2020年4月8日水曜日

大小ペア異形台付土器出土遺構のゾーニング

縄文土器学習 394

加曽利貝塚特殊遺構(112号住居跡)から出土した大小ペア異形台付土器(夫婦土器)の学習を続けています。
この記事では同じ遺構から大小ペア異形台付土器(夫婦土器)以外の第3の異形台付土器が出土していますので、その様子を知ります。さらに遺物出土状況から特殊遺構のゾーニングを検討します。

1 特殊遺構から出土した第3の異形台付土器
1-1 「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)等の情報

出土遺物実測図
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用
「66は「床面上におよそ1.2m×0.55mの範囲内に点々と散乱した状態で出土した」とされる異形台付土器器である。口頸部と体部は接合せず、遺存する破片は二次焼成のため脆い状態で、とくに体部と口頸部破片下側の内面が著しい。この範囲の内側器表面はカーボンが染み込んだような光沢のある黒色を示している。
(文様詳細記載略)
『紀要8』では口縁部が欠損するものとして図化されているが、先述の内面の状態から、体部内で何らかの有機物を燻らせたと考え、遣存しているのは台部ではなく口縁部と判断し、『紀要8』の図を改変して掲載している。なお図の注口状突起左側の縁が、右側に比べて短いのは、欠損によるものである。」「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用

出土遺物写真
「縄文時代の技と祈り」(1995、八千代市歴史民俗資料館)から引用

1-2 考察
・大小ペア異形台付土器と第3の異形台付土器は器形の基本形が違うこと、第3の異形台付土器が破壊された状況で出土していることなどから、いわば別シリーズの異形台付土器であると考えます。第3の異形台付土器の存在が大小ペア異形台付土器が夫婦土器であるという想定に影響を及ぼすことは無いと考えます。
・紀要8で台部と考えた部分を「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)では口縁部と考え、その根拠として内面が二次焼成していて、そこで有機物を燻らせたという推測を根拠にしています。
・この有機物を燻らせたという推測に強い興味を持ちます。私は異形台付土器は大麻などを燻らせる(未発見で土器2つと紐で縛った大麻塊から構成される)実物装置のフィギュアと考えているので、フィギュア(イコン)で実際にモノを燻らせることは無いと考えてきたからです。
・異形台付土器が体部でモノを燻らせる実用物であるのか、強い興味が生まれる情報です。

2 遺物出土状況からみた特殊遺構のゾーニング
特殊遺構(112住居跡)の発掘状況写真に大小ペア異形台付土器と石棒2本が写っている写真を見つけ、さらに遺物出土分布図を「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)で見つけました。

特殊遺構発掘状況写真
「縄文時代の技と祈り」(1995、八千代市歴史民俗資料館)から引用

特殊遺構発掘状況写真
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用

加曽利貝塚特殊遺構の出土物
「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用・塗色

石棒と、石棒を擦るために使われたと想定される砥石が南部分の一角に集中して分布しています。
それと離れて大小ペア異形台付土器の大(男)がさらに離れて大小ペア異形台付土器の小(女)が分布しています。
この分布から特殊遺構には祭祀道具置き場という観点から次のようなゾーニングが考えられます。

加曽利貝塚特殊遺構の祭祀道具置き場のゾーニング(空想)
このゾーニングは祭祀道具置き場のゾーニングです。祭祀は住居中央で行われたと想像します。
石棒ゾーンと異形台付土器(男)ゾーンが隣り合っています。このゾーンの道具は男が主役で参加する祭祀で使うものです。その道具置き場の背後の側壁が最も高く、この場所がこの住居のいわば「上座」です。男が主役として参加する祭祀の位置づけが女よりも上位だったことがわかります。
女が主役として参加する祭祀の道具置き場は石棒ゾーンと異形台付土器(男)ゾーンの隣になります。

ただし、異形台付土器(男)を使う祭祀は男性主役の祭祀だと考えますが、その主催は女性だと考えています。一皮むくと男よりも女のほうが強かったような感覚を持っています。
2020.04.06記事「大小ペア異形台付土器(夫婦土器)を女性が作った意義

なお、「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)では特殊遺構について次のように検討記述しています。
「東傾斜面北東部に位置する112号住居跡は19m× 16mという非常に大規模な遺構である。『紀要8』の概報に際して飯塚博和が「発見当初は既知の遺構に比べてあまりにも大きすぎるので、あるいは、直径5m前後の住居址などの遺構が複合しているのかとも考えた」が「床面上の覆土が均質であり、遺構相互の切り合いなどの痕跡はまったく認められなかった。したがって単一の竪穴遺構であることを、一種の驚嘆をもって確認したのである」とした調査経過に、当時としては全く常識外れな大規模な遺構を調査した困惑と驚きが表現されていて、逆にこれ以前には通念に囚われて同種の遺構が見逃されていた可能性も大いに考えられる。『紀要8』刊行以来、これに近い規模の遺構の検出が続いていることからすれば、概報の果たした役割はきわめて大きかったと言って良いだろう。
「特殊遺構」として報告した後藤和民氏は「この加曽利貝塚という一つの集落においても、あるいは周辺の集落にとっても、特殊な存在であり、特殊な機能をもっていたと思われる。」とし、以来関東地方の縄文時代後期を代表する祭祀的性格を持った施設として扱われてきた。
阿部芳郎氏(2001)は「関東地方の縄文後期中葉から晩期中葉のいくつかの集落」で発見された「竪穴住居址に比較して、きわめて大形の竪穴構造の家屋」の機能を推測するにあたって、112号住居跡の「炉址と小さな焼土址の位置関係」と「床面から出土した遺物の種類や位置から推定される個々の場の機能についての類推」から、「中央部の大形の炉(中央炉)を取り囲むようにして、壁際周辺に周縁炉を中心とした祭祀ブロックとでも呼ぶべき空間が、あたかも連座するように配置される必要性が、この施設が竪穴住居とは異なった道筋をたどって巨大化する要因の1つであり、異形台付士器や石棒をともなう周縁炉は、2~5つ程度の集団の共同の祭祀の場として機能し、さらに周縁炉の数も建替回数に基本的には比例して増加している点でも、共同祭祀の執行を目的とした恒久的な施設であった」とし、こうした「大形建物址は、ある特定のムラにおいてのみ構築された可能性が高い」と、後藤氏の考えを更に発展させている。
今回、調査原図と出土遺物を検討した結果、帰属時期は本書で示して来た編年での加曽利B3式古段階に位置付けられること、概報において示されなかった小規模な炉が更に1基存在すること、比較的炉に近接した6本による主柱穴配置も想定しうる(ただし平面形から想定される軸と主柱穴配置から想定される軸が一致しない)こと、遺物出土状況に若干の修正(7-5 図)が必要なことが新たに指摘できるが、遺構の特殊性を更に強調する、付け加えるべき事実は見いだせなかった。」「史跡加曽利貝塚総括報告書」(2017、千葉市教育委員会)から引用

この記述からこの遺構が加曽利貝塚という集落の範疇を超えた広域祭祀の場であったことを理解することができます。
加曽利貝塚集落だけの祭祀の場ではなく、より広域地域の祭祀の場であったことは、この遺構が斜面に存在していて、貝塚本体に属していないことからもわかります。
なお、大小ペア異形台付土器とか、2本の石棒とかが、それぞれ特定の近隣集団に対応するのではないと考えます。加曽利貝塚集落を県都とする加曽利県があり、加曽利県庁所有の祭祀道具として大小ペア異形台付土器とか2本の石棒が常置されていたと空想します。(ただし、加曽利県庁=加曽利貝塚集落だったと思います。)


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