2015年4月7日火曜日

高台向遺跡の古墳時代土壙からカキ・ハマグリ出土を知る

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.105 高台向遺跡の古墳時代土壙からカキ・ハマグリ出土を知る

花見川・浜田川流域圏の古代の様子の検討から、平戸川・印旛浦南岸流域圏の古代の様子の検討に移ります

この記事では古墳時代高台向遺跡について検討します。

1 高台向遺跡の位置及び遺跡概要
最初に、近世印旛沼堀割普請以前の古代自然流域の様子と高台向遺跡等の位置を示します。

古代の自然流域と高台向遺跡等

高台向遺跡の概要(古墳時代)
高台向遺跡からは今回の調査を含めて古墳時代後期の竪穴住居跡7軒と平安時代の竪穴住居跡4軒が検出されている。当遺跡の台地南側には前方後円墳の高台南古墳がある他、鷹の台ゴルフ場内にもさらに数基の古墳が存在する可能性もあり、これらの古墳との関係が問題となっていくる。」(「千葉市高台向遺跡・猪鼻城跡」(2007、千葉市教育委員会・財団法人千葉市教育振興財団)より引用)

高台向遺跡調査地点図
「千葉市高台向遺跡・猪鼻城跡」(2007、千葉市教育委員会・財団法人千葉市教育振興財団)より引用

2 古墳時代土壙から焼カキ殻層やアサリ・ハマグリ貝層が出土
高台向遺跡の10号土壙は覆土内より多量の貝と焼土を出土しており、共伴した遺物から古墳時代中期の頃と思われています。

土壙発掘の状況は次の通りです。

表土層除去時に覆土上層で貝と焼土が検出された。規模1.5×1.3m、深さ0.6m。不正円形を呈し、底部は平坦で壁は垂直ぎみに立ち上がっている。覆土は1層で二枚貝を主体とする貝層。
4層が焼土と焼土ブロックの混層。6層は焼土・炭化物と貝の混層で、貝は火を受けておりカキを主体としアサリとシジミを若干含んでいた。1層の貝はアサリとハマグリで90%を占め、他にシオフキ・シジミ・ウミニナなどである。取り上げた貝の総量は、8.14kgを測る。遺物は貝の他に土師器の坏・甕・壺が出土した。」(「千葉市高台向遺跡」(1989、株式会社大研・財団法人千葉市文化財調査協会)より引用)

10号土壙の様子
「千葉市高台向遺跡」(1989、株式会社大研・財団法人千葉市文化財調査協会)より引用

10号土壙の写真
「千葉市高台向遺跡」(1989、株式会社大研・財団法人千葉市文化財調査協会)より引用

3 カキやアサリ・ハマグリ出土の意義
近隣の平戸川筋の官人居住奈良時代遺跡(村上込の内遺跡、権現後遺跡、北海道遺跡、白幡前遺跡)からハマグリが出土しています。

それについては、律令国家が官人を働かせるための一種のサービスとして行った可能性を以前の記事で論じました。2015.03.23記事「ハマグリを食ったのは誰か」参照

古墳時代にはこのような事情はなかったでしょうから、高台向遺跡(集落)と花見川・浜田川流域圏との間での交易が存在していたと考えられます。

花見川河口付近の干潟に存在したであろうカキ礁(※)から採れた新鮮なカキや、同じ干潟から採れたアサリ・ハマグリなどが活貝として高台向遺跡(集落)に急送されたのだと思います。

※ 現在の東京湾干潟にもカキ礁が存在します。

そして、高台向遺跡(集落)の円形土坑で火を焚いて、その周りを人々が取り囲んで、貝を焼いて食ったのだと思います。

カキやアサリ・ハマグリを採った漁労集落はおそらく直道遺跡や居寒台遺跡の近くのより海岸に近い場所にあったと考えます。
しかし、歴史時代の砂丘発達によりその遺跡は発見されていないものと考えます。

その未発見漁労集落は直道遺跡や居寒台遺跡の場所にあった集落の統治下にあり、引いては上ノ台遺跡(集落)の支配下にあったと考えます。

ですから、古墳時代の平戸川流域の高台向遺跡(集落)と花見川・浜田川流域の上ノ台遺跡(集落)はお互いに古墳を陣取り合戦のように配置しています(※※)が、それは一種の社会的ポーズであり、実際は緊密な交流があったと考えることがふさわしいと思います。

※※ 2015.04.06記事「花見川流域古墳空白地帯の検討」参照

カキやアサリ・ハマグリが運搬されたルートは水運で花見川を遡り、柏井付近で陸送となり、台地の上に出てそのまま高台向に運ばれたものと考えます。

古墳時代に東京湾干潟産貝を高台向遺跡(集落)に運んだルート推定

このブログで考えている古代東海道水運支路(仮説)のルートそのものが東京湾干潟産貝を高台向遺跡(集落)に運ぶ最短・最適ルートとなります。

奈良時代の東海道水運支路ルートが、古墳時代にすでに存在していたことになります。

このことから、奈良時代東海道水運支路は、古墳時代にすでに交通が存在していたルートを利用して改修、高規格化したものであることが推定できます。

カキやアサリ・ハマグリの急送はその運搬に多大な労力が必要であることから、集落の一般住民というよりリーダー層がそれを食ったものと考えます。
また日常的に食っていたというよりも、特定のイベントの際のごちそうとして食っていたものと考えます。

魚介類輸入の決済を漁労民や運搬集団に対してどのような産物(サービス)で行ったのか、とても興味があります。
しかし、現在の自分の知識レベルではイメージできませんので、今後の課題とします。

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参考
高台向遺跡の平安時代竪穴住居址から羽口が出土しています。従って平安時代には高台向遺跡に鍛冶施設があったと考えられます。

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