社会消長分析学習 26

縄文時代人口消長について、原典ともいえる論文(小山修三他1984)から各種刺激を受けて自分の問題意識が急速に開発されています。
2020.06.07記事「縄文時代人口データ原典の考察」参照
関連して次の古い小山修三著作図書を入手したところ、疫病に関する記述があり、興味が湧きとても参考になりましたのでメモします。今後の学習に役立てたいと思います。

1 小山修三著「縄文時代 コンピュータ考古学による復元」(1984、中公新書)の入手と疫病に関する記述

小山修三著「縄文時代 コンピュータ考古学による復元」(1984、中公新書)
web古書店で入手しました。

●疫病に関する記述
「一方、後期の末から九州に大陸からさまざまな文化が伝播してきた。それは人の移動、すなわち大陸からの移民がもちこんだものであろう。
このような大陸との直接的な接触は、新しく社会に活力をもたらす水田稲作の技術とともに、(アメリカやオーストリアの原住民社会をおそつた天然痘やはしかのような)流行性の疫病をもたらした可能性が高い。しかも疫病の伝染する速度は、文化や技術の伝播よりもずっとはやかったはずである。
原始的な社会では、人の移動や接触は交通の困難な内陸部より、海岸に沿ってはやくおこる。疫病はそれと歩調をあわすようにひろがっていったのであろう。晚期の貝塚が全国的に減少する事実は、疫病の蔓延の軌跡を示しているようにみえる。そして疫病は、社会の脆弱な部分、すなわち人口が過密で慢性的栄養不足に悩む関東や中部地方山岳地帯で猖獗をきわめることになり、その社会を崩壊状態にまで追いやったのであろう。しかし、人口のもともと少ない西日本や、人口許容量と人口量のあいだに十分に余裕のあった東北地方は、それほどの打撃は受けなかつたと考えられる。」

要約すると、
・水田稲作技術とともに大陸から疫病がもたらされた。
・疫病は文化・技術の伝播よりはやく海岸にそってはやくおこった。
・疫病は人口が多い関東や中部山岳でひどかった。
ということになります。

あくまでも仮説としてかかれたものですが、肺結核(脊椎カリエス)が縄文人骨から見つかったことはなく、弥生時代人から見つかりはじめていることと符合します。
縄文晩期人口崩壊の大きな要因が大陸からもたらされた疫病(具体的には結核)であった可能性は濃厚であると考えます。

参考資料 鈴木隆雄著「古病理学が語る病気と障害」(Jpn J Rehabil Med 2015 ; 52 : 121.125)

2 関東の縄文晩期は北部九州の弥生早期
縄文晩期人口崩壊の大きな要因が大陸からもたらされた疫病(結核)であり、それは文化技術の伝来よりはるかに速いスピードで全国にひろまったとすると、つぎの縄文時代-弥生時代地方別対比表が大変興味深いものになります。

土器編年表(縄文後期~古墳初頭併行期)
国立歴史民俗博物館「データベースれきはく 縄文・弥生集落遺跡」の概要説明から引用

土器編年表(縄文後期~古墳初頭併行期) 部分・追記
国立歴史民俗博物館「データベースれきはく 縄文・弥生集落遺跡」の概要説明から引用

北部九州で水田稲作が開始されたころ南関東では土器形式安行3d・前浦Ⅰの時期であり、縄文晩期真っただ中です。
このころ大陸からの疫病がいち早く南関東に伝播し、南関東縄文社会の崩壊が決定づけられたというシナリオを考えることができるかもしれません。
あるいはもう少し早い時期にすでに疫病(結核)の来襲があったというシナリオが書けるかもしれません。

縄文社会後半の人口減少説明要因の大きなものとして疫病があると考えます。
貝塚の詳しい消滅時期を全国レベル分布図で調べることができれば、疫病の伝播を暗示するような情報を得ることができるかもしれません。

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