2020年6月15日月曜日

縄文晩期 熱を受けた磨製石斧2点(千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 20

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている「熱を受けた磨製石斧」2点の観察記録3Dモデルを作成して、その3Dモデルを見ながら派生する思考を楽しみました。

1 縄文晩期 熱を受けた磨製石斧(千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居) 観察記録3Dモデル

縄文晩期 熱を受けた磨製石斧2点(千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 41 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 磨製石斧の被熱について 説明パネルによる思考
企画展説明パネルでは石斧2点と石剣3点の被熱について「住居が使われなくった際に、何らかの祭祀行為が行われた結果かもしれません。」と書いてあります。この記述からは、例えば次のような想定ができるかもしれません。
住居の住人が集落の有力者で磨製石斧や石剣を所持(管理)していた。その集落有力者が亡くなりその住居が取り壊されたので、所持していた磨製石斧や石剣を焼いて埋め、故人の弔いとした。故人とともに貴重な磨製石斧や石剣を一緒にあの世に「送った」ということです。
このように考えると、磨製石斧は故人とともに送るために被熱したのであり、それ自身は本来的に実用具であり祭具ではなかったと考えます。

イ 磨製石斧の被熱について 石剣や磨製石斧がまだ祭具としてアクティブであるとする思考
石剣も磨製石斧も祭具として使われていたと考えます。
祭具の具体的使い方はわかりませんが、炉の回りで炉の火を軸に祭祀が展開され、その際石剣(あるいは磨製石斧)が火の近くに置かれて祭祀が進行したと想定します。したがって祭祀が行われるたびに石剣(あるいは磨製石斧)が徐々に被熱し劣化していったものと想定します。(つまり石剣なり磨製石斧なりが最後にその機能を剥奪されるときの焼き(お焚き上げ)ではなく、祭祀ごとに火の近くに置かれるという状況を想定します。)
このように想定すると、出土した磨製石斧と石剣はまだ祭祀道具として生きている状態であり、出土した状況は祭具の保管であると考えることができます。
磨製石斧が樹木の伐採や木材の加工のための実用具ではなく、対人戦闘武器として意識される状況が晩期に生まれていれば、石剣と磨製石斧が祭具として一緒に使われた状況を考えることが可能になるかもしれません。

2020年6月14日日曜日

縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 19

加曽利貝塚博物館で現在開催されている企画展「特別史跡加曽利貝塚令和元年度発掘調査速報展」で展示されている石剣3本の観察記録3Dモデルを作成して、その3Dモデルを見ながら派生する思考を楽しみました。

1 縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文晩期石剣3本 (千葉市加曽利貝塚 85号竪穴住居跡) 観察記録3Dモデル
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
 3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 53 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 感想
ア 石剣について
石剣と分類される石器器種の意識的観察は初めてです。石棒の流行が静まってから石剣の流行が始まるので石棒が変容したもの(石棒から交代したもの)のようです。形状等の分類はともあれ、石剣の意義(利用)についての歯切れのよい説明には専門書からはありつけませんでした。
石剣が刃部をイメージして扁平につくられていることが正しいとするならば、大陸の青銅器刀子のイメージを投影してつくられているという説は重要な説だと思います。
縄文晩期に大陸刀剣の姿イメージが縄文人に影響を与えていたとすれば、縄文人本来が持っていなかった対人武器へのあこがれとか、武器使用による富獲得の願望とかが芽生えていた可能性があります。
縄文人男性が思想的に弥生文化を受け入れる端緒がつくられた状況を石剣登場が物語っているのかもしれません。

イ 石剣入手のために用意した交換財
石剣の製造元は秩父や群馬などの石剣製造専門集団で、その集団作成石剣が流通ルートを通して加曽利貝塚村が入手したものと考えられます。その際加曽利貝塚村はどのような交換財をどれくらい提供したのか興味がわきます。詳細はわかるはずはありませんが、それを思考しておけば、いつかその思考の確からしさを少しづつ向上させることができるにちがありません。
1)石剣1本つくるのに素材石材の入手・粗割→削り→磨き完成までに2週間×1人の労力がかかると想定(空想)します。(現代風に言えば製造元に支払う経費)
2)石剣1本が秩父や群馬から東京湾岸まで流通ルートをたどって運搬される労力に2日×1人の労力がかかると想定(空想)します。(現代風に言えば運搬者に支払う経費)(実際の運搬時間は10日ほどかかって、同時に石剣5本を運搬できると仮定)
3)1)と2)から石剣1本を入手するための交換財は加曽利貝塚住人が16日間労働して得られる財ということになります。
もし干貝や干物などの海産物を用意してそれで石剣1本を入手しようとしたら、その量が16日間労働に対応する量であるとするならば、どれほどになるでしょうか。今即座にイメージできませんが、人が荷物で普通に担ぐ量(20kg)くらいかもしれません。
石剣3本が気前よく焼かれて埋置(財としては放棄)されたのですから、晩期加曽利貝塚村のゆたかさの一端が垣間見えるようです。

ウ ゆたかさ指標としての石製祭具率
加曽利貝塚付近では石は取れないので石製品はほとんどすべて「輸入」したことになります。石製品のうち祭具(石剣など)は食糧生産にかかわらないので、その多寡は「村のゆたかさ」指標になる可能性があります。海産物や堅果類や獣肉などの食糧、あるいは漆製品など付加価値の高い物、さらには「嫁」まで含めて交換財になるものが豊富であれば石製祭具を多数用意できます。
石製品における石製祭具率を時系列的に調べれば、村の豊かさの時間的変化を、空間的に調べれば周辺村の経済力分布が判るに違いありません。

エ 石剣の被熱と3本一緒に出土した理由
展示パネルに次の説明と写真が掲載されています。

展示説明
企画展展示パネルから引用

85号竪穴住居跡(晩期)石剣の出土状況
企画展展示パネルから引用

説明から石剣の被熱は建物を燃やした時の被熱ではないようです。
石剣出土状況写真をよく見ると、石剣は床直面ではなく、覆土層の中から出土しているようです。ということはこの竪穴の建屋が取り払われてから時間が経過して、ある程度覆土が積もってから、この場で石剣を焼く行為のある祭祀が行われたか、あるいは別の場で焼かれた石剣がこの場に持ち込まれたかどちらかだと想像します。
石棒や石剣が祭祀で使われるとき、1回の祭祀の最後に被熱するような状況を想定してみます。つまり多数回の祭祀で石棒や石剣は何回も被熱するという状況です。そして最後は割れて道具としての寿命が尽きるという状況を想定をしてみます。
このような状況を想定すると、出土した石剣はまだ道具として機能しているモノになります。
3本も一緒にあるのですから、この竪穴住居祉が祭具保管場所だった可能性もあり得ると考えます。
廃竪穴住居の建屋を取り壊して穴になった部分に柱なしの簡単な屋根をかけて作った保管庫であれば、そこに風で泥がたまり、その泥の上に祭具が置かれた可能性があります。
さらに空想すれば、建屋のある廃竪穴住居を保管庫として利用しても、人のすまない竪穴住居ですから風で内部に泥が沢山溜まります。その床面に置いた(あるいは台等の上に置いた)石剣は何度も出し入れしている間に泥の上に位置することになります。集落が消滅するとき、この保管庫がそのまま放置されれば、建屋や台の木材は全て消えて、石剣だけが覆土中から出土することになります。

2020年6月12日金曜日

みみずく形土偶と山形土偶 観察記録3Dモデル

縄文土器学習 408

再開加曽利貝塚博物館の新ショーケースに展示されているみみずく形土偶と山形土偶の観察記録3Dモデルを作成し、じっくり観察しました。

1 みみずく形土偶と山形土偶 観察記録3Dモデル

みみずく形土偶と山形土偶 観察記録3Dモデル
みみづく形土偶:縄文後期安行2式、千葉市加曽利貝塚 南貝塚史跡整備第2調査区
山形土偶:縄文後期加曽利B3式、千葉市加曽利貝塚 南貝塚(Ⅴトレンチ)
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 93 images

展示の様子

展示の様子 加工グラフィック

動画

2 参考 安行系みみずく土偶 観察記録3Dモデル

安行系ミミズク土偶 下ヶ戸貝塚 観察記録3Dモデル
撮影場所:我孫子市教育委員会1階ロビー
撮影月日:2019.08.20
ガラスショーケース越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.506 processing 30 images

3 参考 山形土偶 観察記録3Dモデル

縄文早期前半「早期の土偶」(千葉市中鹿子第2遺跡)外土偶2点 観察記録3Dモデル
左から縄文早期前半「早期の土偶」(千葉市中鹿子第2遺跡)、縄文中期前半「中期の土偶」(千葉市柳沢遺跡)、 縄文後期加曽利B2式山形土偶(千葉市内野第1遺跡)
撮影場所:千葉市埋蔵文化財調査センター
撮影月日:2020年2月4日
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 45 images

4 感想
みみずく形土偶の展示説明が加曽利貝塚博物館により撮影時のものから次のように訂正されました。
縄文後期安行2式、千葉市加曽利貝塚 南貝塚史跡整備第2調査区
山形土偶は赤彩されています。

鳥浜貝塚出土石斧柄

縄文木製品学習 12

鳥浜遺跡に関する一般解説書を入手して学習を進めていますが、石斧柄が沢山出土していて、石斧柄の作り置きなどの活動が判明していて興味深いのでメモします。

1 石斧柄の出土

鳥浜遺跡出土石斧柄の出土状況
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

石斧柄
田中祐二著「縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚」から引用

・縄文前期から縦斧と少数横斧が出土している。縦斧は樹木伐採、粗割用、横斧は手斧(ちょうな)で削り加工用。
・未成品が大量に出土していることから、柄の破損時にすぐ取り換えが可能になるようにあらかじめ未成品予備品を貯蔵し、計画的に製品化していた可能性が考えられている。

2 石斧柄の加工の想定

石斧柄の原木からの取り出し方と加工の想定
森川昌和・橋本澄夫著「鳥浜貝塚 縄文のタイムカプセル」(1994、読売新聞社)から引用

・柄の作り方は幹と枝を利用している。トリハマタイプと呼ばれる。
・台部を大きくして石斧を重いものにすることにより威力を増大させている。
・柄を細身にすることでしなやかに力を吸収して折れることを防いでいる。

3 感想
・石斧の展示物はこれまで何度も観察しましたが、道具としての石斧全体像を鳥浜貝塚資料から初めて知りました。
・多数の工夫が施されて石斧がつくられていて驚きます。特にソケット部の存在を今回初めて知りました。

2020年6月11日木曜日

縄文後晩期人口減少理由に関する学習メモ

縄文社会消長分析学習 27

縄文時代人口推計(小山1984による)
北海道と沖縄を除く

縄文人口のうち、縄文後期・晩期の人口減少について学習すべき項目(論点)についてメモを作成しました。
一般に縄文後晩期人口減少は「気候の寒冷化で、堅果類が少なくなって、それによる人口許容量低下にしたがって、人口も減少した」と考えられています。
この考えに強い違和感をもっていますので、その違和感解消のための学習項目です。

このメモは関東地方具体的には房総を念頭においています。

論点 1 寒冷化について
縄文海進ピーク後寒冷化があった。
詳しく時期別データとして知りたい。特に関東地方。

論点 2 寒冷化の堅果類生産量に対する影響
気候寒冷化による樹種の変化により、堅果類生産量(植物学的な意味での生産量)が少なくなったという定量的考察(植物学的データ)を見つけて知りたい。
→利用できる堅果類の生産量(植物学的生産量)がどのくらい減ったのか?

論点 3 気候寒冷化に伴う堅果類生産量減少が食糧確保に与えた影響
気候寒冷化に伴う堅果類生産量減少が食糧確保全体に与えた影響の評価を知りたい。

ア 気候寒冷化前の堅果類資源と人口との関係
・単位面積あたり堅果類生産量(植物学的生産量)Aは?
・単位面積あたり堅果類の採集可能率(利用率)Bは?
・一人あたり必要堅果類量Cは?

A×B>C×単位面積あたり人口 であるか?

イ 気候寒冷化後の堅果類資源と人口との関係

A×B<C×単位面積あたり人口 であるか? 本当か???

ウ 堅果類資源量人口制約説
「気温低下に伴い堅果類採集量がどんどん減って、それが制限因子となり人口がどんどん減った」という堅果類資源量人口制約説に疑問を持っています。その疑問解消を目指します。

論点 4 後期・晩期に人口減少した理由
論点3以外に次のような人口減少理由について学習することにします。
ア 中期中葉加曽利EⅡ式期の人口爆発の破綻(堅果類採集社会システム改善やアク抜き技術改善等による食糧確保増→人口急増→社会破綻※)
(※…社会破綻・崩壊のきっかけはわからないが、社会システム全てが崩壊した様子がうかがえる。)
→社会崩壊により人口が一挙に減少した。
イ 海面低下と河口域堆積による漁場の急減
縄文海進期にできた岩礁を含む複雑な入り江(リアス式海岸)が失われ、干潟がひろがる。漁獲量の多い漁場をことごとく失う。
→漁獲量の急減→摂取栄養が少なくなる?
ウ 縄文社会の生業選択
干潟化した海岸に進出して漁民になる選択を縄文人はしなかった。(海岸から離れてしまい漁業に適さなくなった台地貝塚が放棄され、居住が内陸に分散する傾向がみられる。また狩猟の比重が増える。(干潟の陸地化による獣増に対応?))
→漁業という生業を失った→摂取栄養が少なくなった?(一方獣肉は増える)
エ 疫病の流行
証拠はないが、後期以降大陸から断続的に疫病が来襲し、縄文社会に影響を与えた可能性があるかもしれない。
縄文晩期には結核が水田稲作技術とともにもたらされ、文化技術伝来よりはやく列島を席捲した可能性が高い。
オ 縄文社会が成熟して出生率が減少した可能性
食糧難のために(飢餓線上にあるために)人口が減少したのではなく、縄文社会が前期中葉(加曽利EⅡ式)までに成熟し、社会のステージが増殖から減少に転じたと考えることもできます。生存許容量の低下に支配されたのではなく、縄文社会自らに内在する出生率低下現象により人口減少した。(社会劣化あるいは社会寿命からの人口減少へのアプローチ)
→食糧があればどんな社会でも人口が増加するという単純思考から離れることが大切です。社会が成熟すれば人口減少が始まるとする社会ダイナミックスを想定する方が、縄文後期・晩期の人口減少は「食糧難」で人口減少したと考えるより、より合理的な仮説であような気がします。
→社会が成熟して人口減少するということは、社会が所持する完成した制度システム・技術などが機能しているのであり、一人一人の生活は「ゆたか」であり、生業に費やす時間・エネルギーよりも祭祀やイベントに費やす時間・エネルギーの方が重視されていたと想像します。


感想
縄文時代人口増減を1つの因子で説明することはあり得ませんが、世の中では、後晩期の減少理由多数因子を代表して「気温低下」のためといわれています。
私は「気温低下」説に大いに違和感をもっていますので、その説が本当かどうか納得できるまで学習を深めたいと思います。
まず論点3でどのような結論がえられるかで、その後の学習方向が決まります。

縄文後晩期が、ドンドン減少する堅果類のために人々が飢餓線上をさまよっていて「暗澹たる状況」(小山修三、1984)になっていて、その暗い状況の裏返しが祭祀活発化であったのか?
それとも人々の生活は意外と豊かで、食糧獲得以外の活動(文化的活動)に多くの時間とエネルギーを費やす余裕があり、それが祭祀活動活発化の正体であったのか?

現時点では縄文後晩期人口減少を一つの因子で代表させるとすると「縄文社会成熟による出生率低下」(縄文社会の賞味期限切れ)であると想像します。

参考
2020.06.09記事「縄文晩期と疫病(結核)
2020.06.07記事「縄文時代人口データ原典の考察
2020.06.04記事「縄文時代人口について問題意識をもつ
ブログ「芋づる式読書のメモ」2020.06.03記事「縄文海進と人口急増

2020年6月9日火曜日

縄文晩期と疫病(結核)

縄文社会消長分析学習 26

縄文時代人口消長について、原典ともいえる論文(小山修三他1984)から各種刺激を受けて自分の問題意識が急速に開発されています。
2020.06.07記事「縄文時代人口データ原典の考察」参照
関連して次の古い小山修三著作図書を入手したところ、疫病に関する記述があり、興味が湧きとても参考になりましたのでメモします。今後の学習に役立てたいと思います。

1 小山修三著「縄文時代 コンピュータ考古学による復元」(1984、中公新書)の入手と疫病に関する記述

小山修三著「縄文時代 コンピュータ考古学による復元」(1984、中公新書)
web古書店で入手しました。

●疫病に関する記述
「一方、後期の末から九州に大陸からさまざまな文化が伝播してきた。それは人の移動、すなわち大陸からの移民がもちこんだものであろう。
このような大陸との直接的な接触は、新しく社会に活力をもたらす水田稲作の技術とともに、(アメリカやオーストリアの原住民社会をおそつた天然痘やはしかのような)流行性の疫病をもたらした可能性が高い。しかも疫病の伝染する速度は、文化や技術の伝播よりもずっとはやかったはずである。
原始的な社会では、人の移動や接触は交通の困難な内陸部より、海岸に沿ってはやくおこる。疫病はそれと歩調をあわすようにひろがっていったのであろう。晚期の貝塚が全国的に減少する事実は、疫病の蔓延の軌跡を示しているようにみえる。そして疫病は、社会の脆弱な部分、すなわち人口が過密で慢性的栄養不足に悩む関東や中部地方山岳地帯で猖獗をきわめることになり、その社会を崩壊状態にまで追いやったのであろう。しかし、人口のもともと少ない西日本や、人口許容量と人口量のあいだに十分に余裕のあった東北地方は、それほどの打撃は受けなかつたと考えられる。」

要約すると、
・水田稲作技術とともに大陸から疫病がもたらされた。
・疫病は文化・技術の伝播よりはやく海岸にそってはやくおこった。
・疫病は人口が多い関東や中部山岳でひどかった。
ということになります。

あくまでも仮説としてかかれたものですが、肺結核(脊椎カリエス)が縄文人骨から見つかったことはなく、弥生時代人から見つかりはじめていることと符合します。
縄文晩期人口崩壊の大きな要因が大陸からもたらされた疫病(具体的には結核)であった可能性は濃厚であると考えます。

参考資料 鈴木隆雄著「古病理学が語る病気と障害」(Jpn J Rehabil Med 2015 ; 52 : 121.125)

2 関東の縄文晩期は北部九州の弥生早期
縄文晩期人口崩壊の大きな要因が大陸からもたらされた疫病(結核)であり、それは文化技術の伝来よりはるかに速いスピードで全国にひろまったとすると、つぎの縄文時代-弥生時代地方別対比表が大変興味深いものになります。

土器編年表(縄文後期~古墳初頭併行期)
国立歴史民俗博物館「データベースれきはく 縄文・弥生集落遺跡」の概要説明から引用

土器編年表(縄文後期~古墳初頭併行期) 部分・追記
国立歴史民俗博物館「データベースれきはく 縄文・弥生集落遺跡」の概要説明から引用

北部九州で水田稲作が開始されたころ南関東では土器形式安行3d・前浦Ⅰの時期であり、縄文晩期真っただ中です。
このころ大陸からの疫病がいち早く南関東に伝播し、南関東縄文社会の崩壊が決定づけられたというシナリオを考えることができるかもしれません。
あるいはもう少し早い時期にすでに疫病(結核)の来襲があったというシナリオが書けるかもしれません。

縄文社会後半の人口減少説明要因の大きなものとして疫病があると考えます。
貝塚の詳しい消滅時期を全国レベル分布図で調べることができれば、疫病の伝播を暗示するような情報を得ることができるかもしれません。

2020年6月8日月曜日

縄文晩期丸木舟(複製)展示状況3Dモデル

縄文木製品学習 11

再開加曽利貝塚博物館に落合遺跡説明パネルとその補助物として縄文晩期丸木舟(複製)が展示されていましたので展示状況の3Dモデルを作成しました。

1 縄文晩期丸木舟(複製)展示状況3Dモデル

縄文晩期丸木舟(複製)展示状況3Dモデル
匝瑳市米倉大境出土、長さ347㎝、幅42㎝
落合遺跡説明パネルとその補助物としての縄文晩期丸木舟(複製)展示
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 144 images

撮影写真の1枚

3Dモデルの動画

2 落合遺跡出土丸木舟
落合遺跡は大賀ハスが出土した有名な遺跡ですが、ここから出土した丸木舟は全て千葉県には所在しません。
落合遺跡出土丸木舟1隻について千葉県教育委員会の紹介で江戸東京たてもの園で閲覧(2011.06.26)したことがありますので、その時の写真を掲載します。

縄文後~晩期丸木舟(千葉市落合遺跡) 船首から
江戸東京たてもの園所蔵

縄文後~晩期丸木舟(千葉市落合遺跡) 船尾から
江戸東京たてもの園所蔵

説明プレート
江戸東京たてもの園

2011.08.09記事「縄文丸木舟と大賀ハス7」参照

2020年6月7日日曜日

縄文時代人口データ原典の考察

縄文社会消長分析学習 25

1 縄文時代人口データ原典
2020.06.04記事「縄文時代人口について問題意識をもつ」で、山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)で引用されている縄文時代人口データの原典(小山修三・杉藤重信「縄文人口シミュレーション」(1984、国立民族学博物館研究報告9-1))に幾つかの感想を持ちました。この原典は人口学等の図書でも一般的に使われ、社会で広くオーソライズされているようです。山田康弘著「縄文時代の歴史」でもこの原典の数値を利用して縄文時代の時期的、地方的変動を説明しいます。そのうえで、「小山の研究以降、20年以上(※本当は36年)が経過して遺跡数が増加している点を勘案してもこの大まかな傾向は変わらない。」と記述しています。

先史時代の人口と人口密度
小山修三・杉藤重信「縄文人口シミュレーション」(1984、国立民族学博物館研究報告9-1)から引用

先史時代の人口と人口密度の図化
原典データが示す縄文時代人口の期別変化、地方別分布のおおまかな様子は専門家からみて首肯できるデータであるということです。そうした人口時代観、大局観は間違いないと思います。

2 原典データは果たして正確か?
2-1 原典データの人口算出プロセス
原典データは大略次のようなプロセスで人口を算出しています。

ア 日本でもっともふるく、かつ比較的信頼性のたかい人口データである沢田吾一(1927)の奈良時代人口(国別租税高による推算)を基準とする。
イ 沢田データに時間的に近い土師期(古墳、奈良、平安)遺跡数をもとめる。
ウ データのそろう関東地方の遺跡当たり基準価Vを求める 
V=P/T 遺跡当たり基準価(V)=土師期の人口(P)/遺跡総数(T)
V=943000/5549≒170
エ 縄文各期の人口は例えば 縄文中期人口=縄文中期制限定数(C)×縄文中期遺跡数×V でもとめる
期別制限定数は結果蓋然性が高くなるような方法により早期1/20、前期1/7、中期1/7、後期1/7、晩期1/7、弥生1/3を設定する。(Shuzo Koyama 1979)

2-2 原典で使われた素データ
原典で使われた素データは次のとおりです。

素データ(Shuzo Koyama 1979から引用)

この素データで扱っている遺跡数は縄文全期トータルで27996、土師期トータルで11803です。

2-3 現在公表されている遺跡数
現在公表されている遺跡数情報の例として、つぎのデータをあげることができます。


文化庁資料「参考資料:平成24年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数
この資料によれば縄文全期遺跡数(北海道と沖縄除く)が83458、土師期遺跡数(北海道と沖縄除く、古墳+古代)が102133となります。素データのそれぞれ2.98倍、8.65倍となります。
土師期遺跡数が8.65倍になるのは原典と文化庁集計で何かの集計項目上の齟齬があるものと推察します。(文化庁集計には「古墳」もふくまれているものと推測します。)
しかし、縄文全期遺跡数は原典が作られて以降それだけ遺跡数が増えたことは確実です。
原典データよりも現在の遺跡数は3倍になっているのです。

3 感想
3-1 率直な感想
いくら「小山の研究以降、20年以上(※本当は36年)が経過して遺跡数が増加している点を勘案してもこの大まかな傾向は変わらない。」であるとしても、遺跡数が3倍になっているのですから、その遺跡数で再計算して、確かめておく必要があります。
遺跡数3倍で再計算しても前と同じような結果であれば、それで原典が素晴らしいことが確認できます。結果が違えば、正確な情報を得ることができます。

おそらく考古学界として発掘調査にほとんどのエネルギーが費やされ、全国レベルの遺跡数調査などは36年間ほとんどなされていないのだと思います。

因みに原典素データの千葉県分の縄文遺跡トータル数は903となっています。しかし2018年千葉県教育委員会資料では6680となっています。なんと7.4倍近くに増えています。千葉県の縄文遺跡が7.4倍も増えているのですから、いくら「遺跡数が増加している点を勘案してもこの大まかな傾向は変わらない。」としても、縄文時代人口データは早々に更改していただき正確性、詳細性を担保してもらいたいものです。

3-2 技術的感想
・縄文時代人口を奈良時代人口から「引っ張ってくる」のではなく、遺跡数・住居数・住居面積等からの積み上げ方式で計算することの方が重要であると考えます。奈良時代の人口-遺跡関係は定住が不完全な縄文時代の人口-遺跡関係と大いに異なると考えます。縄文時代の定住化の様相を踏まえて、縄文内部情報だけから人口推察することが重要であり、本筋であると考えます。
・現在の土地面積ではなく、その当時の土地面積で人口推測することが原則的な思考であると考えます。失われた遺跡(海底に水没した遺跡、沖積層に覆われた遺跡など)の推測は困難ですが、わからないことは「無いことにする」態度は格好のよいものではありません。
・詳しい情報のある狭い地域での遺跡数・住居数・住居面積・定住化の様相等を勘案して人口数推移をモデル的に検討し、そのモデル検討成果を広域地域に「のばす」方法もありうると考えます。

2020年6月6日土曜日

縄文晩期独鈷石(千葉市加曽利貝塚 南貝塚11区) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 18

2020.05.26から再開した加曽利貝塚博物館の新たなショーケースに展示された独鈷石のついて観察記録3Dモデルをつくり観察しました。

1 縄文晩期独鈷石(千葉市加曽利貝塚 南貝塚11区) 観察記録3Dモデル

縄文晩期独鈷石(千葉市加曽利貝塚 南貝塚11区) 観察記録3Dモデル
凸部・体部とも断面楕円形、両端がわずかに一方に傾く、先端は石斧刃部状、入念に研磨特に両端に顕著、黒色土層下部の晩期層から単独出土。(「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会))
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 121 images

展示の様子

独鈷石の挿図
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)掲載図を180度回転して引用

3Dモデルの動画

2 観察と感想
ア 独鈷石の意義
大工原豊 他著「縄文石器提要」(ニューサイエンス社)によれば独鈷状石器は柄を装着して使われたもので、儀仗の先端部に付される石製儀器と想定されると説明されています。

装着痕のある独鈷状石器
大工原豊 他著「縄文石器提要」(ニューサイエンス社)から引用

儀仗とは儀式に使う武器のことですから環状石斧などと同じ系譜であると考えます。
対人戦闘用武器が縄文時代列島に存在しなかったと考えると独鈷石も環状石斧などと同じく大陸からの移入文化であると想像します。
独鈷石の役割は罪人に対する制裁・処刑用刑罰具であったと想像します。制裁や処刑に実用具として使われるとともに、司法の象徴として機能していたと想像します。集落リーダーの司法的権威の象徴(司法的威信具)であったにちがいありません。
独鈷石は最後の縄文石器と呼ばれていますが、縄文晩期には大陸からの影響が断続的に存在していたことと独鈷石が生まれたことと関係あると空想します。
また、縄文後期から深まる社会劣化により治安等社会の乱れが増幅していたことと独鈷石誕生が関係あると空想します。

イ 3Dモデルの出来
撮影写真121枚を使い、3Dモデルはかなり出来の良いものになりました。

カメラ配置の様子

ウ 画僧処理による観察
Photoshop画像処理により観察しました。

Photoshop画像処理
現物を手に取ってその感触や重さや温度などを肉体的に観察できないので、その代償行為として視覚面における画像処理観察等をしています。いつかこの観察からなにかわかるかもしれません。新しい画像処理も試みてみることにします。


2020年6月5日金曜日

加曽利B3式期石棒2点(千葉市加曽利貝塚112号住居跡) 観察記録3Dモデル

縄文石器学習 17

ペア異形台付土器が出土して特殊遺構といわれた大型住居112号住居跡から2本ならんで出土した石棒の観察記録3Dモデルを作成しました。

1 加曽利B3式期石棒2点(千葉市加曽利貝塚112号住居跡) 観察記録3Dモデル

加曽利B3式期石棒2点(千葉市加曽利貝塚112号住居跡) 観察記録3Dモデル
東斜面北東部112号住居跡からペア異形台付土器(加曽利B3式土器)などと共伴して2本並んで出土。
長さ双方とも32~33㎝、緑泥片岩製。当該期の石棒の形態の基準となるものとして「加曽利型」という型式名が提唱されている。右は先端と亀頭冠部分に隆帯をもち、浅い印刻による玉抱対向三叉文を施す。赤色顔料が付着し、朱が検出されている。左は頭部先端と亀頭冠に2本の隆帯をもつ。先端部に摩滅・平滑化、体部の一部にやや平坦な二次加工(?)がある。被熱痕跡もある。(「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会))
撮影場所:加曽利貝塚博物館
撮影月日:2020.06.02
ガラス面越し撮影
3Dモデル写真測量ソフト 3DF Zephyr で生成 v4.530 processing 93 images

展示の様子

石棒の挿図
貝塚博物館紀要第8号から引用

3Dモデルの動画

2 観察と感想
ア 感謝
5月26日から再開した加曽利貝塚博物館で特設ショーケースで新たに展示されたものです。112号住居について検討して以来この石棒2点現物をどうしても観察したいと希望していました。いつか博物館に閲覧を頼もうかとまで考えていたのですが、突然実現したのでうれしい限りです。加曽利貝塚博物館に感謝します。
2020.04.08記事「大小ペア異形台付土器出土遺構のゾーニング

イ 3Dモデルの出来具合
3Dモデルの出来具合が全体として良いものになりました。床面と石器が融合してしまうようなこともなく、自分の学習用には使えるものになりました。左石棒の側面敲打跡もよくわかります。

カメラ配置の様子

ただ、右石棒亀頭部の模様が表現できませんでした。強い照明にカメラ設定が合っていないためです。暗い色の多い土器撮影用カメラ設定を石器撮影用設定に変更する必要がありそうです。

右石棒亀頭部模様を浮かびあがらせる画像解析(結果は十分に浮かび上がりませんでした)

右石棒亀頭部模様を浮かびあがらせる画像解析(結果は十分に浮かび上がりませんでした)

ウ 今後の検討
この3Dモデル観察を踏まえて、今後112号住居の意義について学習を進めることにします。まず、どのような状況が存在したので、この石棒や異形台付土器がその住居床面にあたかも使っている状況そのままの様子で残置したのかという点から考察する必要がありそうです。
112号住居跡の他の出土物や住居の様子などについても考察する予定です。