「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)に竪穴住居消長図が掲載されています。
その図を使って、白幡前遺跡の各ゾーンの活動年代を検討してみます。
1 白幡前遺跡及び近隣遺跡の竪穴住居消長
報告書掲載竪穴住居消長図に、活動が活発であった時期を前半期(主に8世紀代頃をイメージ)のものと、後半期(主に9世紀代頃をイメージ)のものに2分して色分けしてみました。
白幡前遺跡及び近隣遺跡の竪穴住居消長
報告書ではゾーン別に詳細な記述を行っていますが、このブログではまず大局的に情報を知ることが必要だとおもいますので、このような情報咀嚼を行いました。
白幡前遺跡では白幡前1B、2A、2Bが0期あるいは1期に集落がスタートしていて、明瞭に前半期に活動活発であったことがわかります。
白幡前1Aは1期(8世紀中葉)に集落がスタートしていることから前半期のグループに入れました。
白幡前2C、2D、2E、2F、3はスタートが遅く、9世紀代に活動が活発です。
2 竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分
1で得たざっくりした時代区分情報を地図上にプロットしてみました。
竪穴住居消長からみたゾーンの活動活発時期区分
ゾーン1A、1Bは台地面より1段低い河岸段丘上にあり、2A、2Bはそれに隣接する位置にあります。
ですから、最初に河岸段丘にメインの集落が形成され、その最初のメイン集落に隣接する台地上にも集落が拡がったと推定できます。
最初に形成された河岸段丘上の集落1A、1Bのメインの機能は軍事兵站・輸送業務機能に特化していたと想像します。
その理由は、寺谷津をターゲットにして水田耕作を目指した開発が行われたとすると、その開発場所は最初は谷津田の源頭部になり、順次手間がかかるようになる(治水や利水施設をつくる必要性が増すようになる)下流部は後回しになると考えるからです。
また、奈良時代では平戸川(現在の新川)谷底は海かそれに近い湿地であり水田耕作対象になる土地ではありえなかったと考えられます。
ゾーン1Aの近くには恐らく船着場が存在していたと想像します。
9世紀代になるとゾーン2C、2D、2E、2F、3の活動が活発化するのですが、その時代では、これらのゾーンが新地(新開発地)、ゾーン1A、1B、2A、2Bが旧地(旧開発地)みたいなイメージで存在していたのだと想像します。
蝦夷戦争の風雲が急を告げ、律令国家が要請する高度な兵站基地業務を遂行するために旧来ゾーンの機能では足りなくなり、隣接する空間に高度な機能を張付けたものと想像します。
前半期に活動が活発であった2Aゾーンからは周溝を配置した集落内寺院が検出されていますが、後半期になると寺院は廃絶し、その周溝を切って集落内(基地内)道路が建設されていています。
前半期には寺院で古墳時代に行われていたような兵士の魂(タマ)を揺さぶり恐れを知らぬ戦士にするという祈祷が行われていたと想像します。
しかし後半期になると、
※間違いかもしれないと感じ始めましたので打消し線を引きました。
寺院の効力が減じたのではなく、その寺院のスポンサーである地域支配者(丈部一族筋????)の力が減じ、別の新興勢力のイニシャチブが確立して、寺院は廃寺となったのかもしれません。今後、寺院が廃寺となった理由を興味深い検討対象としていきます。(2015.04.18追記)
次に、近隣遺跡を含めて萱田地区全体の活動活発時期について検討します。 つづく
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