2017年11月15日水曜日

7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)

2 7~10世紀下総国の出来事

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡を理解する背景知識が必要であると考え、7世紀から10世紀までの下総国の主な出来事を年表にまとめてみました。
646年大化の改新、663年白村江の敗北を経て国家の進出方向が東北に向かい、そのために鹿島神宮が重要な出撃拠点となったことを学習しました。
そして、8世紀前半から中頃にかけて下総国を東北進出巨大兵站基地にするために律令国家が開発ノウハウとパワーを投下したことを学習しました。
国府・国分寺の建設、東海道駅路の建設、馬牧・牛牧の建設、域内道路・舟運路・開発集落の建設が総合的にかつ有機的連携的に建設された様子は現代大規模開発と比べても見劣りしない構想力・企画力と巨大な建設パワーを感じることができ驚きます。
8世紀初頭に下総国兵站基地総合開発が始まったときから鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡がスタートします。

蝦夷戦争の時代下総国から膨大な物資や資材が東北へ向かったことを学習しました。兵站基地として下総国はその役割を大いに果たしたことを学習しました。

9世紀初頭蝦夷戦争が終結すると下総国開発集落は一斉に大発展します。鳴神山遺跡、船尾白幡遺跡も例外ではありません。
私は、戦争終結により国営開発集落が地元氏族に構成員ごと無償で払い下げられたような印象を持ちます。

その後開発集落は9世紀中ごろをピークに衰退傾向が顕著になり、9世紀末から10世紀初めにはほとんどの開発集落が衰滅してしまいます。

8世紀前半から中頃、下総国総合開発が歴史的画期であったことをこのように文字でまとめました。
鹿島神宮(地理的位置は常陸国)に記紀神話が適用されて東北出撃基地としてイデオロギー的にも整備され、それと連動して兵站基地インフラが総合整備されました。

東海道駅路網のうち武蔵国から市川(国府所在)を経て東京湾沿いに千葉方面に向かう本路を建設し、それを軸にそこから準幹線道路・舟運路を整備し、さらにその交通ネットワークに牧を貼り付けるという構想は現代地域開発の思考と変わりありません。国土計画思考の原点が8世紀にあることがわかります。

この図は墨書土器の分布を表したものですが、墨書土器風習は開発集落における労務管理、教化活動の一環であったと考えられますから、開発集落の活発さを表現しているとも言えます。
神様に言葉を口から発して祈願しても、その瞬間に言葉は消えてしまいますが、祈願の内容が消えないで記録されるという「文字」を始めて知った人々の感動はとても大きなものであったと考えます。

下総国が国家的観点による兵站基地であったことが、「東北移民大作戦」に下総国が含まれていないことからも判ります。
下総国の地名が東北に無いことは下総国からの移民が少なかったからだと考えます。
下総国は兵站基地を建設し、そこで多量の食糧や物資・資材を生産することが求められ、多くの人員を必要としていたと考えます。俘囚や全国の浮浪人等を受け入れる場であり、人材を外に出す(移民を出す)場ではなかったと考えます。

年表作成に役立った図書です。「日本の神々11」は「こういうことが知りたかったんだ」と思わずつぶやいてしまった、私にとって有用な図書です。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

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