2013年1月24日木曜日

考古学的遺跡等からみた古代文化を振り返る

アーカイブWEBページ「花見川流域資料2 考古学的遺跡等からみた古代文化」をざっと読み返してみて、次のような感想を持ちました。

●花見川の語源に関する検討
・最初はだいぶ前に仕入れていた柳田國男の説を「花見川」に投影して記事を書いていました。しかし、いろいろ思考するうちに、またいろいろな本を読むことによって、柳田國男のアイヌ語源説から脱し、縄文語起源に行き着くことができました。
私の頭の中では、地名「ハナミガワ」と花見川河川争奪現象の地形とが結びつく様相を呈してきており、もっと深めたいテーマです。

・古代言語学(縄文語学)、狩猟時代(縄文時代)の人々の思考・発想の特徴の学習を深め、また花見川河川争奪地形の発達史の詳細について調査研究することにより、「花見川」という名称が古代社会におけるこの地域の最大の地形特徴を伝えてきているという、驚くべき口承の歴史を豊かに記述したいと思います。

●子和清水
・子和清水の語源と地形についても、古代社会から現代にまで届いた口承文化の贈り物と考えます。(地形は高速道路建設で失われましたが…)

・子和清水の語源を考えたことによって、その出土物を閲覧した時に、古代社会の一端をありありと想起できたような感覚を持ちました。

●東京湾-香取の海(印旛沼)の連絡幹線としての花見川
・花見川河川争奪現象により、花見川(東京湾水系)と古柏井川(印旛沼水系)が一連の谷津となりました。その一連の谷津が古代から東京湾-香取の海(印旛沼)を結ぶ社会の交流連絡幹線となってきています。

・このような視点から検見川で大賀ハスとともに発見された縄文丸木舟と、八千代市保品で発見された縄文丸木舟が、東京湾側の湊と香取の海の湊の存在を暗示し、その二つの湊を結ぶ連絡ルートが一部区間は谷津(陸路)を含むものの、花見川筋であると考えました。
一種の「船越」(陸地が細くくびれて両側が海に臨む地。船をかついで越すのでつけられた呼称。運河をつくれない古代にあっては、日本のみならず汎世界的に存在した。)が存在していたと考えます。

・弥生時代の土器様式伝播にこのルートが関わっていたことが八千代市によって明らかにされています。

・江戸時代にはこのルートで印旛沼堀割普請が行われ、現代では印旛沼開発の施設として利用されています。

●双子塚古墳と谷中分水界
・花見川河川争奪現象により、花見川(東京湾水系)と古柏井川(印旛沼水系)が一連の谷津となりましたが、その境は谷中分水界となり、その間近につくられた古墳が双子塚古墳です。
谷中分水界(印旛沼堀割普請で失われた花見川源流で泉の存在が想定される)と双子塚古墳の関係は、子和清水における泉と古代遺跡の関係と瓜二つです。
この関係は船橋市三山の御手洗之池と二宮神社にもみられる東京湾水系源頭部の共通文化事象です。

・近世には双子塚古墳は花見川水系との縁が切れて、印旛沼水系を本拠とする横戸村の土地になり、双子塚古墳と高台南古墳は境界杭として利用され、二つの古墳を結ぶ直線が横戸村と柏井村の境界となり、現代の町丁目境として引き継がれてきています。

・同時に双子塚古墳は古墳としての神聖性は失われ、最後は村境に設置した不浄の場にまで零落してしまいました。

・このように興味深い双子塚古墳が発掘調査され、古墳であることを確認する報告書が出ているにも関わらず、文化行政上「古墳」として認定していないことは一種の怪現象です。

・また、この古墳が撤去されて早30年経ちましたが、毎年数回、税金で丁寧な草刈をするだけの空き地になっていて、だれも見向かない場所になっています。
古墳の盛衰を知った者として、また近隣住民のひとりとして、文化財のあり方に心が痛みます。


花見川流域で見つけることができる古代文化には、汲めども汲みつくせない興味が湧きます。

路傍の模様

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