2015年7月16日木曜日

「竪穴住居○軒当り□□数」指標でみる萱田遺跡群の特徴

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.169 「竪穴住居○軒当り□□数」指標でみる萱田遺跡群の特徴

掘立柱建物数、銙帯出土数、ハマグリ出土箇所数、墨書土器出土数をそれぞれ竪穴住居数で割った指標をつくり、萱田遺跡群の4遺跡を比較して、4遺跡の特徴を確認します。

奈良時代・平安時代にあってはほとんどの住民が竪穴住居に住んでおり、掘立柱建物の住んでいた人は支配層の極一部であると考えます。

従って、竪穴住居数は人口に比例すると考えます。

ですから、掘立柱建物数/竪穴住居数という指標は人口○○人あたりの掘立柱建物数という指標として、将来用いることができると考えます。

銙帯出土数、ハマグリ出土箇所数、墨書土器出土数も同じくそれを竪穴住居数で除した指標は、人口○○人あたりの指標として、将来用いることができると考えます。

なお、竪穴住居1軒が人口何人を代表するか、現在はまだ検討していません。

また、発掘された竪穴住居跡はある期間のトータルの竪穴住居跡であり、ある時間断面に存在した竪穴住居数を意味しません。

しかし、ここでは、遺跡の特性を大局観を持って知ろうという趣旨ですので、ある時間断面について検討するのではなく、遺跡が存続した期間全体を検討対象期間とします。

萱田遺跡群の配置は次の通りです。

萱田遺跡群の配置
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」より引用

1 特記的遺構・出土物
次に4遺跡の特記的遺構・出土物を示します。

特記的遺構・出土物
白幡前遺跡には総柱掘立柱建物が2棟あり、1棟は中央貴族の接待施設、1棟は寺院のお堂と考えました。また瓦塔が出土しています。
白幡前遺跡が萱田地区全体の指導的中心地です。

井戸向遺跡からは仏像が出土しています。
井戸向遺跡は独立した集落というより白幡前遺跡の一画であり、白幡前遺跡と一体であると捉えられます。

権現後遺跡からは土器焼成坑と水簸粘土が出土していて、遺跡全体が土器生産団地の様相を呈しています。

北海道遺跡は農業開拓集落であり、特記的遺構・出土物は見られません。

2 竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数
次に竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数を示します。

竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数

掘立柱建物は接待施設(宿泊・宴会場)、寺院施設(お堂等)、陰陽師施設、司令所施設(司令官詰所・会議室・宴会場)、軍需用品貯蔵庫(武器・衣服・食料・生活用品等)、事務棟(公文書作成、会計事務、食堂)、活動のための資機材置き場、農業生産物倉庫、焼成土器貯蔵庫、小集団のための集会場(会議室・食堂)等として利用されたと考えます。

竪穴住居10軒あたり掘立柱建物数は遺跡で展開された活動が高度化すればするほど、機能が多様化すればそれだけ大きくなると考えます。集団全体のみならず、小集団にとっても組織活動を行うためには掘立柱建物が必須です。

白幡前遺跡が5.4、井戸向遺跡が4.6で高くなっていますが、この二つの遺跡は隣接していて一体の集落として捉えられると考えます。
白幡前遺跡-井戸向遺跡が萱田地区の中心であったと考えます。軍事兵站・輸送基地機能の中心機能が白幡前遺跡と井戸向遺跡に集中していたと考えます 。

権現後遺跡は2.5で白幡前遺跡の半分の値になっています。権現後遺跡は土器生産団地という単目的の集落で焼成土器の貯蔵や居住集団の集会施設程度だけが必要であったと考えます。

北海道遺跡は農業生産集落(農業開拓集落)と考えられ、掘立柱建物は収穫物貯蔵庫程度のみが必要だったと考えますが、自立した農業集落ではなく、白幡前遺跡の指導の下にある開拓集落ですから、収穫物は白幡前遺跡の倉庫に運ばれたと考えます。

3 竪穴住居100軒あたり銙帯出土数
次に竪穴住居100軒あたり銙帯出土数を示します。

竪穴住居100軒あたり銙帯出土数
銙帯は官人がその権威を一般人に示すために付ける装飾具ですから、銙帯出土数はその場にいた官人の人数に比例すると考えます。

白幡前遺跡3.2、井戸向遺跡4.2、北海道遺跡2.6であり比較的近い数値になっていますが、権現後遺跡だけ10.4ととびぬけた数値になっています。

権現後遺跡だけ官人が相対的な意味で多かったことを示しています。

その理由として、土器づくりという活動が技術を要するものであり、官人技術者が直接その活動にタッチしていた可能性を考えます。
現代の食器づくりなどから想像すると、土器づくりは現場の職人(非官人)、指導監督は管理職(官人)ということになります。しかし古代の土器づくりは、現代と異なり、現場の技術(水簸粘土づくりや焼成プロセス)に官人が直接かかわる高度技術作業(技術開発作業)であったと考えておきます。そのために官人が相対的に多かったのだと思います。(本当にそうであるか、他の事例を知ってから再検討します。)

北海道遺跡は2.6で低い数値ですが、白幡前遺跡などと比べて大幅に低くなっているわけではありません。このことから、農業集落である北海道遺跡も官人による指導下にあったことが証明されます。

4 竪穴住居100軒あたりハマグリ出土箇所数
次に竪穴住居100軒あたりハマグリ出土箇所数を示します。

竪穴住居100軒あたりハマグリ出土箇所数
ハマグリ出土は東京湾から活貝を取り寄せ食したという奢侈活動があったことを示していて、権力者がその権力を行使したことを示しています。

白幡前遺跡が5.4で最も高くなっていて、権力の中心がこの遺跡に在ったことを示しています。
井戸向遺跡はハマグリ出土箇所がありません。白幡前遺跡と井戸向遺跡は一体の集落であり、権力者の居住場所が白幡前遺跡の領域であったため、縁辺部に位置する井戸向遺跡からのハマグリ出土が無かったと考えます。

北海道遺跡2.6、権現後遺跡3.0であり、双方の遺跡(集落)ともに権力を行使できる支配層に近い官人がいたと考えます。


5 竪穴住居1軒あたり墨書土器出土数
次に竪穴住居1軒あたり墨書土器出土数を示します。

竪穴住居1軒あたり墨書土器出土数
墨書土器の多くは、官人の指導下でプロジェクトに参加している住民(組織活動に従事した住民)が使ったものと考えます。
官人が一般住民の労働意欲を増すために、歴史上初めて「文字」を使って一般住民に働きかけた結果、墨書土器が生まれたのだと思います。おそらく文字の威力は住民の労働意欲向上に絶大な効果があったと想像します。

白幡前遺跡3.0、井戸向遺跡2.9、権現後遺跡3.1で似通った数値になっています。
これらの遺跡では活動はさまざまでしたが、官人指導下の組織活動が小集団ごとに行なわれていたと考えます。

北海道遺跡だけ1.4という小さい数値になっています。
北海道遺跡は農業開拓集落であり、当時は農業開拓は肉体重労働作業であり、恐らく奴婢や俘囚や低階層の住民が多く従事していたのだと思います。そのために、労働参加者に「文字」を使って働きかけてその労働意欲を向上させるという高度な労務管理は弱かったのだと思います。官人は直接的なアメとムチで住民を働かせていたのだと思います。

「竪穴住居○軒あたり□□数」という指標が有用であると考えるようになりました。

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