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2019年6月29日土曜日

関山式土器 観察記録3Dモデル

縄文土器学習 167

この記事は2019.05.09記事「関山式土器 神門遺跡及び取掛西貝塚」の追補記事です。
千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室に展示されている縄文早期、前期土器の観察記録3Dモデルが出来ましたので、順次掲載し検討を加えています。

1 観察記録3Dモデル

関山式土器 神門遺跡 観察記録3Dモデル 
千葉県教育委員会所蔵 
撮影場所:千葉県教育庁文化財課森宮分室 
撮影月日:2019.05.27

(自動的に張り付いた(ラップされた)写真のピントが甘いものになっていて残念な3Dモデルになっています。ピントのあった写真を選別して張り付ける(ラップする)テクニックを習得次第作り直す予定です。)

関山式土器 神門遺跡 
千葉県教育委員会所蔵 

2 繊維痕(雌型)観察
関山式の頃が繊維土器の最も盛んであった時期です。

土器外面繊維痕(雌型)
粘土の中に混じっていた植物繊維が土器焼成時に燃えて、その痕が雌型の微細空洞となり無数に観察できます。長いものは横走しているものが多くなっています。土器を作る際に表面を横方向に撫でたのでそれにつられて繊維が横走したと考えられます。

土器内面繊維痕(雌型)
土器内面にも横走する繊維痕である微細空洞(雌型)が観察できます。

小林達雄編「総覧縄文土器」の「繊維土器」の項によれば、繊維は林床に堆積し分解が進んだ落葉の可能性がたかく、実験によれば粘土1㎏に対して4割の繊維を入れたと想定されるとしています。また繊維を入れた粘土を寝かせてバクテリアを発生させ、粘土の粘性を増大させた可能性が述べられています。さらに繊維が燃えて微細空洞が沢山出来るので、煮沸容器としての熱伝導効率向上も推察されています。

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関山式土器展示の様子

2019年5月10日金曜日

浮島式土器 神門遺跡ほか

縄文土器学習 115

縄文土器を形式別に観察しています。
この記事では千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室に展示されている縄文前期浮島式土器4点を観察します。

1 浮島式土器展示の様子
展示室の早期前期土器展示コーナーには浮島式土器が4点展示されていますのでア~エの符号をつけて区別して観察します。

千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室における浮島式土器展示の様子

2 浮島式土器 ア の観察

浮島式土器 ア 千葉市神門遺跡出土 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示 

浮島式土器 ア 上半部拡大(写真色調整) 千葉市神門遺跡出土 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示

櫛歯状具でつけたような平行沈線文蛇行曲線が描かれ、重ね書きも見られます。この沈線文が貝殻を利用したものであるかどうか、知識がないのでわかりません。しかし下部に波状貝殻文がありますから、貝殻片を合わせたつくった櫛歯状具かもしれません。 

浮島式土器 ア 下半部拡大(写真色調整) 千葉市神門遺跡出土 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示

上下方向に波状貝殻文が2条見られます。

3 浮島式土器 イ の観察

浮島式土器 イ 佐原市毛内遺跡出土 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示 

胴部を回るように波状貝殻文が施文されています。

4 浮島式土器 ウ の観察

浮島式土器 ウ 佐原市毛内遺跡出土 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示 

胴部を回るように波状貝殻文が施文されています。

5 浮島式土器 エ の観察

浮島式土器 エ 佐原市綱原屋敷遺跡出土 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示

縄文はありますが、貝殻文は観察できません。(写真が鮮明でないことが理由かもしれません。)

6 浮島式土器の印象
貝殻文が文様のメインになるということは、貝が生活の中で大きな比重を占めるようになったからであると考えました。
しかし、並行土器や後代土器では貝殻文がメインとしては消えますから、なぜ貝殻文になったのか興味が湧きます。

7 参考 「日本土器事典」の浮島式系土器群記述抜粋
「浮島式土器は、利根川下流域の茨城県、千葉県などを中心とする関東地方東部および東北地方南部にまで分布するもので、関東地方西部から中部地方にかけて見られる諸磯式土器に併行する土器型式である。
浮島式、興津式は、竹管と貝殻により施文された土器群であり、各種貝殻文の施文が諸磯式土器群との相異である。
これらの土器群は、文様などの分類については整理されている。地文に撚糸文か貝殻文が施され、半戴竹管による肋骨文の類、平行沈線が同部上半に施されている類、変形爪形文の類指あるいは棒状工具による圧痕文の類、三角文の類などである。しかし、それらの推移、組合わせについては整理する必要性、可能性を持っている。」
「日本土器事典」から引用

8 浮島式土器の較正年代

浮島式土器の較正年代
小澤政彦先生講演「東関東(千葉県域)の加曽利E式」資料(2019.02.24)では浮島式土器に並行する諸磯式土器の較正年代が6080~5530年前calBPとなっています。

次の記事で浮島式土器の千葉県域分布を検討します。
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学習チェックリスト

2019年5月9日木曜日

関山式土器 神門遺跡及び取掛西貝塚

縄文土器学習 114

縄文土器を形式別に観察しています。
この記事では2箇所の展示施設で観覧した縄文前期関山式土器2点を観察します。

1 関山式土器(千葉市神門遺跡出土)の観察

関山式土器 千葉市神門遺跡 千葉県教育庁文化財課森宮分室展示室展示

2 関山式土器(船橋市取掛西貝塚出土)の観察

関山式土器 船橋市取掛西貝塚出土 船橋市飛ノ台史跡公園博物館企画展(2019.02)展示 ガラス越し撮影

関山式土器 船橋市取掛西貝塚出土 船橋市飛ノ台史跡公園博物館企画展(2019.02)展示 ガラス越し撮影

関山式土器 船橋市取掛西貝塚出土 パンフレット「ふなばしの遺跡」から引用

3 関山式土器の印象
繊維土器であり黒っぽく、表面がザラザラしているような印象を受けます。しかし、下に引用した「日本土器事典」の記述では緻密で磨き上げたような土器もあるとのことです。離れた場所やガラス越しの土器観察では本当のことは判りません。手にとって手触りを味わいながら子細に見るることが本来の観察です。
取掛西貝塚出土土器は片口土器であり、関山式土器の時代にのみ流行したとのことです。

4 参考 「日本土器事典」の関山式土器記述抜粋
「関山式土器は、花積下層式土器の系統を引き継ぎながら、着実に羽状縄文系土器を完成させた。口縁部文様帯には半戴竹管が多用されるようになり、バラエティーに富んだ幾何学的文様が施され、胴部には単節、異条、付加条組紐などの多種の縄文原体が羽状、菱形状に施され、ループ文なども多用されている。また、土器の内外面とも丁寧な磨き調整が行なわれ、器壁は固く密であり、現在でも光沢を保っているものも見られる。
器形
花積下層式と異なり、関山式の中には深鉢以外の器種が多く見られるようになり、縄文時代、使用目的により明確に器種を分化させた最初の土器型式である。大小の深鉢、鉢、そして本型式のみに特徴的な片口土器である。器形は胴部上半から大きく外反するものと、ほぼ直線的に外傾するものが基本であり、片口土器は砲弾形を呈するものが多い。大きく外反するものは波状口縁を呈するが口縁頂部は双頭のものや粘土紐が貼付されているもの、キザミを有するものなどがある。」
「日本土器事典」から引用

5 関山式土器の較正年代

関山式土器の較正年代
小澤政彦先生講演「東関東(千葉県域)の加曽利E式」資料(2019.02.24)では関山式土器の較正年代は6700~6445年前calBPとなっています。

6 関山式土器の分布
私家版千葉県遺跡データベースでは関山式土器は135レコードがヒットしました。その分布図を次に示します。

関山式土器出土遺跡
関山式土器分布をほぼ踏襲して黒浜式土器が分布します。
2019.05.08記事「黒浜式土器出土遺跡の分布」参照

7 参考 神門遺跡の場所と情報

ちば情報マップ 埋蔵文化財包蔵地より
神門遺跡からはイルカの解体跡が出土しています。
2018.09.05記事「事例学習 神門遺跡」参照

取掛西貝塚の場所と情報は2019.05.03記事「東山式土器 取掛西貝塚」に掲載済。

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学習チェックリスト

2018年9月5日水曜日

事例学習 神門遺跡

村田川河口低地付近縄文集落の消長分析 8

1 神門遺跡の概要
都市小河川改修事業と都市計画道路建設事業に関わる区域の発掘が1987年~1988年に実施された。
調査は,地表から1.0~1.3mの厚さで堆積する水田耕作土などのかく乱層の除去から始まった。その後に調査区西側で南に延びる砂堆を検出するとともに,調査区中央から東寄りにかけて,本遺跡の中心的部分を占める縄文早・前期の貝塚と,早期から中世戦国期までのピート質・シルト質・ 砂質などからなる33枚の遺物包含層を検出した。このうち貝塚形成期以降, 中世戦国期までの堆積は10枚の層が認められており,西側砂堆上には古墳時代以降の溝と奈良時代以降の畦畔が検出された。

神門遺跡の位置

2 貝塚
貝塚は,調査区西側に検出された砂堆の内側に広がる後背湿地に,貝が堆積して形成されたものであり,上部貝層と下部貝層の2つのブロック層に分けられるもので, 12枚に大別できる層から構成され,これらはさらに185層に分層することができた。
貝層の形成時期は上部貝層11枚の大別層のうち,上位の4層までが前期中葉期, 5層以下11層までが前期初頭期に位置づけられ,下部貝層の12層が早期後半茅山式期に属するものである。
貝類の組成は,いずれの層でも中型・大型のハマグリが主体を占め,小型・中型のハイガイやマガキをともない,稀にオキシジミがまじっている。

遺構分布状況 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

貝層の断面 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

3 集石跡
集石跡は,貝塚の西側で確認した南に延びる砂堆上をはじめ,貝塚の東南側に広がる砂質シルト層面,貝層ないし間層のシルト層中に形成されている。2度の調査で計50基が検出されている。形成時期は,すべての集石跡から土器などの遺物が出土するわけではないので確定できないが,集積跡の検出面の相違などから判断して,早期後半から前期末葉の6つの時期に形成されたものと考えられる。内訳は早期後半茅山式期6基,前期初頭花積下層式期22基,前期前半関山式期7基,前期中葉黒浜式期9基,前期後半浮島式期1基で, このほかに前期末に属する1基,不明4基がある。検出数が最も多い前期初頭花積下層式期の集石跡は,貝層面のほか貝塚西側の砂堆面, 貝塚西南側のシルト層面に貝層を取り囲むように展開し,本貝塚と深くかかわりながら形成されたものと考えられる。
浅い掘り込みを有する集石跡のなかには,焼けた石にまじって焼土・灰・炭化物などが含まれるものがあり, 火の使用とかかわりをもつ施設であった可能性が高く,隣接する貝塚との関係などから類推すると, 生活を支えるために用いられた共同の調理用施設のような遺構と考えられる。

集積跡の分布 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

4 イルカの解体跡と魚骨集積
調究区東寄りの上部貝層中から、 イルカの解体跡と魚骨の集積が検出されている。イルカの解体跡は,貝層の11層下部の緑灰色シルト質細粒砂層上面から検出されたもので,層位的には花積下層式期で,南西から北東方向に傾斜する堆積層の上面に長さ約11m, 幅約2mの範囲に分布している。標高は2.7~3.2mである。
カマイルカの頭骨嘴部分には,解体痕とみられる切痕も認められ,出土状態から考えて, この場所は解体などの場所として使用されていたことを示しているものと考えられる
魚骨の集積は、…魚種はクロダイ属が全体の約9割を占めて最も多く,マダイ・コチ類がこれにつぎ,わずかにサメ類・エイ目・ボラ科, 淡水のコイ科などが認められた。貝塚を残した人々は, タイ科の魚類を好んで捕獲していたことがうかがわれ, 食生活の一端を示す興味ある資料といえる。

イルカ解体跡 魚骨集積状況 「千葉県の歴史 資料編 考古1(旧石器・縄文時代)」から引用

5 感想
早期後半から前期末頃まで続き、前期初頭を最盛期とする漁業拠点遺跡です。この遺跡は砂堆の背後で直接海面に接している天然の港であったと考えられます。イルカ、クロダイなど比較的沖合まで出て漁をして持ち帰った獲物を解体したり、保存食品に加工したりする産業遺跡であると考えることができます。
集石跡を「石焼鯨」製造装置であると考えると、イルカ解体跡出土と結びつき、この遺跡の特徴を浮き彫りにすることができると考えます。
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●石焼鯨 Wikipedia 鯨のジャーキー による
いしやきくじら。熱した石の上でクジラの切り身を炙(あぶ)り、脂を取ったあとのクジラ肉を干したものとされる。とても硬い干し肉で、熱い灰で温めたり、水で戻して食すると伝わる。北海道・利尻島のアイヌの伝統食でもあり、内地との交易品であった。
1696年に泰山(利尻山)に漂着した朝鮮人が残した『漂舟録』には、鯨の干し肉が大量に積まれていたことが記されており、当時の松前名産の石焼鯨だったと考えられている。この時、朝鮮人を世話したアイヌは、飯(米や穀物)ではなく「魚汁一腕と鯨の干肉何切れか」を朝鮮人へ食事として与えたと伝わる。
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この「漁港」を利用する人々の母集落が直近台地上にあるのか興味が湧きます。
この貝塚からイボキサゴの出土がなく、同じ時期にイボキサゴが採貝されていたのかどうか調べることにします。