学習中間報告として「7竪穴住居祭壇の様相」のまとめを予定しています。これまでは竪穴住居廃絶後に木製の祭壇(イナウ)がつくられてそこが送り場になったのではないだろうかとの空想図を掲げることで終えようとしていました。しかし、漆喰炉、漆喰貼床の強い祭祀性に気が付きましたので、その情報の補足検討を行いをまとめることにしました。
このように考えたキッカケは「縄文の思考」(小林達雄、ちくま新書、2008)の次の文章を読んだことによります。
「いずれにせよ、多くの場合、炉の底は加熱によって赤レンガのように固くなっている。それほどに炉に、火が絶やされずに維持され続けたことを意味する。ということは、火床=炉も十分な大きさをとれないとすれば、よほどこまめに、火を消さないように注意を怠らず、焚木をくべ続けるか、あるいはそれに代わって、火種を絶やさないような工夫が必要とされる。このことは決して些細なことではすまされなかったはずだ。住居内における重要課題であり、真剣に取り組まなければならない。それほど炉の存在は重みをもってくる。
そのくせ、天井の低い竪穴住居の炉の火は夜の暗闇に真昼ほどの明るさをもたらすに足るほどの火勢をあげることが出来なかった状況から憶測すれば、灯かりとり用の機能が主要な役目であったとは考えにくい。
同様に冬の暖房用としても、存分に火力をあげることは、屋内であることと炉の大ききに制約されていて、やはり暖房目的だけで火が燃やし続けられたとも考えにくい。
しかも、誰しもがすぐに思いつき易い、煮炊き料理用であったかと言えば、その可能性も全くないに等しいのだ。このことは極めて重要な問題である。とにかく、いくら屋内の炉で煮炊き料理をやっていた証拠を探し出そうにも、手掛りになるものは何一つ残されてはいない。不慮の火災で燃え落ちた、いわゆる焼失家屋に土器が残されていることはあっても、そこには煮炊きに無関係の、しかし呪術や儀礼にかかわるかのような特殊な形態の代物--釣手土器、異形台付土器、有孔鍔付土器--ばかりである。縄文人の食事の支度は、どうも通常、住居の外でなされていたものらしい。極北の地に生活するイヌイット(エスキモーの人々)達も、冬の厳寒期や雨風の激しい悪天候は別として、なるべく戸外で食事する傾向が強い。ましてや気候温和な日本列島の縄文人にあっては、屋内よりも戸外を好んだとしても合点がゆく。
つまり縄文住居の炉は、灯かりとりでも、暖房用でも、調理用でもなかったのだ。それでも、執鋤に炉の火を消さずに守りつづけたのは、そうした現実的日常的効果とは別の役割があったとみなくてはならない。火に物理的効果や利便性を期待したのではなく、実は火を焚くこと、火を燃やし続けること、火を消さずに守り抜くこと、とにかく炉の火それ自体にこそ目的があったのではなかったか。その可能性を考えることは決して思考の飛躍でもない。むしろ、視点を変えて見れば、つねに火の現実的効果とは不即不離の関係にある、火に対する象徴的観念に思いが至るのである。火を生活に採り入れた時点から、火の実用的効用とは別に世界各地の集団は、火に対して特別な観念を重ねてきた。その事例は、いまさらながら枚挙にいとまがない。縄文人も例外ではなかった。炉と炉の火に聖性を見出したのである。炉は単なる住居の一施設ではなく、住居の象徴であり、住居空間に肉体の居心地良さを与える空間以上の意味をもたらしたのが、他ならぬ炉と炉の火の象徴性なのであった。炉の火は体を暖めるものではなく、心を暖め、目に灯かりをもたらすものではなく、心の目印となるのである。だからこそ、炉は、住居の存在を保障しやがて家=イエ観念と結びつくに至るのだ。炉に石棒を立てる理由もここにある。」「縄文の思考」(小林達雄、ちくま新書、2008)から引用
要約すれば、縄文時代竪穴住居の炉は灯かりとりでも、暖房用でも、調理用でもなく、心を温め、心の目印となる象徴性、聖性がその役割であったということです。
縄文草期頃の炉穴には煙道があり強い火力で煮炊きができるように見受けられます。また古墳時代の竈にも煙道があり強い火力が期待できます。それと比べて漆喰炉の断面は単純な逆円錐形~皿状で、屋内にあることから強い火力を想定することはできません。そのため上記小林達雄の説は説得力があります。またこの説が正ならば、屋外における調理現場は必ず見つかるはずです。興味の連鎖が生れました。
この小林達雄の「炉=象徴性・聖性」説を参考に漆喰炉と漆喰貼床の役割を考えることにし、若干の補足調査をすることにします。
花見川風景
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