2017.10.12記事「短期集中学習 「奈良平安7開発集落の生業と消長」の開始」でスタートした学習が想像以上に面白いので、途中経過として自分が特段に興味を持った点をランダムメモしておきます。
1 鳴神山遺跡が大結馬牧であるという仮説がいわば「向こうからやってきて」生まれました。
千葉県公式歴史書(「千葉県の歴史」)の記述(大結馬牧船橋説)と真っ向から異なるので、興味がとても深いものになります。
機会が生れれば、その筋の専門家に教えを請い、大結馬牧印西説の蓋然性を高めたいと考えます。
2 過去検討をふりかえり反芻することにより、遺跡毎の特徴が鮮明に理解できるようになりました。
例えば鳴神山遺跡の漆は馬牛の皮を素材とし、隣の船尾白幡遺跡の漆は麻を素材とした乾漆であったこと。
3 古代遺跡GIS学習は鳴神山遺跡ではじめ船尾白幡遺跡、上谷遺跡で行いましたが、白幡前遺跡をはじめとする萱田遺跡群では本格GIS学習は行いませんでした。今からふりかえると鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡、上谷遺跡より萱田遺跡群の方がよりドラマチックな考古事象があり、もしGIS学習をすればより大きな学習成果を得られそうです。いつの日か萱田遺跡群についてGISをツールにして学習再チャレンジしたいと思います。
4 下総国台地上の古代開発集落は蝦夷戦争後大発展して9世紀第3四半頃ピークを迎え10世紀初頭頃にはほとんど衰滅します。この10世紀初頭頃の台地上開発集落消滅の理由がいままで皆目見当が付きませんでした。
ところが、7遺跡学習をふりかえると、おぼろげながらその理由がわかるような気になってきました。
9世紀末頃から10世紀にかけて律令国家の統治が弱まったのですが、その統治弱体化(現場から見れば権力空白の生起)に開発集落現場(体制、人)が対応できなかったという「対応力」の欠如が開発集落消滅の主因であると直観できるようになりました。
同じ社会情勢の変化、環境の変化があっても、ある社会はそれに対応して困難を克服して発展します。別の社会はそれに対応できないで破滅します。
開発集落現場が現代人の感覚をもっていたなら律令国家の統治が弱まってもその困難を乗り越えて平将門独立国家のようなものを形成して発展したと考えますが、当時の開発集落現場には対応力がなく、現場構成員が地道な生業を捨て逆にことごとく自由な盗賊集団に変身してしまったということです。
同じ時代水田耕作する集落は破滅せず、逆に発展していますから、牧をはじめとする台地集落構成員と水田耕作を行う低地集落構成員の気風や文化が大きく異なっていたと推定します。台地集落には強制された時だけ組織活動を行える気風の人々が多かったということです。
台地開発集落の一斉消滅の主因についてその仮説をイメージできましたので、今後検討を深めたいと思います。
風景
0 件のコメント:
コメントを投稿