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2021年10月5日火曜日

同一貝層断面における土器形式の上下逆転現象

 有吉北貝塚北斜面貝層の同一土器破片の出土層準の特性を検討しています。

この記事では294土器(加曽利EⅡ式土器)と395土器(加曽利EⅢ式土器)の出土層準が逆転する貝層断面があり、予定調和的結果にならなかったので、その理由を考察します。

1 294土器と395土器の出土層準略推定

1-1 294土器(加曽利EⅡ式土器)の出土層準略推定

2021.09.26記事「294土器破片の分布と出土層準 上流部編」に上流部を、2021.09.29記事「294土器破片の分布と出土層準 下流部編」に下流部をまとめてあります。

1-2 395土器(加曽利EⅢ式土器)の出土層準略推定

2021.09.07記事「有吉北貝塚北斜面貝層 395土器(加曽利EⅢ式有孔鍔付土器)の出土層準」に下流部をまとめてあります。

上流部の出土層準略推定結果は次の通りです。


作業図

平面図には395土器破片5つが載っていますが、投影断面図では2つの情報が欠落しています。


395土器破片の出土層準略推定結果

2 294土器と395土器の出土層準略推定図の対比


294土器と395土器の出土層準略推定図の対比

第5断面、第11~13断面の4断面に294土器と395土器の出土層準略推定結果がでていますので、その結果を次に検討します。

3 294土器と395土器の出土層準略推定結果対比

3-1 第5断面


第5断面 土器片出土層準略推定

294土器(加曽利EⅡ式土器)が下の層準に、395土器(加曽利EⅢ式土器)が上の層準に位置します。この断面で加曽利EⅡ式期→加曽利EⅢ式期に混土貝層が堆積したと考えられます。

3-2 第11断面


第11断面 土器片出土層準略推定

294土器(加曽利EⅡ式土器)が下の層準に、395土器(加曽利EⅢ式土器)が上の層準に位置しますがその差はわずかです。第11断面付近では加曽利EⅡ式期→加曽利EⅢ式期の期間に堆積した混土貝層は絶えず侵食されて残った分はわずかだったのだと推定します。

395土器破片は高い場所にも投げられ、その1つが発掘調査の表土掘削工事などで表土に混じってしまい、表土から出土したと考えます。

3-3 第12断面


第12断面 土器片出土層準略推定

294土器(加曽利EⅡ式土器)が上の層準に、395土器(加曽利EⅢ式土器)が下の層準に位置し、土器年代と層準が矛盾します。予定調和的検討とはなりませんでした。貴重な情報がこの矛盾に見える現象に隠されている直観します。

次のような作業仮説を立案して、この矛盾を解消します。

「395土器(加曽利EⅢ式土器)が堆積した後、上流で294土器(加曽利EⅡ式土器)を含む貝層が侵食され、運搬されてきて第12断面付近で堆積した。」

第12断面の294土器(加曽利EⅡ式土器)破片は二次的堆積物であり、それを含む貝層は294土器が破壊された時点のものではないということになります。

3-4 第13断面


第13断面 土器片出土層準略推定

294土器(加曽利EⅡ式土器)が上の層準に、395土器(加曽利EⅢ式土器)が下の層準に位置し、土器年代と層準が矛盾します。この断面でも予定調和的検討とはなりませんでした。

第12断面と同様に次のような作業仮説を立案して、この矛盾を解消します。

「395土器(加曽利EⅢ式土器)が堆積した後、上流で294土器(加曽利EⅡ式土器)を含む貝層が侵食され、運搬されてきて第12断面付近で堆積した。」ただし294土器破片の左岸寄りのものはその平面位置から上流から流されてきたと考えることには無理がありますから、別の要因を考える必要がありそうです。もともと高い場所に投げられて、それが第13断面に投影されたのかもしれません。

4 メモ

第12断面と第13断面では395土器(加曽利EⅢ式土器)が堆積した後、上流で294土器(加曽利EⅡ式土器)を含む貝層が侵食され、運搬されてきて第12断面付近で堆積したと考えます。このことから第12断面と第13断面より上流部に294土器(加曽利EⅡ式土器)破片を含む貝層を侵食するゾーンが存在していたことになります。加曽利EⅢ式期でも当該ガリーは侵食作用が活発であったことが判ります。侵食作用が活発であったゾーンの場所は第5断面より上流であり、おそらく谷頭部であったと想像しますが、今後さらに検討します。


2018年10月13日土曜日

遺跡DB感想 土器形式

遺跡DB(千葉県遺跡DB)の遺構・遺物欄に出土土器形式が掲載されているものが多数あります。
例えばたまたま見ている例(墨総合公園内遺跡)では次の縄文土器形式が掲載されています。

縄文土器[加曽利<B1B2B3EⅢ>,安行<Ⅰ,Ⅱ,Ⅲa,Ⅲb>,阿玉台<Ⅱ,Ⅲ>,称名寺,諸磯,興津,茅山<上層>,浮島<Ⅱ>,五領ケ台,田戸,稲荷台,荒海,花積下層]

このような遺跡別出土土器形式情報を千葉県遺跡全体(遺跡総数約2万)で通覧することは事実上データベースだけでしかできないと考えられます。
データベースが完成したあかつきには土器形式別に出土遺跡を検索してGISにプロットすることはいわば瞬間的にできるようになります。従って、その情報をつかって土器形式の分布変化、つまり縄文遺跡の時期別分布変化について学習したいと今から楽しみにしています。しかし、おそらくいろいろな課題(問題)が生れて単純なかたちで土器形式分布変遷が捉えられないかもしれませんが、そのプロセス自体がチャレンジしがいのある学習になりそうです。この学習のなかで土器形式そのものに関する基礎知識も得たいと思います。

ちなみに上記例の遺跡は文献欄は空白ですからこのデータベースを利用しない限りこの情報を利用することはできません。同じような、文献はないけれども調査がされた遺跡が多数あります。
なお、文献が掲載されている遺跡について、おそらく1万前後あるのではないかと想定しますが(近々正確な数字が判明します)、その文献を閲覧確認することは数量的に事実上不可能であると考えますからデータベースの意義は大変大きいものとなります。

花見川風景

2017年2月4日土曜日

大膳野南貝塚 土器形式から見た遺跡概要

大膳野南貝塚の出土土器形式リストを作成しましたので、これを使って遺跡概要をざっと眺めてみました。

発掘調査報告書における各時期別概要記述引用、出土土器形式一覧リスト、土器例を並べてみて、遺跡に関する自分のイメージを少し具体的にしました。

1 草創期~前期中葉の遺構と遺物

発掘調査報告書記述
……………………………………………………………………
本時期に属する遺構は、炉穴7基と陥し穴33基であった。

炉穴からは野島式や茅山下層式、早期後半条痕文土器が検出されており、早期後半の所産と推定される。

陥し穴は遺物が検出されておらず詳細な時期は不明で、覆土や出土遺物から早期~前期という時期幅でしか捉えられなかった。

出土遺物は、井草式から黒浜式までの各型式にわたる土器が出土したが、早期後半条痕文土器と前期中葉黒浜式土器がまとまっている他は極わずかな出土量であった。
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土器形式一覧(草創期~前期中葉)

黒浜式土器の例

2 前期後葉の遣構と遺物

発掘調査報告書の記述
……………………………………………………………………
検出された遺構は、竪穴住居趾16軒と土坑113基で、台地平坦面に広く分布する。

土坑群は主に調査区南西部に集中的に分布し、これを取り囲むような形で竪穴住居趾群が検出されている。

住居の分布範囲がやや散漫ではあるが、環状を呈する集落と考えられ、住居と土坑が場所を区別して構築されたものと推定される。

また、遺構から検出された土器は、諸磯b式ないしは浮島1~Ⅱ期にほぼ限定されることから、短期間に営まれた集落趾と考えられる。

出土した遺物は、土器、土製品、石器、石製品、獣骨、貝類で、総量は中テン箱にして約90箱を数える。
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土器形式一覧(前期後葉)

諸磯b式土器の例

3 前期末葉~中期後葉の遺物

発掘調査報告書の記述
……………………………………………………………………
前期末葉では諸磯c式、十三菩提式、興津式、そして前期末葉から中期初頭にかけての東関東に見られる縄文を多用した土器群が出土している。

また、大木5式土器がわずかであるが出土した。

中期では、五領ヶ台式から加曽利E3式までの土器が出土し、調査区全体で68点を数える。

いずれも遺構外からの出土である。各型式とも出土量は少量であった。
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土器形式一覧(前期末葉~中期後葉)

中峠式土器の例

4 中期末葉~後期中葉の遺構と遺物

発掘調査報告書の記述
……………………………………………………………………
大膳野南貝塚は後期初頭称名寺式期から前葉堀之内式期にわたる貝塚で、とくに堀之内1式期を最盛期とする。

貝の分布密度からみると、大きく3ヵ所の貝層(北貝層、南貝層、西貝層)として把握されるが、古墳時代以降の土地改変等を考慮に入れると、元来は環状に近い形状を呈する貝塚であった可能性が想定される。

環状貝塚と考えた場合の貝塚の規模は直径80m前後と推定される。

発見された遣構は、竪穴住居趾93軒、土坑墓1基、土坑264基、屋外漆喰炉8基、小児土器棺6基、単独埋甕12基、埋葬犬骨2体、鹿頭骨列1ヵ所などである。

検出された人骨は30体(住居内20体、土坑墓1体、土器棺6体、単独出土3体)を数える。

北・南・西貝層を除去した後に確認された貝層ブロックは大小160ヵ所を数え、このうち遺構に伴う貝層(地点貝塚)は78ヵ所(住居内26ヵ所、土坑内52ヵ所)である。

出土した遺物は土器、土製品、石器、骨角器、貝製品、人骨、獣骨、貝類などで、総量は中テン箱で約720箱を数える。

集落の成立時期は貝層が形成された時期より先行しており、中期末葉加曽利E4式期に属する住居が3軒検出されている。

続く後期初頭称名寺式期も小規模な集落が継続し、次段階の後期前葉堀之内式1式期に遺構数が爆発的に増えて集落の最盛期を迎える。

堀之内1式期の遺構群は南北貝層直下で密に分布している一方、中央平坦面では分布がやや希薄になっており、集落の形態は環状集落に分類される。

その後、堀之内2式期になると集落は縮小傾向となり、続く後期中葉加曽利B1~2式期では住居と土坑が散見されるのみとなる。

なお、加曽利B3式期以降に属する遺構は検出されていない。

特筆される発見としては、称名寺式~堀之内2式期の遺構で検出された「漆喰」があげられる。

一部の住居の貼床・炉趾および屋外炉などで検出された白色粘質土について分析を行った結果、生石灰(酸化カルシウム)を含有する方解石(炭酸カルシウム)が主成分であることが判明し、貝殻を素材として焼成→粉砕→加水の工程を経てペースト状にした「漆喰」と同様の物質であるとの所見が得られたものである。
……………………………………………………………………

土器形式一覧(中期末葉~後期中葉)

堀之内1式土器の例




2017年2月3日金曜日

大膳野南貝塚 出土土器形式リスト作成 

千葉県大膳野南貝塚発掘調査報告書の縄文時代記述部分を全ページめくって、記載されている出土土器形式をリストアップしてみました。

発掘調査報告書に記載されている出土土器形式
……………………………………………………………………
1 草創期~前期中葉の遺構と遺物
・条痕文土器
・無文土器
・野島式土器
・茅山下層式土器
・井草式土器
・田戸下層式土器
・茅山上層式土器
・花積下層式土器
・関山式土器
・黒浜式土器
・植房式土器
・釈迦堂Z3式土器
2 前期後葉の遺構と遺物
・諸磯a式土器
・諸磯b式土器
・浮島Ⅰ式土器
・浮島Ⅱ式土器
・浮島Ⅲ式土器
・北白川下層Ⅱ式土器
・釈迦堂Z3式土器
3 前期末葉~中期後葉の遺物
・諸磯c式土器
・十三菩提式土器
・興津式土器
・大木5式土器
・五領ヶ台式土器
・阿玉台式土器
・勝坂式土器
・中峠式土器
・加曽利E式土器
4 中期末葉~後期中葉の遺構と遺物
・称名寺古式土器
・称名寺式土器
・堀之内1式土器
・堀之内2式土器
・加曽利B1式土器
・加曽利B2式土器
・加曽利E4式土器
・無文土器
・三十稲葉式系土器
5 中期末葉~晩期末・弥生初頭の包含層・遺構外出土遺物
・称名寺式土器
・堀之内1式土器
・堀之内2式土器
・加曽利B1式土器
・加曽利B2式土器
・加曽利E4式土器

千葉県大膳野南貝塚発掘調査報告書から作成
……………………………………………………………………

このリストと千葉県出土縄文時代時期区分別土器形式一覧表を略対応させると次のようになります。

千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書で記述されている土器形式一覧
(4と5は重複しているので5の対応線は省略)

この対応表から土器に関しては早期、前期、中期、後期とほぼ切れ目なく土器形式が出土していて、大膳野南貝塚のある場所付近が縄文時代1万年を通じて絶えず人に使われていた可能性の強さを感じ取ることができました。

旧石器時代遺物が出土していて、また弥生初頭の遺物が出土しているので、この付近は旧石器時代から弥生時代まで継続して人に利用された土地であると考えられます。

縄文時代前期土坑から貝層が見つかっていますから、この時期には既に海漁をしていたことが証明されます。

縄文時代前期、中期にはこの場所が狩猟の場であったのか、生活の場であったのか、遺構・遺物から学習したいと考えています。

縄文時代後期にはこの場所が生活の場(集落の場)となり貝塚が作られました。遺構(竪穴住居)の数も急増しています。

縄文時代晩期から弥生時代にかけて貝塚を形成した集落がどのように、なぜ凋落したのかという点にも興味が湧きます。


今後の検討では遺跡内における時期別土器形式分布図を作成してみて、何か有用な情報を得られるかどか確かめたくなりました。