2018年7月19日木曜日

大膳野南貝塚後期集落最初期の時期区分

大膳野南貝塚後期集落(中期末葉~後期)最初期の時期区分について、学習促進のために思考した結果を記録しておきます。

1 発掘調査報告書の時期区分
大膳野南貝塚発掘調査報告書における後期集落(中期末葉~後期)最初期の時期区分は●加曽利E4~称名寺古式期→●称名寺~堀之内1古式期の2段階となっています。その説明では、加曽利E4~称名寺古式期が集落成立期であり、積極的な採貝活動の痕跡は確認できないとしています。称名寺~堀之内1古式期になると「漆喰」の使用が行われ始める時期であり、本格的な採貝活動と貝殻利用が開始された時期であるとしています。

加曽利E4~称名寺古式期説明 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・加筆

称名寺~堀之内1古式期説明 大膳野南貝塚発掘調査報告書から引用・加筆

2 発掘調査報告書時期区分に従うと生まれる非連続性
発掘調査報告書時期区分に従って学習を進めると加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期の間に次のような非連続性が生れてしまい、集団が入れ替わったと考えざるをえなくなります。

後期集落最初期に集団が入れ替わった可能性
特に加曽利E4~称名寺古式期の葬送形式が集骨葬(再葬)であり、称名寺~堀之内1古式期は伸展葬ですから全く異なり、集団のルーツが異なると考えざるをえません。

しかし、称名寺~堀之内1古式期の次の集落急発展期の堀之内1式期になると漆喰貝層無の竪穴住居が再び出現します。一度途絶した集団が再び戻ってきて漆喰貝層有竪穴住居の人々と同化したようなイメージになり、大変不自然です。

漆喰貝層有無別にみた竪穴住居軒数
漆喰貝層有無という視点からみると加曽利E4~称名寺古式期、称名寺~堀之内1古式期という時期区分が情報のスムーズな理解の妨げになっているように感じられます。このような時期区分は学習者からみると合理性がないように直観できます。

次のように上記竪穴住居件数表をまとめると情報理解がスムーズになります。

漆喰貝層有無別にみた竪穴住居軒数(集計時期調整)
後期集落学習では加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を最初期として一括して扱ってきました。

3 最初期を一括して扱うことの合理性
最初期の実際の土器出土状況を詳しく調べてみると次のようになります。

大膳野南貝塚後期集落最初期の時期区分
発掘調査報告書で称名寺~堀之内1古式期としている竪穴住居のうちJ34とJ44は実は加曽利E4~称名寺式期の土器が出ていて称名寺~堀之内1古式期に分類するのは無理筋であることがわかります。恐らく「漆喰貝層無=加曽利E4~称名寺古式期」、「漆喰貝層有=称名寺~堀之内1古式期」という図式が出来て、それに当てはめるためにJ34とJ44で無理をしたのだと思います。J34とJ44の無理を正して再度時期区分しようとして、加曽利E4~称名寺(古)式期というくくりでは5軒の竪穴住居が入ることになります。加曽利E4でくくれば7軒になります。称名寺式でくくれば8軒になります。つまり集落の最初から漆喰貝層有と漆喰貝層無の竪穴住居が一緒に存在していたことが土器出土状況を指標にして明らかになると考えます。
加曽利E4~称名寺古式期と称名寺~堀之内1古式期を一括して扱うという私が行った学習上の便宜的操作は、大膳野南貝塚後期集落消長の大局観を得る上で合理的であると考えます。

参考 2018.06.03記事「検討課題メモ 出土土器型式による竪穴住居時期区分の照査

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