2017年4月20日木曜日

西根遺跡学習用作業仮説

大膳野南貝塚の学習が順調に推移し出していますが、縄文時代知識が増え感覚が研がれるに従い、以前興味を持ってそのまま回答を得ていない西根遺跡のことが気がかりになります。
2017.04.04記事「メモ 西根遺跡 縄文時代土器集中遺構は広域祭祀(イヨマンテ)跡か」では2014年の西根遺跡検討イメージを一新させて、西根遺跡が広域祭祀跡であると直観できたことをメモしました。

このような経過のなかで、大膳野南貝塚学習に平行して西根遺跡学習を開始することにしました。

大膳野南貝塚は貝塚集落、西根遺跡は珍しい川沿い沖積地の遺跡ですからその二つを同時に学習すれば問題意識を多面的に頭脳中で交流することができ、学習効果が向上すると期待します。

この記事では西根遺跡学習を始めるに当たっての作業仮説設定を行います。

今後この学習用作業仮説を変更修正、追加補強発展させ、あるいは廃棄して全く別の仮説づくりを行うことにより、自らの学習を深めていくことにします。

1 西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説

西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説 ミナト施設送りとしての土器送り・イオマンテ

2 西根遺跡(縄文時代)学習用作業仮説 解説
2-1 土器の分布
次の遺物集中地点図から読み取れるように、土器集中場所は当時の戸神川河道沿いです。

遺物集中地点図
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

土器集中とミナト機能をオーバーレイさせて考えざるをえない基本情報がこの分布図に含まれていると考えます。

また土器はその姿が残るものばかりで完形に近いものも多く、しかし必ず欠けがあり(100%完形土器はゼロ)、同時に重ねることなく平面的に置いたと発掘調査報告書では
分析しています。

土器出土状況
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

単純な不用土器送りなら、ここまで凝った送りをする必然性がありません。
別の意味がないならば、わざわざここに不用土器を持ってきて送りをする必然性はありません。集落内で土器送りをすればよいだけです。
土器送りであることは間違いないにしても、別の意味がある土器送りです。
その意味をこの仮説ではミナト施設破壊(出水、水面低下)に伴うミナト施設送りであると想定しました。

2-2 獣骨出土、飾り弓出土
獣骨(焼骨)が土器分布と近い様子で多量に出土しています。

西根遺跡 土器と獣骨分布の比較
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から作成引用

土器送り祭祀の場所で獣を焼いて食ったと考えられます。

出土獣骨
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

ここで大変興味深い分析を発掘調査報告書でしています。出土獣骨に頭骨がほとんど含まれていないという事実と獣骨の多くが幼獣のものであるという事実が述べられています。

狩で親子を同時に捕獲したとき、幼獣だけ飼育しておき、後の祭祀でその幼獣を送る、その頭骨は祭壇に飾る(食わない)というイオマンテを思い浮かべると、西根遺跡の獣骨出土状況はイオマンテを彷彿とさせます。

また飾り弓が出土しています。

飾り弓
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

飾り弓は祭祀で使うものです。
イオマンテが行われたという想定を強く支持補強する出土物です。

2-3 「杭」出土
縄文時代遺物であることが明確な出土物として「杭」も出土しています。

「杭」
「印西市西根遺跡-県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(2005年)から引用

「杭」は発掘調査報告書ではほとんど着目されていません。
私はこの「杭」がミナトに着岸した丸木舟が使う係留杭(カシ…舟に常備する杭)であると長らく考えてきました。
しかし、「杭」をよく見るとフシ(枝)が残されていていて杭としては不自然です。
そして最近次の絵をみて、この「杭」が杭ではなく祭祀につかうイナウであったと考えるようになりました。

松浦武四郎著(1859)蝦夷漫画のイナウ
札幌市中央図書館デジタルライブラリーからダウンロード引用

「杭」がイナウならばイオマンテや土器送りや本来祭祀であるミナト施設送りの祭祀で使われたものと考えられます。

2-4 西根遺跡の位置
次に西根遺跡付近の地図を示します。

西根遺跡付近の地図

西根遺跡は印旛沼広域圏の西の出入りの交通拠点であり、台地を越えれば手賀沼低地(及び現在の利根川低地)と連絡する船越です。

この船越を介在して縄文時代印旛沼広域圏が東北・北関東・信州とつながっていたと考えます。

2-5 時代背景
西根遺跡出土土器は縄文時代後期の約300年間にわたるものであるという分析結果がでています。
この300年間の房総縄文社会の様子を今後詳しく学習すれば、この遺跡の意味を考える有用なヒントを得られると期待しています。
戸神川ミナトを介して印旛沼縄文人と東北・北関東・信州の縄文人が行っていた交流の中に占める形而上学的要素の割合がかなり大きかったので、戸神川ミナトの祭祀が盛んであったと類推します。

2017年4月19日水曜日

竪穴住居廃絶時の祭壇跡か

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居廃絶時の祭壇跡か

2017.04.18記事「複数竪穴住居の関連性検討」でJ50、J68竪穴住居の関連性を検討し、その中で柱穴分類図を作成しました。

その柱穴分類図をみると主柱穴、壁柱穴とは考えられない柱穴が存在していて、発掘調査報告書では説明されていないことがわかりました。

その説明の無い柱穴の分布をよくみると竪穴住居廃絶時の祭壇跡であるという仮説が思い浮かびましたのでメモしておきます。

居住空間内の柱穴ですから居住している時に存在していたとは考えられにくいことから、廃絶時に柱が建てられたと考えることが妥当です。
また、竪穴住居から土器・石器・獣骨など祭祀に関わると考えられる遺物が出土していますから、その柱が祭祀に関わるものであると考えることが妥当です。

次に説明の無い柱穴を結んで、祭壇の様子を復元してみました。

祭壇イメージの復元

祭壇が北方向を拝むような配置になっている様子として復元できました。

この図を北を上に方位を揃えてみると、復元祭壇が北方向を拝めるようになっているだけでなく、そもそも竪穴住居の主柱設置の際に北方向を意識している様子も感じられました。

さらに、説明の無い柱穴が新段階主柱穴の位置に規制されているので、祭壇は建物が存在していた時(上物が存在していたとき)、その室内に設置されたことが判りました。

祭壇検討図

北方向を意識して竪穴住居を建設し、北方向に向かって拝む祭壇をつくることから、北極星に関する信仰が存在していたことが想定できます。

旧石器時代から北極星が人の移動の目安となり、信仰の対象になっていたことは想像に難くありませんから、縄文時代前期後葉社会でも北極星信仰があり、人の送り祭祀での拝む方向が北であったのだと思います。

祭壇の様子を空想すると次のようになります。

空想 祭壇
(写真説明「(北東から)」は間違っています。南東からです。)

縄文人の祭壇の姿が時代を経てアイヌの祭壇に、いろいろな改変や修飾が加わわりつつ、伝わっていると想像します。

J50竪穴住居で観察できた事柄が他の竪穴住居でも観察できるか、今後検討を深めることにします。

2017年4月18日火曜日

複数竪穴住居の関連性検討

大膳野南貝塚 前期後葉集落 複数竪穴住居の関連性検討

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書のまとめでは前期後葉集落の竪穴住居について次のような組み合わせでその関連性を指摘しています。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居 発掘調査報告書における関連性の見立て

発掘調査報告書では、これらのグループは群在していて、一部はかなり近接しているので、「これらの住居には時期的な前後関係があるものと推定される。」と記述しています。

はたしてその記述通りであるか、学習することにします。

全体をざっと眺めると次のような検討方向の感想を持ちます。
J50・68は関連しているように感じます。
J56・58・60・121は場所が近接しているだけで、全く異なる性格のものが混じっているように感じます。
J72・113は関連しているように感じます。
J83・89・97・98は諸磯式という点で共通しますが、J97は特殊ですから、単純な関連性あるものとして捉えることは困難かもしれないと直観します。

参考 大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居

この記事ではJ50とJ68の関連性について学習します。

J50とJ68の位置関係は次の通りです。

J50とJ68の位置関係

建物の間の空間は2m以下であり大変近接しています。
また、建物の平面形状・方向・面積なども似ています。

次に発掘調査報告書の柱穴分類を色分けしてみました。

J50号・J68号竪穴住居の柱穴分類

両方の竪穴住居ともに建て替え(拡張)を1回行い、それに対応して二組の主柱穴と内側・拡張外側の2列の壁柱穴が見られます。
主柱穴の位置変更にともない、炉祉も変更となっています

J50と68が前後関係のある竪穴住居で、同じ血族の竪穴住居であったと考えても合理的です。
今のところ、J50と68の前後関係は判りません。

さて、この検討の中で、自分レベルで新たな発見をし、いささか興奮気味になったことがありますので、次の記事で紹介します。

2017年4月17日月曜日

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居炉祉数の意味

2017.04.16記事「大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居形状」で優勢土器形式が浮島式竪穴住居は諸磯式竪穴住居に比べて面積も大きく、深さも深いことをグラフで示しました。

これを分布図で示すと次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居面積(㎡)

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居深さ(㎝)

さて、炉祉数(基数)をみると、優勢土器形式が逆転する結果になります。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居炉祉数(基)

大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居炉祉数

面積が狭く深さが浅い竪穴住居である諸磯式竪穴住居の方が、面積が広く深さが深い竪穴住居である浮島式竪穴住居より炉祉数が多い理由を次のように想定します。

諸磯式竪穴住居の方が建物(上物)の構造が虚弱であり屋根と柱やその他の部材破損に伴う主柱の交換位置変更の回数が多く、その度に炉の位置を変更せざるを得なかったと考えます。

諸磯式竪穴住居の方が狭く浅い竪穴住居であったことはそれだけでなく、同時に建物のフレーム自体が虚弱であったことと結びついていたと考えます。

太くしっかりした木材を利用できなかったのだと思います。

現代社会風に考えれば、浮島式土器竪穴住居住民より諸磯式土器竪穴住居住民の方が財力が無い、あるいは技術力がないということになります。

しかしそのような財力や技術力ではなく、この集落における諸磯式系住民の社会的身分が低く、そのために狭く、浅く、フレームが弱い竪穴住居の建設しか認められていなかったのではないかと想像します。

社会的身分の上下、優劣がある2つの集団が1つの集落社会を構成していた有様が浮かび上がりつつあると考えています。

なお追って、竪穴住居の上物(建物)の強弱を発掘調査報告書の情報(遺構平面図断面図、写真等)から分析的に抽出する作業にチャレンジしたいと思います。

参考 大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居






2017年4月16日日曜日

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居形状

大膳野南貝塚前期後葉集落の竪穴住居の形状等の観察を始めます。

この記事では優勢土器形式別に竪穴住居面積と深さの平均を求めてみました。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居面積(㎡)

面積は竪穴住居を単純な楕円形と見立てて、長径×短径×π×1/4で算出しました。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居深さ(㎝)

優勢土器形式が浮島式の竪穴住居の方が諸磯式より面積も深さも大きく、土器・石器の出土量で見たように浮島式竪穴住居の方が優位で諸磯式竪穴住居の劣位な社会状況が観察できます。

参考 大膳野南貝塚 前期後葉集落 竪穴住居 



2017年4月15日土曜日

「物送り場」としての竪穴住居祉

2017.04.14記事「大膳野南貝塚 前期後葉集落 獣骨出土の意味」では、竪穴住居跡から土器・石器・獣骨の出土する意味を次のように書きました。

「1 土器・石器の出土は主人が死亡して竪穴住居が廃絶した時、故人を送る祭祀で持ち込まれたお供え物であると考えます。その量は集落内における故人のステータスの高さに、比例すると考えます。

2 獣骨出土も故人を送る祭祀で集落社会が故人と供食した動物の骨を土器・石器とともに持ち込んだものであると考えます。」

一方、2017.04.13記事「河野廣道(1935):貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ 学習」でアイヌは自身の経済生活と関係あるすべての生活資料や器具を送ることを学びました。
アイヌは器具や家具・食器等に至るまで、不用のものや毀れたものは、全てヌササン(祭壇)の傍ら又はポンヌサ(小祭壇)の近傍にまとめて送るので、所かまわず捨てる様なことは決してしないということを学びました。

アイヌを大膳野南貝塚前期後葉集落の縄文人に置き換えて思考すると、次のような想定も可能になります。

竪穴住居主人が死亡してその竪穴住居で故人の送り祭祀が行われた。この時その竪穴住居にはイナウ(*)が立てられ、竪穴住居の一角はヌササンとなり、ヌササンの傍らが物送りの場となった。

故人が有力者であり送り祭祀が盛大であるほどヌササンも立派になり、同時にヌササン傍らの物送り場機能も盛大になり、多くの土器・石器・獣骨が送られた。

つまり、竪穴住居から出土する土器・石器・獣骨は故人送り祭祀の直接的お供え物ではなく、故人送り祭祀に伴う物送りの結果であるとして捉えることが可能であるということです。

有力者の竪穴住居ほど出土物が多いと考えますから、有力者の竪穴住居ほど物送り場としての機能が盛大になったと考えます。

有力者を盛大に送るためには、盛大な物送りが行われたと考えます。

これを逆に考えると、盛大な物送りの跡が見つかれば、つまり土器・石器・獣骨などの出土物が多ければ、その背後には人々の気持ちを盛大な物送りに駆り立てた本当の送り対象が存在していたということになります。

土器・石器・獣骨などの出土物が多ければ、それらの送りが行われたと思考するだけでは不十分であり、その背後に存在する本当の送り対象を見つける必要があります。

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参考 イナウ
inaw

アイヌの祭具。柳,ミズキなどを▶削掛け状にしたもので,イナウ作りは男の大切な仕事とされ,これを捧げて神々をまつる。本来は魔神を脅すための棒であったとも考えられる。捧げる神や時と場所により,材料や形が異なり,本数や組合せも用途によって多様である。
蛸島 直
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用

2017年4月14日金曜日

大膳野南貝塚 前期後葉集落 獣骨出土の意味

1 獣骨出土に関する発掘調査報告書の分析
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書では前期後葉集落の獣骨出土について次のような分析を行っています。
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イノシシ
出土部位の偏りを見ると、上顎骨や下顎骨および遊離歯は多く出土しているが、四肢骨の出土量は少ない。
これはシカの場合も同様である。
シカの上腕骨遠位部にイヌの咬みキズが明瞭に残されている例があり写真に示した。
シカ 上腕骨遠位部(イヌの咬み痕多い)

これらの他にもイヌの咬みキズを持つ骨が多く見られることから、この遺跡のシカやイノシシの骨はイヌの餌にされていたと推測される。
四肢骨が少ないのは、それらがイヌに与えられたためであろう。
なお、骨に咬みキズを加えた動物が何であるかの判断は、ネズミでは切歯の形態、イヌ科では犬歯や上下の裂肉歯の形から推定したものである。
イヌは肉片の付いた骨を与えられても骨そのものを食べるのではなく、骨を齧って骨膜や軟骨・骨髄を食べるのであって、その結果、骨の腐食・消滅を促進していたことになる。

なお、J97号住居址出土のイノシシを主体とする動物骨の集中について、船橋市取掛西貝塚に見られるような儀礼的な取り扱いではないかという問題がある。
これについては、出土状態を見ると、J97号住居址の例では頭蓋骨や下顎骨の出土状態に意図的な配列が見られない。
不規則な散乱状態で出土しているように見える。
このことから、J97号住居址のイノシシやシカの出土例は、儀礼的な扱いを受けていないと判断した。

シカ
シカの骨では、イノシシと同様に頭部の骨に比べて四肢骨の出土量が少ない。
この点については、写真で示したようにイヌの咬みキズが多くのこされている上腕骨が出土していることから、イノシシとともにシカの肉付きの骨がイヌの餌になったためと思われる。
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イノシシ、シカともに四肢は狩のパートナーである犬に与え、それ以外の部位について人が食べたこと、及び獣骨最多出土竪穴住居J97のイノシシ頭骨集中出土は儀礼的な扱いを受けていないことが分析結果として述べられています。

2 獣骨出土の意味
竪穴住居を対象に土器出土量と石器出土量を類型区分し、そこに獣骨出土量が判るように竪穴住居をプロットしてみました。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 土器・石器出土量と獣骨出土量の関係

参考 大膳野南貝塚 前期後葉 獣骨出土量

この分析から次の事実が判ります。

1 土器出土量、石器出土量ともに多い竪穴住居は1軒だけ(J56)であるが、ここから獣骨は多量に出土する。
2 土器、石器ともに一定以上の出土量がある竪穴住居は11軒あるが、そのうち獣骨が多量に出土するのは1軒(J10)だけである。
3 土器は一定以上出土するが石器の出土がない竪穴住居は1軒だけ(J97)であるが、ここから獣骨が多量(最多)に出土する。
4 土器が極少あるいは完全に出土しないで、石器の出土もない竪穴住居は3軒あり、いずれも獣骨は出土しない。

この事実から獣骨出土の意味を次のようにイメージ(連想)します。
1 土器・石器の出土は主人が死亡して竪穴住居が廃絶した時、故人を送る祭祀で持ち込まれたお供え物であると考えます。その量は集落内における故人のステータスの高さに、比例すると考えます。

2 獣骨出土も故人を送る祭祀で集落社会が故人と供食した動物の骨を土器・石器とともに持ち込んだものであると考えます。

3 J56は土器・石器出土量が最も多く、集落リーダーの送り祭祀跡と考えると、そこから獣骨が多量に出土することは合理的に理解できます。

4 土器・石器ともに「有」の竪穴住居は全部で11軒あり、集落中堅構成員の送り祭祀跡であると考えます。この中で獣骨が多量に出土するJ10は集落中堅構成員の中でもリーダーに準じる身分の人間であったと考え、その準リーダーの送り祭祀では狩猟動物を供食し、他の構成員の送り祭祀では供食は少なかったあるいは無かったと考えることができます。

5 J97は石器という生業に関わる遺物が皆無であるにも関わらず、土器は中テン箱1箱出土していて、集落の中の特殊構成員の送り祭祀跡であると考えます。生業に関わる遺物(石器)をお供え物にしていない状況から故人がシャーマンであったと考えると、その送り祭祀で狩猟動物の供食が多数回行われて、獣骨出土が最多になったと考えることが可能です。

6 土器出土量が極少あるいは無、石器出土量無の竪穴住居3軒は故人送り祭祀がほとんど行われなかった竪穴住居であると考えます。故人の集落内身分が低かったり、集落が消滅した時の最後家族の住居であったと考えます。

2017年4月13日木曜日

河野廣道(1935):貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ 学習

この記事は2017.04.08記事「縄文時代「送りの思想」学習」の続きです。

2017.04.08記事で「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)第7章第3節祭祀儀礼記述のおける「送り」について次の学習ポイントを立てました。

1 河野廣道の1935年論文を入手して読みます。
2 河野廣道論文の中で「イオマンテで植物・器具の霊も送っている」と書かれているか確認します。
3 イオマンテで送っているものは何か、現代研究成果を学習します。
4 「物送り」の概念について学習します。
疑問1 「物送り」という言葉の「物」をこの図書では物品(物質)という普通の概念で使っていますが、そこに根本的間違いがあるという疑問を持ちます。
「物送り」の物は折口信夫「霊魂の話」で出てくる「モノ」であり、霊に近い概念だと考えます。
疑問2 単刀直入に言えば、「貝塚の貝殻も、その中に含まれて発見される食べ滓の動物の骨、壊れた土器や石器などの道具類、そして装身具なども「物送り」された」は間違いであり、「物送り」されたのは狩対象動物の霊であったと思います。

このポイントに従って順次学習(検討)します。

1 論文入手
河野廣道(1935):貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ、人類學雑誌50-4は2017.04.08記事をブログにアップしてから10分後にpdfを入手しました。
J-STAGE(科学技術情報発信・流通総合システム)からダウンロードしたもので、世の中が超便利社会、超高速社会になったと、今浦島的感想を持ちます。

河野廣道(1935):貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテの1ページ目


2 論文に「イオマンテで植物・器具の霊も送っている」が書かれているか?
確かに論文にそのように書かれていました。
イオマンテは動物に限つて行ふのではなく、食用植物その他アイヌが使用した總ての器具什器に到るまで、叮重に送るのであつて、字義通りの「物送り」なのである。
論文にそのように書かれているので図書のその部分(引用)の記述自体は正確です。

ただし、イオマンテという儀式で植物器具什器を送っていたという事実は知りませんから、イオマンテという熊祭を連想する言葉と植物器具什器の送りを結びつけた言葉を使ったことが、引用とはいえ、私に違和感をもたらしたのでした。

アイヌひいては縄文人が狩猟対象動物だけでなく植物器具什器まで送っていたことは河野論文を読んでよく理解できました。

3 イオマンテで送っているものは何か?
瀬川拓郎「アイヌの世界」(講談社選書メチエ)を読むと、縄文時代に全国に広がっていたイノシシ儀礼がイノシシのいない北海道縄文人でも行われ、本州からイノシシを搬入して行う「飼いイノシシ儀礼」の遺物が詳しく紹介されています。
本州が弥生時代に入りイノシシ儀礼が衰退すると、北海道ではイノシシ儀礼が熊儀礼(熊祭)に転換して、それが現在まで伝わる「飼いグマ儀礼」(イオマンテ)であるという説を説明しています。

このような読書をすると縄文人が狩猟対象動物をアイヌのイオマンテと同じように儀礼的に送っていたことは想像に難くありません。

4 物送りの概念について
タマとモノの違いを次のように理解しておきます。
タマは肉体に宿り、その死後に残存すべき人格的存在であり、これに対して人間の霊魂以外の種々なる事物の霊魂、またその遊離霊はモノである。」(民俗学辞典、東京堂出版)

物送りとは人間以外の動物植物器具什器の霊を送ることであると理解します。

疑問1と疑問2は私の誤解(テキスト理解不足)によるものであることが判明しました。

同時にこの誤解が解けると同時に、送りについて次のような仕訳をした時、3、4についての知識が皆無であることの存在に気が付きました。

送りの場面
1 人の送り(祭祀…葬送、場所…竪穴住居、貝塚、墓)
2 狩猟対象動物の送り(狩猟儀礼…イオマンテなど、場所…集落、狩猟現場)
3 植物器具什器等の送り(祭祀…?、場所…竪穴住居、土器塚?、貝塚)
4 機能空間の送り(1、2、3と関わらない純粋な「炉穴の廃絶祭祀」、「竪穴住居(竈)の廃絶祭祀」、「災害等で壊れた施設空間の廃絶祭祀」など)

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参考 抜き書き
河野廣道(1935):貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ、人類學雑誌50-4

Ⅱ イオマンテとは何か?
アイヌの神々は天上界に住んで居るが、人間界に姿を現はす時には、それぞれハヨクペをつけてやつてくるので、例へばキムンカムイ(山神)なら熊の姿を、レプンカムイ(沖の神)は鯱(又はイルカ)の姿を、コタンコルカムイ(部落神)なら梟の姿をとる等々、それぞれ一定の形をして人界に出て來ると考へ、カムイがアイヌに食物を與へんが爲にその樣な姿でやつてくるものと信じて居る。
そして信心深いアイヌ、即ちカムイを大切にするアイヌには、神々が澤山食物を與へてくれるから生活が樂であると信じて居る。
具體的に云ふと如何なる食物と雖もカムイが形を變へてアイヌに食べられにやつて來たものであるから、食べる時には先づ神に感謝し、食べた殘りや不用の部分は決して粗末にせす、叮重に神の國に送つてやる。取扱を叮重にして、送つてやれば、神は再びそのアイヌに食べられにやつて來るのである。
例へばキムンカムイなら、熊の形をして、あの温い毛皮と、その内に包まれたあの美味しい血と肉とを土産に持つてアイヌの所にやつて來る。
アイヌはだからその皮を剥いて着、血をすゝり、肉を喰べ、骨髓に舌鼓を打ち、その代り頭骨をヌシヤサンに飾り、イナウを立て、酒や御馳走をそなへ、その他の土産物を數多く持たせて熊の靈即ちカムイを天國に送り返すのである。
そうすると、カムイは天國に行つて多くの神々にアイヌの所で歡待されたことを自慢し、それを聞いた神々は、そのアイヌの所へやつて來る、從つてカムイを叮重に送るアイヌには獵が多いと考へて居る。
だから熊のみに限らす總て食用に供する烏獸魚類はイナウをたてゝ送るのである。
この送りの儀式がイオマンテである。

イオマンテは動物に限つて行ふのではなく、食用植物その他アイヌが使用した總ての器具什器に到るまで、叮重に送るのであつて、字義通りの「物送り」なのである。

器具や家具・食器等に到るまで、不用のものや毀れたものは、總てヌササンの傍又はポンヌサの近傍にまとめて送るので、所かまはず捨てる樣なことは決してない。

兎に角以上の樣にアイヌは自身の經濟生活と關係ある總ての生活資料や器具を送るのである。
この送るといふ宗教的な考へ方は、萬物が人類と同樣の精神作用を有するといふ萬神思想と關連して居る。
自分達の經濟生活と離す可からざる關係にある食料や器具の靈達を叮重に神の國に送り返すのは、一方では祟りをまぬがれ、一方動物や植物なら再びアイヌの所に、より豐富な食物を與へてくれる樣にと、自分達に最も都合のよい事を祈つて送るのである。
「送り」の儀式や祈りの言葉も、宛も人間に對する如き氣持で行はれるのであつて、祈りの言葉なども、或はおだて、或はなだめ、或はだましさへするのである。

Ⅲ イオマンテと貝塚
上述の如くして送られた鳥獸魚介の骨片・羽毛・貝殻・食料植物の不用の部分、生産に必要な獵具・武具・農耕具、その他食器・臼・釜・椀等に至るまで、ヌササンの傍や後方に置かれるので、次第に堆高くなり塚をなす。

兎に角かくの如くして家側にせよ、山にせよ、一定の場所に一まとめにして送られたものは次第に塚をなし、その内腐れ易い部分のみ分解し去つて、分解し難い部分のみ殘り、遂には貝塚・土器塚・骨塚等を形成するに至るのである。

Ⅳ 貝塚と人骨
貝塚は、少なくともアイヌの場合には、前述の樣に「物送り場」の跡であつて、物の靈を天國に送つた「骸」の置場である。
從つて、現代文化人の塵捨場とは、目的は同じ廢物置場ではあるが、本質的には全く異る見方で取扱はれた。
「物送り場」はタブーにより汚すことを嚴禁され、物送り場に物を送るのは、一定の儀式と祈りとを捧げた後になされた。
だからこそ、靈の上天した人間の遺骸をも亦貝塚に葬つたとて何の矛盾もない。

アイヌの考へ方に從へば、總ての物が生きて居るのであつて、それぞれ人と同樣な精神生活を螢んで居り、靈がその物體を離れるのが死といふ現象であり、器具などなら破損して用をなさなくなつた時がその物の死を意味する。
この樣な考へ方から、品物が毀れても物送り場に送り、動物を殺しても、植物を採つても、不用の部分は總て物送り場に送るのである。
そうすることによつて、殺した動物や毀れた器具の靈を天國に送り、祟りをまぬがれると同時に、その靈達が再びアイヌを訪れる時にはよりよき幸を持ち來る樣に祈るのである。
アイヌにとつて嫌なものに對しては來ぬことを祈る。
兎に角、往時は上述の樣な考へ方から、靈の上天した人の屍も、毀れた物も、同樣に取扱つた時代がある。
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2017年4月12日水曜日

大膳野南貝塚 前期後葉集落 獣骨

大膳野南貝塚前期後葉集落の獣骨出土状況について学習します。

獣骨出土は6軒(J10、42、56、58、97、98)の住居で観察されています。
このうちJ42、58、98は極少の獣骨が出土し、J10、56、97からはイノシシ、シカを主体とする大量の獣骨が出土しています。
次に発掘調査報告書の記述を引用します。

J10号 竪穴住居
獣骨は住居中央の径約2 × 3 mの範囲から出土しており、総量は中テン箱で1 箱弱を数える。
出土層位は住居下層から中層(J10号住3 ・4 層)であり、諸磯b式古段階および浮島Ⅰ式土器が共伴する。
これらは住居の埋没が進行した過程で、凹地状となった住居跡地に廃棄されたものと推定される。
獣骨の分布状態はやや散漫で、とくに獣骨が集中している箇所はみられない。
獣骨の大半は破片資料で、保存状態は不良である。
同定された獣骨はイノシシ・シカで、最少個体数はイノシシ6 頭、シカ4 頭である。

J10号 獣骨出土状況
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

J56号 竪穴住居
本住居は大膳野南前期集落では最大の住居で、平面規模は7.2×5.5m、深さは90㎝を測る。
 獣骨は住居中央の径約4.6×2.5mの範囲から完形個体を含む浮島Ⅱ~Ⅲ式土器群に伴って出土しており、総量は中テン箱で約4 箱を数える。
出土層位は住居最下層(J56号住東-西13層、南-北20層)で、住居埋没過程の比較的早い段階に土器とともに廃棄されたものと推定される。
獣骨の分布状態は濃密であるが、保存状態は不良で、大半の個体は骨体表面が磨滅している。
また、獣骨を含有する土層の厚さは約30㎝を測り、本址における獣骨廃棄は継続的に行われていた可能性が考えられる。
同定された獣骨はイノシシ・シカで、最少個体数はイノシシ5 頭、シカ4 頭である。

J56号 獣骨出土状況
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

J97号 竪穴住居
獣骨は住居中央の径約1.6mの範囲に集中して出土した。獣骨の総量は中テン箱で約6 箱を数え、本遺跡の前期集落では最多となる。
出土層位は住居最下層に該当するハマグリ主体の混貝土層(J97号住4 層)であり、諸磯b式土器が共伴する。
これらは前述したJ56号住と同様に住居埋没過程の比較的早い段階に廃棄されたものと推定される。
獣骨の分布状態は極めて濃密で、復元可能な頭骨が複数個体含まれており、保存状態は良好である。
貝層の存在が獣骨の遺存状態に影響を与えたものと推定される。
獣骨はイノシシ・シカが主体で、最少個体数はイノシシ9 頭、シカ5 頭である。
また、イノシシ・シカ以外にイヌ4 点、タヌキ7点、ノウサギ2 点などが同定された。

J97号 獣骨出土状況
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用

獣骨出土量(中テン箱数)を分布図にすると次のようになります。

大膳野南貝塚 前期後葉 獣骨出土量(中テン箱数)

J56とJ10から獣骨が出土することの意味については、これまでの土器や石器の出土状況からそれなりに説明できる(強い違和感なしに自分自身を納得させることはできる)と思います。

ところが獣骨出土が最大のJ97はこれまでの検討では獣骨多量出土をイメージできない竪穴住居です。強い違和感を覚える竪穴住居です。

次表に数値を示すように、J97は石器出土が完全にゼロの竪穴住居です。

大膳野南貝塚 前期後葉 獣骨出土量

J97号竪穴住居がなぜ獣骨出土量が最大になるのか?
さらにJ56、J10から獣骨が出土する理由や、他の竪穴住居から獣骨がほとんどあるいはまったく出土しない理由はなにか?
そもそも竪穴住居から獣骨が出土する意味はなにか?
次の記事で検討します。

2017年4月11日火曜日

大膳野南貝塚 前期後葉集落 浮島諸磯別石器出土状況

大膳野南貝塚前期後葉集落の石器出土状況検討の中で、竪穴住居の優勢土器形式別に大変大きな特徴があることに気が付きました。

その特徴を感覚ではなく、データとしてこの記事で集計しておきます。

1 優勢土器形式別石器出土状況
次のグラフは竪穴住居優勢土器形式別に石器分類別出土数集計を示したものです。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 優勢土器形式別 石器分類別出土数

参考 石器種類の主な用途想定

石鏃など(狩猟)、スクレイパーなど(動物加工)の石器は浮島式土器優勢竪穴住居からの出土数が諸磯式土器優勢竪穴住居出土数の倍以上になります。

一方、軽石製品(漁撈)、石斧など(植物採集)、敲石など(植物調理加工)の石器は諸磯式土器優勢竪穴住居出土数が浮島式土器優勢竪穴住居出土数を上回ります。

優勢土器形式別に竪穴住居を見ると生業の重点が異なるように観察できます。

浮島式土器優勢竪穴住居は狩猟がメイン、諸磯式土器優勢竪穴住居は漁撈と植物採集がメインというイメージを持つことができます。

次のグラフは石器製品合計出土数と石核・剥片合計出土数のグラフです。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 優勢土器形式別 石器製品等出土数

このグラフから石器製品及び石核・剥片がともに浮島式土器優勢竪穴住居で出土数が多いことから、道具の使用及び道具作りで浮島式土器優勢竪穴住居が諸磯式土器優勢竪穴住居を凌駕している様子を観察できます。

これから、集落内社会的関係に関して浮島式土器優勢竪穴住居家族が優位、諸磯式土器優勢竪穴住居家族が劣位であるような大局的イメージを持つことができます。

2 優勢土器形式別土器出土量
次のグラフは竪穴住居優勢土器形式別に土器・石器出土量(中テン箱数)を集計して示したものです。

大膳野南貝塚 前期後葉集落 優勢土器形式別 土器・石器出土量(中テン箱数)

このグラフは土器・石器を合わせた出土量を示していますが、土器出土量の方が石器出土量よりもはるかに多いので、このグラフは土器出土量をイメージする情報として使うことできると考えます。

上記グラフを土器出土量として読み替えると、浮島式土器優勢竪穴住居の方が諸磯式土器優勢竪穴住居より多いことが確認できます。

このことから、石器で得た想念と同じく、集落内社会的関係に関して浮島式土器優勢竪穴住居家族が優位、諸磯式土器優勢竪穴住居家族が劣位であるような大局的イメージを持つことができます。

3 考察
前期後葉集落竪穴住居の土器・石器学習を進める中で、優勢土器形式別分析を進めると学習を深めることができる確信を持つことができました。

この確信を念頭におきつつ、さらに次の学習を順次すすめ、それらの区切りがついた段階で前期後葉集落の中間まとめを行いたいと思います。

●今後進める前期後葉集落学習項目
竪穴住居の獣骨出土状況
竪穴住居の形状・大きさ・方向・場所・建て替え・柱数・炉数等
土坑出土物
土坑形状
獣面把手
●前期後葉集落出土土器形式の広域分布状況等
(浮島式土器と諸磯式土器の広域分布から前期後葉集落縄文人の出自2系統を想定できるか?)
●個別竪穴住居を対象とした社会性の分析
(集落のリーダーは狩猟家族、構成員は漁撈・植物採集家族という役割分担社会をイメージできそうです。)

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参考 大膳野南貝塚 前期後葉集落 石器出土数(優勢土器形式別集計)

参考 大膳野南貝塚 前期後葉 竪穴住居祉 主体土器形式分布