花見川河川争奪を知る36 花見川河川争奪の成因検討3 クーラーの説11
3期地形横断復元4
ウ 天保期堀割普請の実際掘削深
モデル断面の位置を続保定記の絵図で確認すると、次のようになります。
続保定記の絵図(モデル断面付近)(赤線、赤字記入)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
図中のちょうどこの位置に次の文字が書き込まれています。
「六十二番 上口ヨリホリシキマテ 十五丈七尺五寸」(「天保期の印旛沼堀割普請」口絵4-12説明による)
モデル断面付近が62番杭の近くであることは間違いありません。
上記文字は「六十二番 上口(杭)より堀敷まで 十五丈七尺五寸」の意味だと考えられます。
堀割断面図から、上口杭から堀敷までは7丈8尺2寸ですから合いません。
堀割断面図には「上口サシ渡十五丈壹尺二寸五分」とあります。
おそらくこの東西の上口杭サシ渡の寸法と本来の数値(7丈8尺2寸程度)を取り違え、誤記したものと考えられます。
よく見ると、「上口」、「中上口」と書かれた杭と無名の杭3本が見えます。
それらの杭の古堀筋との関係は堀割断面図(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)のそれとよく一致しますので、堀割断面図が62番杭付近と対応していることを確認できます。
(逆に、この絵図に杭位置が正確に描かれていることでこの絵図の正確描写性と、この絵図に描かれているのが普請途中の姿であることが判ります。)
絵図と堀割断面の杭の対比
絵図は天地逆転してあります。
古堀筋の東岸寄りに流路を設定し、東岸の掘削の方が多いようになる杭が打たれています。この理由は追って行う検討と関連しますが、西岸より東岸の方が工事がしやすい事情があったものと推察します。
ここでは東岸と西岸の何らかの特性の違いが工事に反映しているという事実だけを指摘しておきます。
また、絵図の地形の描き方をよく見ると、山脚部の描き方が明らかに異なります。この点も追って検討します。
堀割普請直後の安政年間に三木周蔵が行った堀割精査の図解資料が残っています。
この図解資料を見ると、杭62番における掘り分と掘り残し分がわかります。
堀割精査図解資料
織田完之著「印旛沼経緯記外編」(明治26年、影印復刻版[崙書房])掲載
62番の水面下計画掘削深は3丈2尺5寸(約9.85m)であり、実際には1丈8尺(約5.45m)を掘り、1丈4尺5寸(約4.40m)残ったことが記録されています。
55%掘ったことになります。
この結果を丸めて、モデル断面では50%の深さまで実際に掘ったと考えると、堀割断面図は次のようになります。
堀割断面図(標高、実際掘削深記入)
(鶴岡市郷土資料館寄託 清川斎藤家文書)
「天保期の印旛沼堀割普請」(千葉市発行)口絵収録
堀床の標高は5.90mであり、斜面は1割1分程度の勾配となります。
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