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2022年8月10日水曜日

天井部が遺存している炉穴

 Firepit with a remaining ceiling


I am creating a 3D model of a firepit with a remaining ceiling.


天井部が遺存している炉穴の3Dモデルを作成しています。

1 天井部が遺存している炉穴3Dモデルの様子


画像1


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画像5

大膳野南貝塚の9号炉穴(早期後半)を例としました。

2 メモ

・Blenderのモディファイアー機能のブーリアンを使って、差分で「土地を中抜きして」作成しています。

・この3Dモデルの中に人モデルを置いて動作させれば、この炉穴の利用方法等についてより濃く、的確なイメージを持つことができると考えます。

2020年12月21日月曜日

参考 大膳野南貝塚の炉穴と陥穴

 縄文社会消長分析学習 59

2020.12.20記事「有吉北貝塚の早期遺構」で早期の炉穴と陥穴の分布を観察しました。この記事で炉穴の分布要因として飲料水の確保が効いていることを述べました。記事を書いた跡、炉穴の場所と陥穴の場所が大局的に関連していることに気が付きましたので、過去検討を引用しながらメモします。

1 参考 大膳野南貝塚の炉穴と陥穴の分布と考察

以下の地図は2018.07.10記事「狩猟方法イメージ」、2017.02.28記事「大膳野南貝塚 炉穴」から引用。


大膳野南貝塚陥穴分布


大膳野南貝塚早期後半炉穴分布


炉穴と陥穴の地形との対応


炉穴と狩との関係イメージ

2017年、2018年の大膳野南貝塚検討を踏まえると、早期後半の狩猟方法の一つが(おそらくメインの方法が)陥穴方式であると想像します。人々は動物行動の変化(例えば季節ごとの変化)に対応して狩猟場所を変えて広域を移動し、ある季節には大膳野南貝塚の場所にキャンプを置き、そこに炉穴を残したのだとおもいます。大膳野南貝塚に炉穴を作った時に狩猟場所(陥穴を設置した場所)がどこだったのかということが問題になります。ここで重要なことはキャンプを置いた場所は陥穴猟の邪魔にならない場所であることは確実であるということです。人々は必ず動物行動に遠慮して「片隅に」キャンプを置いたということです。

そのような視点から「炉穴と狩との関係イメージ」図を見ると、9号・5号炉穴の位置は尾根状台地の中央部に位置していますから、この尾根状台地部に動物が入ってくることを前提にしていません。つまり9号・5号炉穴にキャンプを置いた人々の狩猟場所は大膳野南貝塚付近ではなく、別の場所であったと癒えます。

一方、1号・4号・8号・6号炉穴は台地縁辺部の地形的に影になった場所であり、ここにキャンプを置いた人々の狩猟場に大膳野南貝塚付近が含まれていた可能性が浮かび上がります。

1号・4号・8号・6号炉穴の人々の狩猟場がどこであったのか、その答えをより蓋然性をもって検討することは将来可能であると考えます。

2 炉穴位置(キャンプ地)選定の絶対条件は自分の狩の邪魔をしないこと

大膳野南貝塚1号・4号・8号・6号炉穴の人々の狩猟場がどこであったのかその答えはさておき、この思考から縄文早期後半の人々が炉穴位置(キャンプ地)選定に際して、絶対的に優先する条件は自分の狩りの邪魔をしない場所を選ぶということです。動物の季節的移動特性の邪魔する場所にキャンプを置かないことは確実です。空間利用という点では人ファーストではなく、動物ファーストです。

狩りの邪魔をしない場所にキャンプを置く、その際飲料水の確保場所を優先するということになります。飲料水が確保できる場所では、動物解体に必要となる水も得られます。

3 有吉北貝塚炉穴を作った人々の狩猟場


有吉北貝塚 早期炉穴と早~前期陥穴状土坑の分布(3D)

有吉北貝塚炉穴を作った人々の狩猟場がどこであったのか、答えを絞るだけの情報はありませんが、少なくても炉穴周辺で見つかる陥穴を使っていなかったことは確実です。おそらく有吉北貝塚が立地する半島状台地だけでなく、かなり広域のエリアに陥穴を多数設置して移動する動物を捕えていたと想像します。


2020年12月20日日曜日

有吉北貝塚の早期遺構

 縄文社会消長分析学習 58

地形3Dモデルという学習分析インフラが出来たので、有吉北貝塚学習を本格スタートすることにします。この記事ではウォーミングアップを兼ねて早期遺構の分布図を作成してみました。

1 中期以外の遺構と遺物

有吉北貝塚は中期遺構・遺物がメインです。中期として住居跡168軒、土坑770基(いわゆる小竪穴を含む)、埋設土器2基、ピット群1ヶ所、斜面貝層5ヶ所を検出しています。それ以外の時期についても次の遺構が検出されています。

・早期炉穴8群25基

・早~前期陥穴状土坑12基

・前期土坑1基

・前期土器埋設遺構1基

・後期竪穴住居跡1軒

・後期土坑2基

・後期斜面貝層1ヶ所

中期遺構・遺物の学習の前に、発掘調査報告書詳細分析学習のウォーミングアップを兼ねて中期以外遺構について学習することにします。

2 早期炉穴と早~前期陥穴状土坑の分布

早期炉穴と早~前期陥穴状土坑の分布を次に示します。


早期炉穴と早~前期陥穴状土坑の分布(2D)

これを3D地形モデルで示します。


早期炉穴と早~前期陥穴状土坑の分布(3D)

有吉北貝塚は根本がくびれた細長い半島状台地を利用して立地しています。早期炉穴はその半島状台地の先端部に集中して分布します。

早期後半の条痕文土器小片が出土しています。

炉穴の存在はその場所に定期的に来訪して一定期間棲み付いた跡であると考えられます。台地先端部に炉穴が分布する最も大きな理由は、その場所が飲み水を得るために最適だったからであると考えます。台地先端直下の斜面下部で湧水が得られたのだと想定できます。あるいは谷津を流れる小川が水源だったのかもしれません。


炉穴の例

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

早~前期陥穴状土坑は半島状台地の南東部の相対的に広い場所と先端部にまとまって存在し、中央付近にも見られるという分布をしています。

中期土器片が出土していますが正確な所属時期は不明です。

先端部と南東部に動物が立ち寄ることが多かったという当時の動物生態特性を表現していると考えられます。移動しながら草を食べるシカの群れがこの半島状の台地に入り込み、先端まで行ってから引き返すという行動があったと想像します。


陥穴状土坑の例

有吉北貝塚発掘調査報告書から引用

3 3D地形モデルのデフォルト表示画面

3D地形モデルのデフォルト表示画面は上図にしめしたように遺跡北西上空から南東方向を俯瞰したものを使うことにします。

また垂直倍率は地形の様子をある程度誇張して判りやすくするために×3.0を使うことにします。


垂直倍率の違い

4 グリッド分割情報を使った分布図作成

炉穴の分布図は発掘調査報告書には掲載されていませんがグリッド(4m×4m)の位置は記載されています。このような情報はグリッドの位置から分布図を作成することにします。


グリッドの様子(2D)


グリッドの様子(3D)


2019年11月7日木曜日

尖底土器はサイズフリー

縄文土器学習 271

1 観察記録3Dモデル作成
田戸下層式深鉢形尖底土器その2 椎ノ木遺跡 観察記録3Dモデルを作成しました。

田戸下層式深鉢形尖底土器その2 椎ノ木遺跡 観察記録3Dモデル
撮影場所:成田市下総歴史民俗資料館
撮影月日:2019.09.05
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.519 processing 36 images

展示の様子
写真中央が田戸下層式深鉢形尖底土器その2です。写真左は2019.11.05記事「田戸下層式尖底土器3Dモデル」で紹介した同種土器です。

2 尖底土器がつくられた理由
二つの尖底土器は尖底の先の様子が極端であり、なぜこのような尖底土器がつくられたのか興味が湧きます。
手持ちの次の3点資料をくわしく見ましたが、尖底土器がつくられた理由の記述はありませんでした。
・小林達雄編「総覧縄文土器」
・小林達夫編集「縄文土器大観」
・大川清・鈴木公雄・工楽善通編「日本土器事典」

webを調べると次のwebページに説得力のある尖底土器がつくられた理由仮説が書いてありました。
webページ「アートワークス 時間探偵」2019.05.31記事「尖底(土器)でなくては駄目だった理由
このwebページでは尖底土器が炉穴の大小サイズにたいして尖底土器がサイズフリーで使いやすいことが述べられています。
このwebページの考えを参考に自分なりにイメージを絵にすると次のようになります。

尖底土器はサイズフリー
webページ「アートワークス 時間探偵」2019.05.31記事「尖底(土器)でなくては駄目だった理由」を参考にしたイメージ

炉穴はとても壊れやすいので、繰り返し新しいものがつくられますが、それは土器を乗せる穴が利用1回ごとに少しずつ拡大することを意味します。そのような炉で使う土器が尖底土器ならば、穴に対して土器がサイズフリーであり、使いやすくなります。

3 参考

千葉県の炉穴分布
手持ちデータベースによる

千葉県炉穴の資料による時代分布
手持ちデータベースによる



2019年6月27日木曜日

炉穴の利用方法と出土土器の意義

縄文土器学習 165

2019.06.24記事「稲荷台式土器の炉設置状況推測」に関連する私のTwitter発言polieco archeさんから多数のコメントをいただき同心円状擦痕と炉穴に関する興味・問題意識を深めることができました。polieco archeさんに感謝します。
この記事ではpolieco archeさんコメントを触媒にして自分の脳裏に浮かんだ炉穴に関する事柄などをメモします。

polieco archeさんから土器についた同心円状の擦痕は炉穴でもついたのではないかという指摘に対する問題意識です。

1 炉穴利用方法の説明
1-1 飛ノ台貝塚の炉穴の状況
炉穴発掘史上における発見・命名遺跡である飛ノ台貝塚の炉穴状況を見てみました。

飛ノ台貝塚 炉穴野外展示の図面

飛ノ台貝塚 炉穴野外展示

飛ノ台貝塚 炉穴野外展示
竪穴住居すぐそばに炉穴が作られ、繰り返し作り直されています。炉穴が竪穴住居における日常生活に密着している様子が直観できます。

1-2 飛ノ台史跡公園博物館における炉穴使用説明

炉穴使用説明 飛ノ台史跡公園博物館展示パネルから引用
煙道部分に土器を立てて煮炊きしたり、肉の燻製を作ったと説明されています。

2 炉穴利用方法に関する問題意識
2-1 炉穴発明時期と衰退時期に関する情報
炉穴の機能検討の前に炉穴発明時期と衰退時期を正確に知りたいと思います。どこかにそうした情報がないか探すことにします。
そうした情報があれば、なぜ炉穴が発明されたのか、炉穴発明前はどのような施設・道具がその機能を代替していたのか、あるいは炉穴衰退はどのような施設や道具がその機能をより高度に代替したのかが類推できます。それから逆に炉穴の正確な機能を導くことが出来る可能性があります。
また炉穴が時期によって形態や大きさ等の変化があるのかも知りたいところです。

2-2 煙道における土器設置はあり得るか?
煙道に土器を設置して煮炊きした様子が博物館説明に一番大きく描かれていますが、疑問が生じます。
・土器に水や具材を入れて煙道に設置した場合、煙道付近が構造物強度的にもたないと思います。炉穴は関東ローム層を掘って作ることになります。関東ローム層がどれだけの重量物に堪えて煙道ブリッジの形状を保持できるかという問題を解決する必要があります。
・木で大きな井桁状の枠をつくり、そこに内容物の入った重い土器を乗せ、重量を広い範囲に分散させる。同時に井桁状木枠も事前に水をかけて燃えにくくするなどの対処で1回限りの利用は可能であると考えます。
・このような仕組みで1回2回、あるいは10回とか煮炊きできるかもしれません。しかしきわめて早期に煙道ブリッジ部が崩壊すると考えられます。
・そもそも煙道ブリッジを作った状況でその部分の関東ローム層が乾燥し、何もしなくても自然崩壊する可能性があります。日常の雨風乾燥や霜・凍結等の影響も無視できません。
・煙道ブリッジを利用して肉の燻製だけを作っても早晩煙道ブリッジは崩壊すると思います。
・煙道ブリッジにどの程度の強度があるのか実験すれば判ることです。
・煙道に土器を立てて煮炊きするという使い方はほとんど無いと作業仮説します。

2-3 炉穴底部燃焼部に土器を持ち込む可能性
住居そばの炉穴は格好の野外食の場であったと考えます。ノミやシラミだらけの住居内ではなく、野外で食べる食事の方がよほどおいしかったと想像します。炉穴で具材を焼いたり、いぶしたりして、それと一緒に住居炉で調理した土器鍋料理を炉穴付近に持ち込み一緒に食べた可能性はあります。そのようなことを想定すると、土器を炉穴底部燃焼部付近に置き、保温した可能性はあると考えます。

3 炉穴から出土する土器の意義
炉穴で土器の煮炊きはなかったということと、炉穴から出土する土器はほとんど全て炉穴廃絶祭祀に使われたモノだという作業仮説を持っています。この作業仮説がどの程度蓋然性があるか、今後検討を深める予定です。

参考 炉穴廃絶祭祀跡であると想像した飛ノ台貝塚炉穴の状況
写真は「千葉県の歴史 資料編考古1(旧石器・縄文時代)」(千葉県発行)から引用編集
2017.03.04記事「炉穴廃絶祭祀の跡」参照

2017年3月29日水曜日

千葉県 陥し穴と炉穴の関係

参考学習として、千葉県の陥し穴分布と炉穴分布の関係を考察してみました。

1 千葉県 陥し穴分布ヒートマップ

千葉県 陥し穴分布ヒートマップ
半径パラメータ5㎞、輪郭をトレース

陥し穴の時期はデータベース(ふさの国文化財ナビゲーション)で中近世の「シシ穴」を別建てにしていますから、ほとんど全て縄文時代のものであると考えます。

陥し穴の時代区分

2 千葉県 炉穴分布ヒートマップ

千葉県 炉穴分布ヒートマップ
半径パラメータ5㎞、輪郭をトレース

炉穴の時期はほとんど縄文時代早期であると考えます。

炉穴の時代

3 陥し穴と炉穴の関係

陥し穴と炉穴のヒートマップ対照図

陥し穴分布ヒートマップの赤色地域を炉穴分布ヒートマップに白点線でプロットしてみました。

陥し穴が赤色で炉穴も赤色の地域(A)は縄文時代早期の狩猟好適地を示していて、その場所に狩猟に従事した人々の生活があり、獲得した動物の干し肉や燻製を作成した場所であると想定できます。

陥し穴が赤色で炉穴は黄色や青色の地域(B)は縄文時代早期には未開発で、縄文時代前期以降に新規開発された狩猟好適地であると考えます。

陥し穴は黄色や青色で炉穴が赤色の地域(C)は縄文時代早期に、主に狩猟以外の生業に従事した人々の生活の場所であり、海産物や堅果類などの産物を乾燥させ保存食品を作った場所であると考えます。



2017年3月8日水曜日

千葉県の炉穴分布

大膳野南貝塚の炉穴学習で、炉穴が狩場に直接設けられたキャンプ施設であるという印象を持ちました。

狩のあと動物を仕留めたその場所で、あるいは狩期間中において動物から見えにくい場所という違いはありますが、大きくみると、動物を仕留めるゾーン内に炉穴が設置されたと想定しました。

旧石器時代と同じような狩が炉穴設置時代には行われていたと考えます。

このように想定すると、炉穴分布が炉穴設置時代の狩場を示すことになります。

炉穴分布が狩場想定の重要な指標になります。

ふさの国文化財ナビゲーション(千葉県教育委員会)からダウンロードしたデータを炉穴で検索すると320以上の遺跡でヒットします。

この炉穴が発見された遺跡分布図を作成して、縄文時代早期の狩の様子を想定してみました。

手持ち資料では炉穴の時代区分は次のようになります。

炉穴の時代区分

このブログでは、炉穴設置は縄文時代早期特有の事象であると、とりあえず割り切って思考を進めます。

千葉県の炉穴分布図を作成すると次のようになります。

炉穴分布図

縄文時代早期の人の活動領域がこの分布図でわかることになります。

分布図をよく見ると、炉穴が密集している場所が存在します。

その場所が縄文時代早期の狩場であったと考えます。

次の図は拡大して、大膳野南貝塚付近の炉穴分布をみたものです。

大膳野南貝塚付近の炉穴分布と狩様子の想定

大膳野南貝塚付近は千葉県でも有数の炉穴密集地帯です。

また土気付近とその北(大網白里市の西端付近)にも炉穴密集地帯があります。

これらの炉穴密集地帯は縄文時代早期の千葉県における有数の狩場であったと考えます。

狩の対象となる動物は下総台地中央部に広く生活していて、狩の時にそれらの動物を集めて追い立て、狩施設に追い込み、効率的な狩を行っていたと想定します。

狩場(狩施設)は動物を追い詰めやすい特有の地形があり、同時に陥穴を設置していました。

この時代は縄文海進がピークに達した時代であり、海面が台地谷津に最も深く入り込んだ時代ですが、炉穴分布は海とはあまり関係しないで、もっぱら動物の狩との関わりで存在していると考えます。

なお、大膳野南貝塚炉穴出土土器の1つが貝殻で模様をつけているので、炉穴を設置利用した縄文人が貝を食していたことは間違いありません。


2017年3月1日水曜日

大膳野南貝塚 炉穴(写真観察)

2017.02.28記事「大膳野南貝塚 炉穴」で紙上観察した7つの炉穴について、写真と対照してみました。

炉穴の出土状況について感覚的に理解するとともに、何か気が付くことがあるか、写真を観察してみました。

1 炉穴分布図

炉穴分布図

2 炉穴の写真観察

掲載写真はすべて「千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書 第Ⅳ分冊-写真図版編-」から引用したものです。

ア 3号炉穴

3号炉穴

3号炉穴写真

3号炉穴出土土器写真

3号炉穴出土土器写真

煮炊きのために土器を置く場所で土器片が発掘されました。

炉穴の廃絶時に土器片をわざと置いたのかもしれません。

土器片が激しく割れているのに、バラバラになっていないで、元の破片の形で出土するのは何故でしょうか。

恐らく土器片を投げ入れて、その衝撃で割れたのですが、狭い炉空間ですからバラバラにならなかったのだと思います。

この炉穴を廃絶する時に、「記念」として土器片をわざわざ投げ入れたと考えます。

あるいは土器片を投げ入れてからその上を土で埋戻し、その時埋戻し圧力で土器片が割れたのかもしれません。

この炉穴は旧石器時代と同じように狩場の中に狩の後に設けたものと考えますから、この場所から狩人達が退去する際には、後の狩の邪魔にならないように埋め戻したと考えることも、あながち根拠のない想像とはいいきれません。

土器が割れているのにバラバラに散乱していない理由は現場発掘担当者なら判っているにちがいありません。

この炉穴は段差を利用している炉穴のようです。

イ 9号・5号炉穴

9号炉穴

9号炉穴写真

穴の大きさから、人が1人で火の面倒をみて、その背後に食料材料、薪、予備の土器などを置いていたのでしょうか。



5号炉穴

5号炉穴写真なし

ウ 1号・4号・8号・6号炉穴

1号炉穴

1号炉穴写真

1号炉穴出土土器写真

1号炉穴出土土器写真

土器出土位置はB炉穴の薪をくべる場所付近です。火の世話をする場所の背後空間に薪や調理材料、予備土器などを置いていたと想像します。

土器片は炉穴廃絶時にわざと置いた(意味を込めて置いた)のかもしれません。

土器片が2枚重なっていることもわざとらしさを感じます。

またそれぞれ細かく割れているのに、バラバラにならないで破片としての原型を保っていることも着目すべき特徴です。

炉穴廃絶時に土器片を置き、その上から土で埋戻し、その時踏圧や土圧で割れたと考えることが自然な思考です。

土器片を投げ入れて割れたとすれば、少なくとも上にかぶさる破片はバラバラになります。割れ目はあるけれども破片にならない状況は、埋め戻される際に圧で割れたと考えると矛盾がありません。

炉穴廃絶時に一種の祭祀(儀式)的行為があったと想像します。


4号炉穴

4号炉穴写真

4号炉穴出土土器写真

4号炉穴出土土器写真

土器は炉穴覆土層途中の半分埋まった時点頃の層位から出土しています。

廃絶してしばらく経った炉穴に、意味を込めて(壊れた)土器を埋めた(投げた)ように感じます。

他の炉穴から少数の土器片が出土し、恐らく炉穴廃絶時の「祭祀道具」として使われたと想像していますので、4号炉穴も土器という道具の送りという意味ではなく、炉穴の廃絶(炉穴の送り)の祭祀道具として土器が使われたと考えます。

土器がゴミとして捨てられたものとは考え難いとします。

なお、炉穴のおくり(「ものおくり」と同じように身近な施設にも「おくり」があったと考えます。)の「もの」ならなおさらのこと、万が一ゴミ捨てであっても廃絶した炉穴に壊れた土器を埋める(投げる)という事実は、この付近に縄文時代早期後半の縄文人が頻繁に、あるいは長期間生活していたということを示し、定住的要素の濃い生活をしていたことが忍ばれます。



8号炉穴

8号炉穴写真

8号炉穴出土土器写真

8号炉穴出土土器写真

出土状況写真から、土器片は底面そのものではなく、覆土層の途中から出土しているようです。

4号炉穴と同じように、廃絶してしばらく経った炉穴に、意味を込めて(壊れた)土器を埋めた(投げた)ように感じます。



6号炉穴

6号炉穴写真

6号炉穴出土土器写真

炉穴写真から炉穴底面から土器が出土しているように見えます。

そうであるなら、やはりこの土器片も炉穴廃絶時の祭祀に使われた「もの」であると想像します。

土器片を記念に置いて、炉穴の使用を終結し、おそらく(全部ではないにしても)埋め戻したと想像します。

3 感想

写真を観察して、土器片が割れているにも関わらずバラバラになっていない状況に気が付き、それを引き金にして、土器片が炉穴廃絶祭祀(儀式)につかう「もの」であるという想像をしました。

100%的外れの想像ではないような予感はします。

「千葉県の歴史 通史編 原始・古代1」(千葉県発行)に出てくる「ものおくり」は「道具のおくり」についてについて述べています。

同じように身近な「施設のおくり」もあったに違いないとかんがえますので、「おくり」に関する学習を深めたいと思います。

写真を観察して、予想外に思考を深めることができました。