図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」を学習しました。
人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣) 箱
土器塚と西根遺跡の出自を考える上で多くの知識とヒントを得ることができましたのでメモしておきます。
1 集落外縁帯に1集落1カ所立地する土器塚
この文献では1新貝塚と「米沢村の土器塚」、2佐倉市遠部台遺跡の土器塚、3江原台遺跡(曲輪ノ内貝塚)の土器塚、4吉見台遺跡の土器塚、5井野長割遺跡の土器塚について事例を検討しています。
印旛沼南岸の後晩期集落
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
そして、次のような興味ある分析を行っています。
「土器塚が谷奥型環状遺丘集落を構成する単位と目されるマウンドに付随して形成された井野長割遺跡を代表例として、遠部台型土器塚のすべてが環状構造の外縁帯に付随するようにして、1集落に1ヵ所のみが形成されるという規範は、土器塚を遺跡形成との関わりで考える際に見事に一致している重要な事実である。筆者はこれらのマウンドは、継続的な居住活動の累積の結果に形成された居住集団の単位的な生活痕跡の累積と考えている(阿部ほか2004)。したがって、土器塚の形成は集落構成員のなかでも、とくに限定された居住集団によって維持管理されていたものと考えたい。甲野勇がかつて想定した「土器作りのムラ」とも関係するが、土器という容器製作を統制する特定集団の存在を、土器塚に近接した遺丘を形成した集団が担った可能性を指摘したいのである。」
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
1集落1カ所の土器塚分布から、土器塚を維持管理したのが土器づくりに関わる集落内特定集団であると考察しています。
私は集落リーダー家族(集団)がアク抜き技術ソフトとそれに使う土器づくりハードを担っていたと学習してきましたから、上記考察は学習結果とよく整合します。
2017.08.27記事「土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6」参照
さて、この図書では何故土器塚が作られたのか、土器塚とはそもそも何者であるのか、一切説明がありません。
考古論文・資料を読んでいていつもぶつかる不思議にこの図書でもぶつかりました。
著者にそのイメージが無いはずはありませんが、不確かなことを書くことは科学ではないということだと思います。
私は上記記事で、土器破壊は主食確保を祝う収穫祭における丁寧な道具送りであると考えました。
土器塚が収穫祭の跡を示す遺構であるとすれば、それが集落1カ所に限定されその主催者が集落リーダー家族であることは当然です。
さて、私が次に興味を持つのは集落外延帯に土器塚が立地するという特性ですので、交通との関係から次項で検討します。
2 集落外縁帯立地と交通との関係
土器塚がどこでも集落外縁帯に立地している意味はこの図書では記述されていません。
また、土器塚が道路と深いつながりがあることも述べられていません。
しかし、大きな意味がその位置と道路存在に隠されていると考えます。
2-1 遠部台遺跡土器塚の集落立地位置と道路
以前の記事で遠部台遺跡土器塚が交通と深いかかわりがることを考察しました。
「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
2017.08.24記事「印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4」参照
さらに、「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項(執筆者 阿部芳郎)には、この遠部台遺跡土器塚の下部から道路遺構(東西方向)が出土した旨記述があります。この土器塚が印旛沼へ抜ける道路を含む交通の要衝(交差点?)に存在していたことは確実です。そしてその位置が集落外縁帯です。
2-2 井野長割遺跡土器塚の集落立地位置と道路
井野長割遺跡土器塚も集落外縁帯に立地し、道路(交差点?)に面しています。
井野長割遺跡の立地と土器塚の位置
「阿部芳郎(2012):縄文後期の集落と土器塚-「遠部台型土器塚」の形成と加曽利B式期の地域社会-、人類史と時間情報~「過去」の形成過程と先史考古学~(雄山閣)」から引用
交差点から西へ向かう道路は他の資料をみると近くのより規模の大きな谷津方面へ向かっていて、印旛沼と結んでいる可能性があります。
2-3 土器塚が集落外縁帯の道路(交差点?)に立地する意味
土器塚とはそもそも土器を使った主食確保を祝う収穫祭における廃用土器の丁寧な道具送り跡であると考えます。
この考えから次のような意味を仮説します。
ア 集落外縁帯立地の意味
集落集団、あるいは近隣分家集落を含めた集団だけの収穫祭ならば、その場所を集落の外縁にもってくことは考えづらいことです。マウンドや竪穴住居のあるゾーンの内側に存在することが合理的です。
大膳野南貝塚の学習では集落の共同作業場などは竪穴住居ゾーンの内側にありました。
生業作業は内側で行うけれども、収穫祭の場所を竪穴住居ゾーンの外側に持っていくことの理由は、その祭祀が集落集団だけのものではないからだと思います。
家族の健康を祈願するような祭祀は竪穴住居でおこなわれたと考えますが、収穫祭は集団だけのものではなかったと考えます。
イ 道路(交差点?)立地の意味
道路(交差点?)立地の意味は集落外縁帯立地よりもより直接に、収穫祭祭祀が集団以外の外者と深く関係していることを物語っていると考えます。
ウ 収穫祭が贈与関係に基づく祭祀であるとする仮説
次のように仮説します。
縄文時代収穫祭は集落集団(近隣分家集団も含めて)だけでそれを祝うことはあまりにも利己的であり到底許されなかったのだと思います。
近隣や遠方からさまざまな贈与を集落は得て存立していたと考えます。東京湾の貝、村田川流域付近で獲れる獣肉、…翡翠、…。
そうした贈与関係のなかで行う収穫祭では近隣や遠方から多くの人を招いて、いわば公開された祭祀を行ったのだと仮説します。
堅果類主食が1年分賄えるお祝いを近隣・遠方の贈与関係者を招いて行い、宴会を行い、イオマンテを行い、帰りには沢山のお土産を招待者にもたせたと想像します。
そのお祭りの一環として廃用土器を壊して土器送りしたと考えます。
このように仮説すると、祭祀会場は集落内部ではなく集落近くの広い会場で、交通の便のよいところになります。
2017年8月28日月曜日
2017年8月27日日曜日
土器破壊の意味…収穫祭 土器塚学習6
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):遺跡群と生業活動からみた縄文後期の地域社会、縄文社会を探る(学生社)」を学習しました。
1 粗製土器はアク抜きなどの食料加工道具
その中で粗製土器は食料加工の道具であることを学びました。
2017.08.25記事「低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5」参照
これまで粗製土器で煮炊きをしていたことは漠然と知っていましたが、この図書で粗製土器が「下ごしらえ用」の土器であることに意識が向き、著者が編集している図書「考古学の挑戦」(岩波ジュニア新書)や「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県)などの関連する部分を読んでみました。
考古学の挑戦(岩波ジュニア新書)
これらの図書を読んで加曽利B式土器が集落人口を養う主食を賄うための堅果類アク抜き装置であることを知りました。
トチの実をはじめ各種ドングリをそれぞれの方法でアクを抜くときの重要なステップにおける煮沸用容器が加曽利B式土器です。
「秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工」(阿部芳郎、縄文社会を探る)で使われたのが加曽利B式土器で、そのうちおおきなものは70リットルにもなります。
西根遺跡出土大型粗製加曽利B式土器(容量69.7リットル)千葉県教育委員会所蔵
・第4集中地点
・壺A3
・口径35.7㎝、底径8.8㎝、器高74.1㎝、重量12.2㎏、容量69.7l
・残存度90%
・被熱、底面外面下端が摩滅
2 粗製土器破壊の意味…収穫祭
1の学習をしていて、突然自分の思考が変化しました。得た各種知識を自分なりに統合した瞬間があったということです。
思考の変化は一挙に全体的に生まれたのですが、それを文章にすると長くなるでしょうから、箇条書きにして記録します。
・粗製土器を使ってトチの実など堅果類をアク抜きして食料をつくることは、それで主食を生み出すのだから、縄文人が生きてゆきさらに繁栄するためには最重要活動であった。
・トチの実などの収穫はやさしいことであったが、アク抜き技術は当時のハイテク技術であり、専門的活動であった。
・アク抜き技術というハイテク技術(ソフト技術)は粗製土器づくり(ハード技術)と結びついた専門的な技術であった。
・収穫した多量のトチの実などのアク抜きによる食糧化は労働集約的であり、一族郎党が集団で取り組んだ。(狭い意味での集落を越えて広域的な労働作業だった。)
・アク抜き技術(ソフトと土器づくり)と一時的労働集約活動を担ったのは一族郎党のリーダー(頭領)であった。主要集落のリーダーがそれに該当する。
・夏から秋にかけて多量のトチの実などを収穫し、粗製土器をつかって新実によるおいしい食糧を食べられるようになった段階で、縄文人は収穫祭を行った。
・収穫祭では壊れた粗製土器にそれまでの効用を感謝してそれを破壊し土器の精霊を解放した(土器を送った)。
・破壊した土器は祭場近くに積み上げた。(土器塚)
・収穫祭ではご馳走の獣肉などもふるまわれた。(獣骨出土…西根遺跡)
・収穫祭会場や土器塚には祭壇(イナウ)が設けられていた。(イナウ出土…西根遺跡)
・収穫祭は一族郎党リーダーが取り仕切り、一族郎党が参加した。(主要集落で収穫祭が行われ、周辺集落からも参加した)
このように考えると土器塚や西根遺跡の土器集中の意味を自分なりに合理的に捉えることができます。
土器塚や西根遺跡土器集中は収穫祭の跡であったという思考です。
粗製土器が食糧増産ハイテク技術の一環であることから特別視され、壊れたものは丁寧に破壊された(送られた)という思考です。
土器塚や西根遺跡土器集中における破壊された土器片現物の背後には、それに代わる既に稼働している新品粗製土器の存在を見る(透視する)ことができます。新品粗製土器で多量のトチの実などをアク抜きして食料増産している集落の姿も見る(透視する)ことができます。
破壊された土器片の大量出土が主食確保収穫祭の跡であると考えると、土器塚の解釈は土器塚が集落にあるのでそれで出来そうです。
一方、西根遺跡では集落から離れているのでその解釈は単純ではありません。
西根遺跡ではこれまでミナト廃絶祭祀、翡翠入手と関連付けて考えてきていますが、土器破壊が収穫祭-ミナト廃絶-翡翠入手というストーリーになるか、じっくり検討します。
土器塚はローカルな収穫祭跡、西根遺跡は印旛浦広域の収穫祭跡という収穫祭の階層性も検討視野に入ります。
1 粗製土器はアク抜きなどの食料加工道具
その中で粗製土器は食料加工の道具であることを学びました。
2017.08.25記事「低地水場の堅果類加工場 土器塚学習5」参照
これまで粗製土器で煮炊きをしていたことは漠然と知っていましたが、この図書で粗製土器が「下ごしらえ用」の土器であることに意識が向き、著者が編集している図書「考古学の挑戦」(岩波ジュニア新書)や「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県)などの関連する部分を読んでみました。
考古学の挑戦(岩波ジュニア新書)
これらの図書を読んで加曽利B式土器が集落人口を養う主食を賄うための堅果類アク抜き装置であることを知りました。
トチの実をはじめ各種ドングリをそれぞれの方法でアクを抜くときの重要なステップにおける煮沸用容器が加曽利B式土器です。
「秋に一斉に実を落とす堅果類を一度に加工して、大量にアク抜きなどの下ごしらえを行なうという集約的な食料加工」(阿部芳郎、縄文社会を探る)で使われたのが加曽利B式土器で、そのうちおおきなものは70リットルにもなります。
西根遺跡出土大型粗製加曽利B式土器(容量69.7リットル)千葉県教育委員会所蔵
・第4集中地点
・壺A3
・口径35.7㎝、底径8.8㎝、器高74.1㎝、重量12.2㎏、容量69.7l
・残存度90%
・被熱、底面外面下端が摩滅
2 粗製土器破壊の意味…収穫祭
1の学習をしていて、突然自分の思考が変化しました。得た各種知識を自分なりに統合した瞬間があったということです。
思考の変化は一挙に全体的に生まれたのですが、それを文章にすると長くなるでしょうから、箇条書きにして記録します。
・粗製土器を使ってトチの実など堅果類をアク抜きして食料をつくることは、それで主食を生み出すのだから、縄文人が生きてゆきさらに繁栄するためには最重要活動であった。
・トチの実などの収穫はやさしいことであったが、アク抜き技術は当時のハイテク技術であり、専門的活動であった。
・アク抜き技術というハイテク技術(ソフト技術)は粗製土器づくり(ハード技術)と結びついた専門的な技術であった。
・収穫した多量のトチの実などのアク抜きによる食糧化は労働集約的であり、一族郎党が集団で取り組んだ。(狭い意味での集落を越えて広域的な労働作業だった。)
・アク抜き技術(ソフトと土器づくり)と一時的労働集約活動を担ったのは一族郎党のリーダー(頭領)であった。主要集落のリーダーがそれに該当する。
・夏から秋にかけて多量のトチの実などを収穫し、粗製土器をつかって新実によるおいしい食糧を食べられるようになった段階で、縄文人は収穫祭を行った。
・収穫祭では壊れた粗製土器にそれまでの効用を感謝してそれを破壊し土器の精霊を解放した(土器を送った)。
・破壊した土器は祭場近くに積み上げた。(土器塚)
・収穫祭ではご馳走の獣肉などもふるまわれた。(獣骨出土…西根遺跡)
・収穫祭会場や土器塚には祭壇(イナウ)が設けられていた。(イナウ出土…西根遺跡)
・収穫祭は一族郎党リーダーが取り仕切り、一族郎党が参加した。(主要集落で収穫祭が行われ、周辺集落からも参加した)
このように考えると土器塚や西根遺跡の土器集中の意味を自分なりに合理的に捉えることができます。
土器塚や西根遺跡土器集中は収穫祭の跡であったという思考です。
粗製土器が食糧増産ハイテク技術の一環であることから特別視され、壊れたものは丁寧に破壊された(送られた)という思考です。
土器塚や西根遺跡土器集中における破壊された土器片現物の背後には、それに代わる既に稼働している新品粗製土器の存在を見る(透視する)ことができます。新品粗製土器で多量のトチの実などをアク抜きして食料増産している集落の姿も見る(透視する)ことができます。
破壊された土器片の大量出土が主食確保収穫祭の跡であると考えると、土器塚の解釈は土器塚が集落にあるのでそれで出来そうです。
一方、西根遺跡では集落から離れているのでその解釈は単純ではありません。
西根遺跡ではこれまでミナト廃絶祭祀、翡翠入手と関連付けて考えてきていますが、土器破壊が収穫祭-ミナト廃絶-翡翠入手というストーリーになるか、じっくり検討します。
土器塚はローカルな収穫祭跡、西根遺跡は印旛浦広域の収穫祭跡という収穫祭の階層性も検討視野に入ります。
2017年8月24日木曜日
印旛沼舟運と土器塚 土器塚学習4
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項の学習の一環として文献「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」を学習しています。
この文献で興味を持った点は2点あり、1点は土器の砕片化と集積ブロックに関する現場実証的検討です。この興味は2017.08.23記事「土器破壊行為と運搬投棄 土器塚学習3」で書きました。
もう1点は土器塚の空間的位置関係です。
土器塚の集落空間内位置関係に関する考察はこの論文では行われていなようです。しかし、掲載されている図面からかなり明白な情報が読み取れるので興味を持ちました。
1 遠部台遺跡土器塚と交通
論文に掲載されている「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」をみると土器塚が台地から印旛沼に続く小谷津に位置していることがわかります。
この小谷津は付近の地形から判断して台地集落と印旛沼を結ぶ主要道路であったことは付近に印旛沼と台地を結ぶ地形が他にないので確実です。
そこで、中学で習った幾何学補助線のような観点から台地と印旛沼を結ぶ道路を「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」に書き込むと次のようになります。
「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
この図を見ると、土器塚が台地集落の端の印旛沼に降りる出口(印旛沼から集落にやってきた時の集落入口)に位置していることが読み取れます。
土器塚は印旛沼舟運と何らかの関わりがあると考えることが、何も考えないよりも合理的な思考であると考えます。
土器塚(が象徴する土器破壊祭祀)は交通(印旛沼舟運)と関わっていて、広域コミュニケーションネットワークの中で存在していたことがしのばれます。
なお、西根遺跡でイメージした「現代風に考えれば神社みたいなもの」というイメージを遠部台遺跡土器塚にあてはめてみると、違和感は生まれません。
西根遺跡にかんする空想では、西根遺跡が手賀沼方面交通との関わりが明白ですから、手賀沼のさらに先の東北や北陸との関係まで夢想しましたが、遠部台遺跡土器塚ではどのような空想・夢想が可能であるか興味が深まります。
2 参考 戦前の台地道路
25000分の1旧版地形図に調査地点位置図を重ねると次のようになります。
旧版地形図と遠部台遺跡における調査地点位置図のオーバーレイ
このオーバーレイ図をみると思考補助線として書き込んだ縄文時代道路と同じ場所で戦前の道路(点線)が台地から印旛沼低地に降りている(低地から台地に上っている)ことが確認できます。
縄文時代から現代までこの場所は台地と印旛沼を結ぶポイントだったのです。
この文献で興味を持った点は2点あり、1点は土器の砕片化と集積ブロックに関する現場実証的検討です。この興味は2017.08.23記事「土器破壊行為と運搬投棄 土器塚学習3」で書きました。
もう1点は土器塚の空間的位置関係です。
土器塚の集落空間内位置関係に関する考察はこの論文では行われていなようです。しかし、掲載されている図面からかなり明白な情報が読み取れるので興味を持ちました。
1 遠部台遺跡土器塚と交通
論文に掲載されている「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」をみると土器塚が台地から印旛沼に続く小谷津に位置していることがわかります。
この小谷津は付近の地形から判断して台地集落と印旛沼を結ぶ主要道路であったことは付近に印旛沼と台地を結ぶ地形が他にないので確実です。
そこで、中学で習った幾何学補助線のような観点から台地と印旛沼を結ぶ道路を「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」に書き込むと次のようになります。
「図10 遠部台遺跡地形測量図(阿部他2000b)」書き込み図
原図は「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究、明治大学人文科学研究所紀要 第50冊1-34」から引用
この図を見ると、土器塚が台地集落の端の印旛沼に降りる出口(印旛沼から集落にやってきた時の集落入口)に位置していることが読み取れます。
土器塚は印旛沼舟運と何らかの関わりがあると考えることが、何も考えないよりも合理的な思考であると考えます。
土器塚(が象徴する土器破壊祭祀)は交通(印旛沼舟運)と関わっていて、広域コミュニケーションネットワークの中で存在していたことがしのばれます。
なお、西根遺跡でイメージした「現代風に考えれば神社みたいなもの」というイメージを遠部台遺跡土器塚にあてはめてみると、違和感は生まれません。
西根遺跡にかんする空想では、西根遺跡が手賀沼方面交通との関わりが明白ですから、手賀沼のさらに先の東北や北陸との関係まで夢想しましたが、遠部台遺跡土器塚ではどのような空想・夢想が可能であるか興味が深まります。
2 参考 戦前の台地道路
25000分の1旧版地形図に調査地点位置図を重ねると次のようになります。
旧版地形図と遠部台遺跡における調査地点位置図のオーバーレイ
このオーバーレイ図をみると思考補助線として書き込んだ縄文時代道路と同じ場所で戦前の道路(点線)が台地から印旛沼低地に降りている(低地から台地に上っている)ことが確認できます。
縄文時代から現代までこの場所は台地と印旛沼を結ぶポイントだったのです。
2017年8月23日水曜日
土器破壊行為と運搬投棄 土器塚学習3
1 文献「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」の学習
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項とそこに掲載されている参考文献を使って土器塚の学習を始めています。
参考文献の多くが千葉県内図書館には収蔵されていないので、うまく都合がついたこともありて国会図書館で資料を閲覧しました。
参考文献リストには掲載されていないのですが、「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」をみつけ、学習しました。著者は図書の「土器塚」の項執筆者ですから、より新しい情報を入手できたと思います。
この論文では遠部台遺跡について精査しています。
この論文学習により有益なヒントを2つ得ることができましたので、以下メモします。
2 土器破壊行為と運搬投棄
論文では土器塚の土器集積について詳しく検討していて、私は次の2つの観察に基づく概念に興味をいだきました。
2-1 土器の砕片化
最初に縄文土器は人為的に砕片化されている場合が多いことを述べています。
・土器が道具としての機能を消失するにいたる、使用あるいは保管の途上における土器の破損を一次破損と仮に定義する。
・多くの遺跡から発見される縄文土器は、その大半が二次的な破損の結果であることを示唆している。
・縄文土器の多くが小さな破片となって、さらにその破片にいたる経過には、自然的な要因によるよりも、多分に人為的な要因による破片化の過程が関与している場合がある。これを砕片化と呼ぶ。
2-2 集積ブロック
遠部台遺跡土器塚の観察から集積ブロックという概念を導いています。
・夥しい土器層の内部は、個々の土器片の傾きや集中の度合いからみると、土器層は、大人が一抱えほどの量のまとまりから成り立つことで、これを仮に集積ブロックと呼んだ。それらは、さらに水平に数枚の土器片を重ねたまとまりや、垂直に数枚の土器片を立てたものなど、いくつかの違いを認めることができることである。
集積ブロックの説明写真
「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」から引用
3 考察
3-1 遠部台遺跡と西根遺跡の違い
大人が一抱え程度の集積ブロックから遠部台土器塚が構成されていることが論文の記述から分かります。
大変興味ある概念です。
土器が人為的に破壊されて土器塚に集積ブロックを単位として持ち込まれたという様子がわかりました。
そして、西根遺跡における土器集中は発掘調査報告書の記述や写真等からこのような集積ブロックではないと直観できます。
西根遺跡の土器復元率の方が遠部台土器塚よりはるかに良いようです。
3-2 遠部台遺跡と西根遺跡の違い理由 利用できる空間の余裕
遠部台遺跡土器塚と西根遺跡土器集中域の違いから土器破壊の様子が色々と考察できる可能性があります。
次のような想定をメモしておきます。
・遠部台遺跡土器塚
既にその場所に土器塚があるので、土器塚脇で土器を壊し、一抱えした土器破片を土器塚に人力で持ち込み(運搬)、適当な場所に投げた(投棄)。運搬といってもたかだか数メートルだったのかもしれません。
・西根遺跡
姿を残す廃用土器を丸木舟で持ち込み、持ち込んだ場所で破壊した。破壊した土器片を散ばらせるようなことはしたけれども、それ以上に移動させることはないので復元すると復元率がとてもよい。
水中に投げた土器(流路底から出土する土器)の復元率は特に良い。
西根遺跡では塚という固定空間は意識されていないで平面的に順次土器が破壊され配置された。
西根遺跡で塚が形成されなかった理由は広い空間を自由に利用できるので、わざわざ塚に破壊土器片を押し込める必要がないことが主要因だと思います。塚を作るような無駄な労力は避けたのだと思います。
また湿地で足場が悪く、土器を壊す場所(硬く乾いている地面)を継続確保できないことも理由に加わるかもしれませんが本質ではないと思います。
・遠部台遺跡土器塚(再思考)
西根遺跡で土器塚が作られなかった理由を踏まえて遠部台遺跡土器塚について再思考すると次のような思考にたどり着きます。
遠部台遺跡土器塚は集落域内部であり、広い空間を破壊土器置き場(広義祭祀の場)として利用できません。集落土地利用がそれを許しません。土器破壊の場(狭義祭祀の場)で生まれた土器片は(しかたなく)一カ所にうず高く積んだのだと思います。
その積んだ様子を阿部芳郎さんが集積ブロックとして観察されたということです。
・塚の意味
このように思考してくると土器塚というテーマでは、塚という形状には出発点においては本質的なものはなく、土器破壊という行為(祭祀行為)にこそ本質をみることができます。
まとめると次のようになります。
・遠部台遺跡土器塚…土器破壊行為(祭祀そのもの)は土器塚の近くで、結果生まれた土器破片は土器塚に運搬し投棄する。
・西根遺跡…土器破壊行為(祭祀そのもの)がそのまま残る。(土器破片の運搬はない。破壊行為の一環として土器破片を周辺にばらまいたようなことはあったと想像します。)
つづく
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項とそこに掲載されている参考文献を使って土器塚の学習を始めています。
参考文献の多くが千葉県内図書館には収蔵されていないので、うまく都合がついたこともありて国会図書館で資料を閲覧しました。
参考文献リストには掲載されていないのですが、「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」をみつけ、学習しました。著者は図書の「土器塚」の項執筆者ですから、より新しい情報を入手できたと思います。
この論文では遠部台遺跡について精査しています。
この論文学習により有益なヒントを2つ得ることができましたので、以下メモします。
2 土器破壊行為と運搬投棄
論文では土器塚の土器集積について詳しく検討していて、私は次の2つの観察に基づく概念に興味をいだきました。
2-1 土器の砕片化
最初に縄文土器は人為的に砕片化されている場合が多いことを述べています。
・土器が道具としての機能を消失するにいたる、使用あるいは保管の途上における土器の破損を一次破損と仮に定義する。
・多くの遺跡から発見される縄文土器は、その大半が二次的な破損の結果であることを示唆している。
・縄文土器の多くが小さな破片となって、さらにその破片にいたる経過には、自然的な要因によるよりも、多分に人為的な要因による破片化の過程が関与している場合がある。これを砕片化と呼ぶ。
2-2 集積ブロック
遠部台遺跡土器塚の観察から集積ブロックという概念を導いています。
・夥しい土器層の内部は、個々の土器片の傾きや集中の度合いからみると、土器層は、大人が一抱えほどの量のまとまりから成り立つことで、これを仮に集積ブロックと呼んだ。それらは、さらに水平に数枚の土器片を重ねたまとまりや、垂直に数枚の土器片を立てたものなど、いくつかの違いを認めることができることである。
集積ブロックの説明写真
「阿部芳郎(2002):縄文土器の集中保有化現象と遺跡形成に関する研究」から引用
3 考察
3-1 遠部台遺跡と西根遺跡の違い
大人が一抱え程度の集積ブロックから遠部台土器塚が構成されていることが論文の記述から分かります。
大変興味ある概念です。
土器が人為的に破壊されて土器塚に集積ブロックを単位として持ち込まれたという様子がわかりました。
そして、西根遺跡における土器集中は発掘調査報告書の記述や写真等からこのような集積ブロックではないと直観できます。
西根遺跡の土器復元率の方が遠部台土器塚よりはるかに良いようです。
3-2 遠部台遺跡と西根遺跡の違い理由 利用できる空間の余裕
遠部台遺跡土器塚と西根遺跡土器集中域の違いから土器破壊の様子が色々と考察できる可能性があります。
次のような想定をメモしておきます。
・遠部台遺跡土器塚
既にその場所に土器塚があるので、土器塚脇で土器を壊し、一抱えした土器破片を土器塚に人力で持ち込み(運搬)、適当な場所に投げた(投棄)。運搬といってもたかだか数メートルだったのかもしれません。
・西根遺跡
姿を残す廃用土器を丸木舟で持ち込み、持ち込んだ場所で破壊した。破壊した土器片を散ばらせるようなことはしたけれども、それ以上に移動させることはないので復元すると復元率がとてもよい。
水中に投げた土器(流路底から出土する土器)の復元率は特に良い。
西根遺跡では塚という固定空間は意識されていないで平面的に順次土器が破壊され配置された。
西根遺跡で塚が形成されなかった理由は広い空間を自由に利用できるので、わざわざ塚に破壊土器片を押し込める必要がないことが主要因だと思います。塚を作るような無駄な労力は避けたのだと思います。
また湿地で足場が悪く、土器を壊す場所(硬く乾いている地面)を継続確保できないことも理由に加わるかもしれませんが本質ではないと思います。
・遠部台遺跡土器塚(再思考)
西根遺跡で土器塚が作られなかった理由を踏まえて遠部台遺跡土器塚について再思考すると次のような思考にたどり着きます。
遠部台遺跡土器塚は集落域内部であり、広い空間を破壊土器置き場(広義祭祀の場)として利用できません。集落土地利用がそれを許しません。土器破壊の場(狭義祭祀の場)で生まれた土器片は(しかたなく)一カ所にうず高く積んだのだと思います。
その積んだ様子を阿部芳郎さんが集積ブロックとして観察されたということです。
・塚の意味
このように思考してくると土器塚というテーマでは、塚という形状には出発点においては本質的なものはなく、土器破壊という行為(祭祀行為)にこそ本質をみることができます。
まとめると次のようになります。
・遠部台遺跡土器塚…土器破壊行為(祭祀そのもの)は土器塚の近くで、結果生まれた土器破片は土器塚に運搬し投棄する。
・西根遺跡…土器破壊行為(祭祀そのもの)がそのまま残る。(土器破片の運搬はない。破壊行為の一環として土器破片を周辺にばらまいたようなことはあったと想像します。)
つづく
2017年8月21日月曜日
カワラケについて 土器塚学習2
図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)の「土器塚」の項とそこに掲載されている参考文献を使って土器塚の学習を始めます。
この記事では用語「カワラケ」について派生した興味をメモしておきます。
1 土器塚の呼び名
図書では「「土器塚」という名称の由来」という項目があり、「土器塚(どきづか)という用語は江戸時代にまでさかのぼり、「江戸名所図会」には「土器塚」の名称を見ることができる。ただし、当時は「かわらけづか」とよばれていたらしい。」という趣旨の記述があります。
自分には基礎知識がないので、一応調べてみました。
江戸名所図会の駒場野の近くに土器塚(かわらけづか)という項目があり次のような記述があります。
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」における土器塚(かわらけづか)記述
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用
参考 「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」駒場野
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用
調べるとこの土器塚(かわらけづか)は現在東京都目黒区遺跡№53土器塚遺跡(かわらけづかいせき)として埋蔵文化財登録されています。目黒区ホームページでは「発掘調査によって、弥生時代後期(約2千年前)の竪穴住居跡竪穴住居址48軒と、集落を囲む環濠かんごうの一部が発見され、弥生時代に特徴的な環濠集落であったことが判明しました。」と書かれています。
カワラケ(土器)が沢山出土する塚なのでカワラケヅカ(土器塚)と呼ばれ、カワラケ(土器)の最初の研究対象になったものと考えます。
カワラケヅカ(土器塚)はカイヅカ(貝塚)と横並びになるような名詞であり、カワラケ(土器)が塚のようになっている場所(カワラケが沢山ある場所)という意味であると理解します。
駒場野のカワラケヅカ(土器塚)は一般名詞から地名(固有名詞)に変化したものだと理解します。
一般名称としてのカワラケヅカ(土器塚)という呼び名が、現在なぜドキヅカ(土器塚)と呼ばれるように変化したのか、図書には説明がありません。しかし、土器塚の呼び名は西根遺跡をめぐる問題意識とは直接関係しないことが明白になりました。
以下は関連して派生した興味メモです。
2 カワラケに関する派生興味
2-1 カワラケの語源
カワラケの辞書説明は次のようになります。
……………………………………………………………………
かわら‐け かはら‥【土器】
〖名〗 (食器として用いる瓦笥(かわらけ)の意)
① 釉(うわぐすり)をかけないで焼いた陶器。素焼きの陶器。古くは食器として用いたが、のち、行灯(あんどん)の油ざらなどに用いられた。
*延喜式(927)四「九月神甞祭〈略〉土器(かわらけ)四千五百口」
*枕(10C終)一三二「聰明(そうめ)とて、上にも宮にも、あやしきもののかたなど、かはらけに盛りてまゐらす」
② 素焼きの杯。酒を飲む器。
*伊勢物語(10C前)六〇「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」
*源氏(1001‐14頃)賢木「中将、御かはらけまゐり給ふ」
③ (杯を、人にすすめたり、人から受けたりするところから) 酒盛り。酒宴。
*宇津保(970‐999頃)祭の使「御かはらけ始まり、御箸下りぬる程に」
④ 女性が年ごろになっても、陰部に毛がはえないのをいう俗語。また、その女性。
*俳諧・鷹筑波(1638)一「けのなひ物をかはらけといふ その比(ころ)はうねめの年や十二三〈不竹〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
……………………………………………………………………
カワラケは瓦笥であると説明されていますが、瓦笥(カワラケ)の語源にかかわる説明はありません。
私は「モノノケ」などと同じ語法であり、瓦(カワラ)+気(ケ)と解釈し「瓦の気配」のような印象の言葉であると考えます。
地表に露出した「煎餅のように押しつぶされた」縄文・弥生時代土器の様子をみて「瓦のようだ」という趣旨の感想を持ったことが語源ではないかと推測します。
カワラケは古墳時代人が縄文・弥生土器露出露頭の観察から生まれた言葉に違いないと考えるので興味を持ちます。
ドキ(土器)、ハニ、ハネ、ハジ、スエなど土器に関する言葉はいろいろありますがこれらの正統用語とは別に、「縄文・弥生時代の土器が地表に露出しているところがどこでも沢山あった風景なので、その風景観察の感想から生まれた用語」としてカワラケを考えると興味が湧きます。
カワラケという言葉には古代人の土器露出露頭観察の感想が含まれていると考えます。
2-2 千葉県における地名カワラケ、ドキの確認
私家版千葉県小字データベース(千葉県地名大辞典 角川 小字一覧の電子データベース版)を検索すると「カワラケ」4件、「ドキ」5件がヒットしました。
千葉県の小字カワラケ4件
千葉県の小字ドキ5件
これらの地名が土器露出露頭の存在を意味するのか、それとも瓦や須恵器・土師器の窯と関連するものであるのか興味が湧きます。いつか検討したいと思います。
関連参考 2016.05.18記事「古代窯業地名スエ・ハジ及びハニ・ハネの千葉県検索結果」
2-3 カワラケ投げ
……………………………………………………………………
かわらけ‐なげ かはらけ‥【土器投】
〖名〗 山の上などの高い所から土器を遠くへ投げて、風に舞うさまを見て楽しむ遊び。京都の高雄山や愛宕山、江戸の飛鳥山などで、花見の時に多く行なわれた。
*俳諧・誹諧発句帳(1633)冬「紅葉ちるはかはらけなげか高尾山〈幸和〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
……………………………………………………………………
以前から次のような遠大な仮説を持っていますのでメモしておきます。
西根遺跡土器集中地点の土器は全てその場で意図的に破壊されています。
機能喪失土器(廃用土器)を破壊することによって土器に込められている精霊を解き放ち、土器送りを完遂したのだと考えます。
そのような縄文時代の習俗がその後の時代にも伝わり、そのうち零落した姿になってしまったものとして酒席余興酒杯投げがあると仮説します。
酒席余興のカワラケ投げの起源は縄文時代土器送り祭祀にあると仮説します。
この記事では用語「カワラケ」について派生した興味をメモしておきます。
1 土器塚の呼び名
図書では「「土器塚」という名称の由来」という項目があり、「土器塚(どきづか)という用語は江戸時代にまでさかのぼり、「江戸名所図会」には「土器塚」の名称を見ることができる。ただし、当時は「かわらけづか」とよばれていたらしい。」という趣旨の記述があります。
自分には基礎知識がないので、一応調べてみました。
江戸名所図会の駒場野の近くに土器塚(かわらけづか)という項目があり次のような記述があります。
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」における土器塚(かわらけづか)記述
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用
参考 「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」駒場野
「新訂江戸名所図会 巻之三天璣之部」(ちくま学芸文庫)から引用
調べるとこの土器塚(かわらけづか)は現在東京都目黒区遺跡№53土器塚遺跡(かわらけづかいせき)として埋蔵文化財登録されています。目黒区ホームページでは「発掘調査によって、弥生時代後期(約2千年前)の竪穴住居跡竪穴住居址48軒と、集落を囲む環濠かんごうの一部が発見され、弥生時代に特徴的な環濠集落であったことが判明しました。」と書かれています。
カワラケ(土器)が沢山出土する塚なのでカワラケヅカ(土器塚)と呼ばれ、カワラケ(土器)の最初の研究対象になったものと考えます。
カワラケヅカ(土器塚)はカイヅカ(貝塚)と横並びになるような名詞であり、カワラケ(土器)が塚のようになっている場所(カワラケが沢山ある場所)という意味であると理解します。
駒場野のカワラケヅカ(土器塚)は一般名詞から地名(固有名詞)に変化したものだと理解します。
一般名称としてのカワラケヅカ(土器塚)という呼び名が、現在なぜドキヅカ(土器塚)と呼ばれるように変化したのか、図書には説明がありません。しかし、土器塚の呼び名は西根遺跡をめぐる問題意識とは直接関係しないことが明白になりました。
以下は関連して派生した興味メモです。
2 カワラケに関する派生興味
2-1 カワラケの語源
カワラケの辞書説明は次のようになります。
……………………………………………………………………
かわら‐け かはら‥【土器】
〖名〗 (食器として用いる瓦笥(かわらけ)の意)
① 釉(うわぐすり)をかけないで焼いた陶器。素焼きの陶器。古くは食器として用いたが、のち、行灯(あんどん)の油ざらなどに用いられた。
*延喜式(927)四「九月神甞祭〈略〉土器(かわらけ)四千五百口」
*枕(10C終)一三二「聰明(そうめ)とて、上にも宮にも、あやしきもののかたなど、かはらけに盛りてまゐらす」
② 素焼きの杯。酒を飲む器。
*伊勢物語(10C前)六〇「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」
*源氏(1001‐14頃)賢木「中将、御かはらけまゐり給ふ」
③ (杯を、人にすすめたり、人から受けたりするところから) 酒盛り。酒宴。
*宇津保(970‐999頃)祭の使「御かはらけ始まり、御箸下りぬる程に」
④ 女性が年ごろになっても、陰部に毛がはえないのをいう俗語。また、その女性。
*俳諧・鷹筑波(1638)一「けのなひ物をかはらけといふ その比(ころ)はうねめの年や十二三〈不竹〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館 から引用
……………………………………………………………………
カワラケは瓦笥であると説明されていますが、瓦笥(カワラケ)の語源にかかわる説明はありません。
私は「モノノケ」などと同じ語法であり、瓦(カワラ)+気(ケ)と解釈し「瓦の気配」のような印象の言葉であると考えます。
地表に露出した「煎餅のように押しつぶされた」縄文・弥生時代土器の様子をみて「瓦のようだ」という趣旨の感想を持ったことが語源ではないかと推測します。
カワラケは古墳時代人が縄文・弥生土器露出露頭の観察から生まれた言葉に違いないと考えるので興味を持ちます。
ドキ(土器)、ハニ、ハネ、ハジ、スエなど土器に関する言葉はいろいろありますがこれらの正統用語とは別に、「縄文・弥生時代の土器が地表に露出しているところがどこでも沢山あった風景なので、その風景観察の感想から生まれた用語」としてカワラケを考えると興味が湧きます。
カワラケという言葉には古代人の土器露出露頭観察の感想が含まれていると考えます。
2-2 千葉県における地名カワラケ、ドキの確認
私家版千葉県小字データベース(千葉県地名大辞典 角川 小字一覧の電子データベース版)を検索すると「カワラケ」4件、「ドキ」5件がヒットしました。
千葉県の小字カワラケ4件
千葉県の小字ドキ5件
これらの地名が土器露出露頭の存在を意味するのか、それとも瓦や須恵器・土師器の窯と関連するものであるのか興味が湧きます。いつか検討したいと思います。
関連参考 2016.05.18記事「古代窯業地名スエ・ハジ及びハニ・ハネの千葉県検索結果」
2-3 カワラケ投げ
……………………………………………………………………
かわらけ‐なげ かはらけ‥【土器投】
〖名〗 山の上などの高い所から土器を遠くへ投げて、風に舞うさまを見て楽しむ遊び。京都の高雄山や愛宕山、江戸の飛鳥山などで、花見の時に多く行なわれた。
*俳諧・誹諧発句帳(1633)冬「紅葉ちるはかはらけなげか高尾山〈幸和〉」
『精選版 日本国語大辞典』 小学館から引用
……………………………………………………………………
以前から次のような遠大な仮説を持っていますのでメモしておきます。
西根遺跡土器集中地点の土器は全てその場で意図的に破壊されています。
機能喪失土器(廃用土器)を破壊することによって土器に込められている精霊を解き放ち、土器送りを完遂したのだと考えます。
そのような縄文時代の習俗がその後の時代にも伝わり、そのうち零落した姿になってしまったものとして酒席余興酒杯投げがあると仮説します。
酒席余興のカワラケ投げの起源は縄文時代土器送り祭祀にあると仮説します。
2017年8月18日金曜日
土器を壊すことにより土器を送る 縄文時代西根遺跡と土器塚
土器塚学習に入る前に、西根遺跡で強く仮説している「土器破壊」についてまとめておきます。
西根遺跡も周辺土器塚も土器破壊によって土器を送っていたと考えます。
1 西根遺跡出土土器の割れ方
2017.07.12記事「西根遺跡の土器壊れ方観察」、2017.07.13記事「西根遺跡の土器の壊れ方観察2」で書いたとおり西根遺跡出土土器で観察したものは破片の様子から全て人為的に壊していると結論づけることができます。
観察例
観察例
上記記事では、一部が欠けたりして使えなくなった機能喪失土器(まだバラバラになっていない土器の姿を残している廃用土器)が西根遺跡にもちこまれて、破壊されたと考えて、次のような考察を行いました。
「5点の土器は残存度の割りに土器破片が小さく、土器破片に元の姿を想起させるような大判のものがありません。
この壊れ方から、全てほぼ完形に近い土器を人為的に破壊して元の形が思い出せないようにしたものであると考えます。
元の姿に決して戻れないレベルまで壊すことによって、土器送りを行ったものと考えます。
西根遺跡の土器は全てほぼ完形に近い姿で持ち込まれ、祭祀の場で人為的に徹底して壊されたと考えます。
・西根遺跡の土器は残存度の高いものが多いことから、完形に近い姿で持ち込まれたと考えます。
・西根遺跡の土器の壊れ方が進んでいること(細片になっていること)と破片出土状況(破片が散逸していない状況)から自然的要因(流水や地象)による破壊は考える必要がないと考えます。」
「3つの土器ともに土器の完形姿を残すような大型片はなく、破片の集合から元の形を想起することが困難です。
このように、完形姿に近い土器を出土場所で徹底的に壊した理由は土器が何らかの機能を残して再利用される可能性を完全に排除する意思が働いたからだと考えられます。
土器の残片の中にカーブした部分や輪や凹んだ部分が残れば、モノを入れたり、モノを覆ったりする機能が残ってしまいます。リサイクル品としての機能が残ってしまいます。
それでは土器を完全に送ることができないという心理が働いたのだと思います。
土器を完全に送るため、自分の心と齟齬が生れない丁寧な送りをするために、土器を徹底して壊したのだと考えます。」
2 西根遺跡の「土器片大きさと土器密集度の逆相関」
西根遺跡では土器が密集する場所(大型土器が多く、獣骨が分布する祭祀中心地)ほど土器片の大きさが小さくなっています。
2017.06.25記事「西根遺跡に持ち込まれた土器は全て破壊されたか」参照
1m×1mグリッドあたり土器重量と1破片あたり重量
祭祀が熱心に行われた場所ほど土器破壊が熱心だったことがデータとして明らかになりました。
(注 発掘時における土器破壊の可能性
上記データがあまりにもドラスティックなので、発掘現場をしらないため私は重機の影響等の存在を疑い関係者にお伺いしたところ、発掘では重機は使用せず、発掘作業で土器が破壊されたような状況は無いと教えていただきました。)
3 アイヌ「物神の霊送り」と土器破壊の通底性
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版会)ではアイヌ儀礼における「物神の霊送り」でつぎのように記述しています。
「その他の細々とした道具類も、使用に耐えなくなる、あるいは役割を終えると霊送りを行う。その際、どこかに傷をつけることで、霊魂が抜け出して神界へ戻ることができるという。」
アイヌのこのような思考と西根遺跡土器破壊で想定した思考は原始時代に遡る思考という点で通底していると考えます。
4 土器を壊すことにより土器を送る
上記1、2のデータと3の情報から西根遺跡の土器は全て現場で破壊されたものと考えます。
土器塚も同じ状況であると想定して土器塚学習を始めます。
……………………………………………………………………
5 参考 西根遺跡発掘調査報告書における土器破壊記述
西根遺跡発掘調査報告書ではつぎのような記述があります。
「ただし、打ち欠いて廃棄している例が若干みられ、…」
次の2つの理由からこのような控えめな記述になったと考えます。
1 現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が異なることによる
現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が同一人であれば土器が全て人為的に破壊された可能性を感じると思います。
2 流水営力イメージの誤解
報告書執筆担当者が縄文時代後期の戸神川地形環境(海の河口部)についての情報を所持していれば、流水営力による土器破壊や移動は極めて限定されることから、土器の人為的破壊に意識が向いたと考えます。
発掘関係者は現在戸神川の流水を誤ってそのままイメージしてしまうととともに、その流水営力についてもあまりにも過大に想像してしまったのだと考えます。
西根遺跡も周辺土器塚も土器破壊によって土器を送っていたと考えます。
1 西根遺跡出土土器の割れ方
2017.07.12記事「西根遺跡の土器壊れ方観察」、2017.07.13記事「西根遺跡の土器の壊れ方観察2」で書いたとおり西根遺跡出土土器で観察したものは破片の様子から全て人為的に壊していると結論づけることができます。
観察例
観察例
上記記事では、一部が欠けたりして使えなくなった機能喪失土器(まだバラバラになっていない土器の姿を残している廃用土器)が西根遺跡にもちこまれて、破壊されたと考えて、次のような考察を行いました。
「5点の土器は残存度の割りに土器破片が小さく、土器破片に元の姿を想起させるような大判のものがありません。
この壊れ方から、全てほぼ完形に近い土器を人為的に破壊して元の形が思い出せないようにしたものであると考えます。
元の姿に決して戻れないレベルまで壊すことによって、土器送りを行ったものと考えます。
西根遺跡の土器は全てほぼ完形に近い姿で持ち込まれ、祭祀の場で人為的に徹底して壊されたと考えます。
・西根遺跡の土器は残存度の高いものが多いことから、完形に近い姿で持ち込まれたと考えます。
・西根遺跡の土器の壊れ方が進んでいること(細片になっていること)と破片出土状況(破片が散逸していない状況)から自然的要因(流水や地象)による破壊は考える必要がないと考えます。」
「3つの土器ともに土器の完形姿を残すような大型片はなく、破片の集合から元の形を想起することが困難です。
このように、完形姿に近い土器を出土場所で徹底的に壊した理由は土器が何らかの機能を残して再利用される可能性を完全に排除する意思が働いたからだと考えられます。
土器の残片の中にカーブした部分や輪や凹んだ部分が残れば、モノを入れたり、モノを覆ったりする機能が残ってしまいます。リサイクル品としての機能が残ってしまいます。
それでは土器を完全に送ることができないという心理が働いたのだと思います。
土器を完全に送るため、自分の心と齟齬が生れない丁寧な送りをするために、土器を徹底して壊したのだと考えます。」
2 西根遺跡の「土器片大きさと土器密集度の逆相関」
西根遺跡では土器が密集する場所(大型土器が多く、獣骨が分布する祭祀中心地)ほど土器片の大きさが小さくなっています。
2017.06.25記事「西根遺跡に持ち込まれた土器は全て破壊されたか」参照
1m×1mグリッドあたり土器重量と1破片あたり重量
祭祀が熱心に行われた場所ほど土器破壊が熱心だったことがデータとして明らかになりました。
(注 発掘時における土器破壊の可能性
上記データがあまりにもドラスティックなので、発掘現場をしらないため私は重機の影響等の存在を疑い関係者にお伺いしたところ、発掘では重機は使用せず、発掘作業で土器が破壊されたような状況は無いと教えていただきました。)
3 アイヌ「物神の霊送り」と土器破壊の通底性
北原次郎太「アイヌの祭具 イナウの研究」(北海道大学出版会)ではアイヌ儀礼における「物神の霊送り」でつぎのように記述しています。
「その他の細々とした道具類も、使用に耐えなくなる、あるいは役割を終えると霊送りを行う。その際、どこかに傷をつけることで、霊魂が抜け出して神界へ戻ることができるという。」
アイヌのこのような思考と西根遺跡土器破壊で想定した思考は原始時代に遡る思考という点で通底していると考えます。
4 土器を壊すことにより土器を送る
上記1、2のデータと3の情報から西根遺跡の土器は全て現場で破壊されたものと考えます。
土器塚も同じ状況であると想定して土器塚学習を始めます。
……………………………………………………………………
5 参考 西根遺跡発掘調査報告書における土器破壊記述
西根遺跡発掘調査報告書ではつぎのような記述があります。
「ただし、打ち欠いて廃棄している例が若干みられ、…」
次の2つの理由からこのような控えめな記述になったと考えます。
1 現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が異なることによる
現場発掘担当者、土器復元担当者、報告書執筆担当者が同一人であれば土器が全て人為的に破壊された可能性を感じると思います。
2 流水営力イメージの誤解
報告書執筆担当者が縄文時代後期の戸神川地形環境(海の河口部)についての情報を所持していれば、流水営力による土器破壊や移動は極めて限定されることから、土器の人為的破壊に意識が向いたと考えます。
発掘関係者は現在戸神川の流水を誤ってそのままイメージしてしまうととともに、その流水営力についてもあまりにも過大に想像してしまったのだと考えます。
2017年8月16日水曜日
土器塚学習の開始
西根遺跡に類似する土器多出遺跡として「土器塚」と呼ばれている遺跡が下総にありますが、たまたまパラパラめくっていた図書「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)に「土器塚」という項目が独立してありました。
「土器塚」の最初のページ 「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
ざっと読むと、西根遺跡の特徴と瓜二つの特徴がいくつも出てきていますので、これをテキストにして、また参考文献を入手して短期集中学習をすることにします。
西根遺跡が土器塚の1類型であることは間違いないと考えます。
なお、文中や参考文献に戦前からの考古学者として和島誠一という名前が出てきます。和島誠一先生は私が大学で講義を受けたことがあり(*)、そうした親しみを憶える過去体験の記憶がよみがえったことも学習意欲を増進させます。
*2013.08.10記事「縄文土器を拾う」参照
この記事では参考文献を取り寄せる前の感想を記録しておきます。
参考文献を読む前と読んだ後の自分の思考の変化がどうなるか興味があります。
今考えている自分の思考(見立て)が参考文献研究成果摂取によって大幅改変することになるのか、それとも反対に自分の見立ての蓋然性の高さに自信を深めるのか、その双方・中間か。いずれのコースを歩むにしても自分の学習は深まるに違いないと期待しています。
1 土器塚の分布
図書には利根川沿岸1カ所と印旛沼流域6カ所の土器塚が紹介されています。
印旛沼付近の土器塚と西根遺跡
2 土器塚の特徴
図書では次のように土器塚研究をまとめています。
・形成時期が後期前半の堀之内2式から加曽利B3式期に限られる。
・土器塚は本来の縄文時代遺構である。
・分布が利根川下流から下総台地中央部に集中している。
・土器塚を残す遺跡は集落祉であると考えられる。しかも継続期間の長い大きな遺跡である点で共通している。
・詳しい調査が十分なされていないので土器塚の構造の違いはあるかもしれない。
・土器塚の形成年代や立地などの共通性を重視すると、縄文後期社会、わけても加曽利B式期を特徴付ける現象である可能性が高い。
3 西根遺跡との共通性と非共通性に関する感想
この論説の中にでてくる個別土器塚の特徴と西根遺跡とのあいだに次のような共通性を感じました。
●土器形式
加曽利B式土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に時期と共通性があります。
●土器の精製・粗製別
粗製土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に共通性があります。
●完形土器の欠如
復元すると完形土器がないという状況が土器塚と西根遺跡に共通します。(とりわけ重要な共通性であると考えます。土器塚も西根遺跡も機能喪失土器だけが出土していることになります。)
●出土状況の類似性
「煎餅を踏み潰したようにギッシリ詰まっている」状況が土器塚と西根遺跡で同じです。
●石器出土が少ない
土器塚も西根遺跡も石器出土が土器と比して極端に少ないようです。
また、土器塚と西根遺跡は次のような非共通性があります。
●立地地形
土器塚は全て台地上で西根遺跡は低地です。
●集落空間との関係性
土器塚は集落空間との関係性が(おそらく距離が近いので)明瞭であるようです。
西根遺跡は集落空間に付属するような遺跡ではありません。(西根遺跡は土器を丸木舟で運んできているので、検討無しに集落との関係を直接的に把握できません。なお、西根遺跡は特定1つの集落に対応するものではなく、近隣印旛沼南岸の集落群に対応する広域後背地を有する遺跡であると想像しています。)
4 学習の視点
次のような疑問を参考文献にぶつけながら学習を進めて、土器塚と西根遺跡の特性に迫りたいと思います。
・土器塚出土物の中に西根遺跡における祭祀関連出土物(イナウ、飾り弓、獣骨)と対応するような出土物があるのか。
・土器が意図的に壊されているか。(おそらく土器塚と西根遺跡は機能喪失土器を破壊する行為が祭祀のメインであったと考えます。)
・交通環境の中で土器塚をみるとどのような眺め(思考・想定)が生まれるか。
・祭祀・交流・イベントなどの機能を有する「現代でいえば神社みたいなもの」として土器塚をイメージすると、どのような不都合、好都合が考えられるか。
・施設空間廃絶祭祀が土器塚のベースにある(原点である)と考えられるか。(図書の記述を読むと、土坑の廃絶や道路交差点空間の付け替えなどがきっかけで土器塚が始まったといえるかどうか興味津々です。)
・土器塚相互の間に祭祀ネットワークなどの関連性を想定出来うるか。西根遺跡と土器塚の間に何らかの関連性を想定出来うるか。
「土器塚」の最初のページ 「千葉県の歴史 資料編 考古4 (遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用
ざっと読むと、西根遺跡の特徴と瓜二つの特徴がいくつも出てきていますので、これをテキストにして、また参考文献を入手して短期集中学習をすることにします。
西根遺跡が土器塚の1類型であることは間違いないと考えます。
なお、文中や参考文献に戦前からの考古学者として和島誠一という名前が出てきます。和島誠一先生は私が大学で講義を受けたことがあり(*)、そうした親しみを憶える過去体験の記憶がよみがえったことも学習意欲を増進させます。
*2013.08.10記事「縄文土器を拾う」参照
この記事では参考文献を取り寄せる前の感想を記録しておきます。
参考文献を読む前と読んだ後の自分の思考の変化がどうなるか興味があります。
今考えている自分の思考(見立て)が参考文献研究成果摂取によって大幅改変することになるのか、それとも反対に自分の見立ての蓋然性の高さに自信を深めるのか、その双方・中間か。いずれのコースを歩むにしても自分の学習は深まるに違いないと期待しています。
1 土器塚の分布
図書には利根川沿岸1カ所と印旛沼流域6カ所の土器塚が紹介されています。
印旛沼付近の土器塚と西根遺跡
2 土器塚の特徴
図書では次のように土器塚研究をまとめています。
・形成時期が後期前半の堀之内2式から加曽利B3式期に限られる。
・土器塚は本来の縄文時代遺構である。
・分布が利根川下流から下総台地中央部に集中している。
・土器塚を残す遺跡は集落祉であると考えられる。しかも継続期間の長い大きな遺跡である点で共通している。
・詳しい調査が十分なされていないので土器塚の構造の違いはあるかもしれない。
・土器塚の形成年代や立地などの共通性を重視すると、縄文後期社会、わけても加曽利B式期を特徴付ける現象である可能性が高い。
3 西根遺跡との共通性と非共通性に関する感想
この論説の中にでてくる個別土器塚の特徴と西根遺跡とのあいだに次のような共通性を感じました。
●土器形式
加曽利B式土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に時期と共通性があります。
●土器の精製・粗製別
粗製土器がメインであるという点で土器塚と西根遺跡に共通性があります。
●完形土器の欠如
復元すると完形土器がないという状況が土器塚と西根遺跡に共通します。(とりわけ重要な共通性であると考えます。土器塚も西根遺跡も機能喪失土器だけが出土していることになります。)
●出土状況の類似性
「煎餅を踏み潰したようにギッシリ詰まっている」状況が土器塚と西根遺跡で同じです。
●石器出土が少ない
土器塚も西根遺跡も石器出土が土器と比して極端に少ないようです。
また、土器塚と西根遺跡は次のような非共通性があります。
●立地地形
土器塚は全て台地上で西根遺跡は低地です。
●集落空間との関係性
土器塚は集落空間との関係性が(おそらく距離が近いので)明瞭であるようです。
西根遺跡は集落空間に付属するような遺跡ではありません。(西根遺跡は土器を丸木舟で運んできているので、検討無しに集落との関係を直接的に把握できません。なお、西根遺跡は特定1つの集落に対応するものではなく、近隣印旛沼南岸の集落群に対応する広域後背地を有する遺跡であると想像しています。)
4 学習の視点
次のような疑問を参考文献にぶつけながら学習を進めて、土器塚と西根遺跡の特性に迫りたいと思います。
・土器塚出土物の中に西根遺跡における祭祀関連出土物(イナウ、飾り弓、獣骨)と対応するような出土物があるのか。
・土器が意図的に壊されているか。(おそらく土器塚と西根遺跡は機能喪失土器を破壊する行為が祭祀のメインであったと考えます。)
・交通環境の中で土器塚をみるとどのような眺め(思考・想定)が生まれるか。
・祭祀・交流・イベントなどの機能を有する「現代でいえば神社みたいなもの」として土器塚をイメージすると、どのような不都合、好都合が考えられるか。
・施設空間廃絶祭祀が土器塚のベースにある(原点である)と考えられるか。(図書の記述を読むと、土坑の廃絶や道路交差点空間の付け替えなどがきっかけで土器塚が始まったといえるかどうか興味津々です。)
・土器塚相互の間に祭祀ネットワークなどの関連性を想定出来うるか。西根遺跡と土器塚の間に何らかの関連性を想定出来うるか。
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