2012年4月28日土曜日

花見川源頭部付近にあった古墳 その1

1 はじめに
河川争奪に関わる地形発達の話題と離れますが、寄り道して、花見川源頭部付近に30年前まで存在していた古墳(埋蔵文化財名称「双子塚遺跡」)について話題とします。

この古墳は横戸台団地開発(千葉県住宅供給公社事業)により破壊(記録保存)され、現在は存在しません。
古墳が存在していた場所は30年経った現在でも未利用地として野ざらしになっており、今後も利用予定は無いとのことです。
開発と埋蔵文化財保全との関係について、これでよいのかと疑問が湧いてきます。 しかし、その疑問は別の機会に考えることとします。

このブログで情報発信したい事柄は、古墳の立地場所特性から、この古墳と花見川(現在の横戸台付近を源頭部として東京湾に注ぐ、印旛沼堀割普請前まで存在した、自然河川としての花見川)との間に、密接不可分の関係が存在すると、私が受けた示唆です。
この古墳が花見川源頭部(花見川の最源流部)に位置することを手がかりに、この古墳(以下、双子塚と呼びます)からイメージできる、人々と花見川との関係について思考したいと思います。

なお、双子塚は近世に塚として再利用されたため、古墳であるにも関わらず、埋蔵文化財の種別は「包蔵地、塚」となっています。

双子塚遺跡の場所
千葉県埋蔵文化財分布地図(3)№31習志野(千葉市域、部分) 平成11年3月千葉県教育委員会

破壊される前の双子塚
「千葉市双子塚 -横戸団地建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」(1983、千葉県住宅供給公社・財団法人千葉県文化財センター)より引用

2 双子塚検討の前に-双子塚周辺の古墳時代以前の埋蔵文化財と土地環境-
このブログでは印旛沼堀割前に存在していた花見川筋の河川自然地形を、初めて明らかにしましたが、その河川自然地形と縄文時代遺跡の分布がきれいに一致します。
水の流れていた花見川と勝田川等の近くの河岸段丘上には縄文遺跡があります。これは飲料水をすぐ近くで確保できる場所で、なおかつ平坦で水害の心配のない場所が縄文時代には人々の居住場所であったことを示しています。
双子塚からは縄文土器も出土していて、古墳築造の前から人が住んでいた場所ですが、この場所は花見川源頭部の直近に位置し、花見川筋で飲料水を確保できる北端の場所です。

飲料水確保場所に立地している縄文遺跡分布の様子

3 古墳の存在から受けた示唆
花見川の水を主に飲料水として利用していた時代から、水田耕作のための灌漑用水として利用する時代になると、社会を支配し、生産活動を組織する豪族が生まれました。
豪族の最大の仕事は水田開発による生産力増強にあったと考えます。
その豪族の権威を全ての住民に知らしめる象徴物の一つが古墳です。

その古墳(双子塚)が花見川源頭部の場所にあるのです。

この事実から、花見川の水(灌漑用水)を支配し、水田開発に邁進していた豪族(といっても小豪族だと思います)が、花見川の最初の一滴が流れ出す場所の近くに古墳を作ったに違いないと、私は、示唆を受けました。
花見川の水を支配しているものの存在を誰にでもわかるように、古墳築造で示したものと考えました。

この示唆を出発点にして、花見川についていろいろと思考していきます。

つづく

次の記事を連載する予定です。
4 双子塚調査の概要
5 近隣類似箇所の事例
6 双子塚からイメージできること

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